前回は、「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。わたしにとどまりなさい」という、有名なキリストの教えを、ご一緒に味わった。今日はその続きである。

今日の区分の最初の12節と最後の17節では愛の戒めが記されている。このように愛が強調されるのは、ぶどうの木の枝に求められていることは、この愛の実を結ぶことだからである。この実を結ぶとき、キリストが証され、神の栄光は世に現される。キリストは弟子たちが実を結ぶために「とどまる」という表現を11節まで11回使用していた。キリストにとどまることが実を結ぶ秘訣であり、また、愛の実を結ぶことがとどまっていることの証だからである。

「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです」(12節)。この戒めは13章34節で、「あなたがたに新しい戒めを与えましょう」と、「新しい戒め」としてキリストが語られた戒めである。なぜ新しいと言われているかと言うのなら、「わたしがあなたがたを愛したように」という条件がつけられているからである。この「わたしがあなたがたを愛したように」とは、いのちを捨てる愛である。キリストは今日の区分では「いのちを捨てる」ということを、はっきり口にされる。「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません」(13節)。この愛をキリストは十字架刑で実践されるわけである。

今日の区分では、「愛」とともに「友」ということばが特徴的である。キリストは「友」ということばを3回使用している(13~15節)。私たちは罪人である。けれども、キリストは私たちのことを友と呼んでくださる。神を信じた者、キリストを信じた者は、ふつう「しもべ」と呼ばれる。しかし、キリストはこの区分では「友」という用語をあえて選択されている。なぜだろうか。「友」と訳されているギリシャ語の<フィロイ>は、「愛する」を意味する「フィレオー」から派生している。「友」は「愛する者」と別訳できる。実は、この<フィロイ>ということばは、現代人が使う友ということばよりも、より親密な関係を意味している。現代では、例えば「メル友」というように、知り合い程度にも「友」ということばを使う。けれども、キリストは「親密さ」を言い表したかったわけである。この親密さということにおいて、キリストは私たちを友と呼び、私たちもキリストを友と呼ぶことが許されている。それは、キリストを愛し、キリストに愛されるという親密な関係である。その親密な関係を証するのが、愛の戒めを守るということである。「わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行うなら、あなたがたはわたしの友です」(14節)。

15節では、しもべと友の違いについて言われている。「わたしは、もはや、あなたがをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら、父から聞いたことをみな、あなたに知らせたからです」。友は親密な関係を意味する用語であるならば、友はその友に対して、自分の考えていること、自分のしようとしていることを、自己開示して告げるだろう。場合によっては、自分の秘密も打ち明ける。こうしたコミュニケーションが友情の本質である。互いのうちにあるものを行き交し合うという、心開いた関係がそこにはある。

旧約聖書においては、私たちを神さまと親しくなるように招いているみことばがある。詩篇25編14節を開いてみよう。「主はご自身を恐れる者と親しくされ、ご自身の契約を彼らにお知らせになる」。私たちは、主の心を共有し、主と一つ心で歩みたいと願う。その秘訣は、ここでは主を恐れることであると言われている(12節参照)。ここで、クイズを一つ。旧約聖書において、神さまに「友」と呼ばれた人物が二人いる。誰だろうか。アブラハムとモーセである。アブラハムに対して、神は「わたしの友」と呼んでいる。「わたしの友、アブラハムのすえよ」(イザヤ41章8節;第二歴代誌20章7節)またアブラハムは「神の友」と呼ばれている。「アブラハムは・・・神の友と呼ばれたのです」(ヤコブ2章23節)。それを象徴するエピソードは、神がソドムとゴモラを滅ぼす前に、「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか」と言われた、あの物語である(創世記18章16節~)。神さまはしようとしておられたことはソドムとゴモラを滅ぼすことであった。そこには甥のロト家族が住んでいた。神さまはアブラハムに対して、ソドムとゴモラを滅ぼすことを告げる。アブラハムは邪悪な町のためにとりなしの祈りに導かれる。そして、そこに住んでいたロトが救い出されることになる。モーセに関しては次のように言われている。「主は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセに語られた」(出エジプト33章11節)。モーセは神との親しい語らいをした。そして、神の戒めの実践に努めた。ヘブル語で「友」ということばは、「愛する」を意味する<アーヘーブ>から派生している。「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」の「愛しなさい」が<アーヘーブ>である。ヘブル語でも「友」は「愛する者」と訳すことができる。

旧約聖書で、友情の素晴らしい模範になっているのは、ダビデの友ヨナタンである。第一サムエル記には「ヨナタンは、自分と同じほどにダビデを愛した」(18章1節、20章17節)とある。「愛した」は<アーヘーブ>。ヨナタンは自分の身に着けていた上着やよろいかぶと、さらに、剣、弓、帯までも与えてしまう(18章4節)。これは自分自身を与えることのシンボルである。ヨナタンにとってこの愛の行為は、王位まで与えてしまうことを意味した。そして彼は父サウルがダビデを殺さないように、必死にとりなす。お父さん、ダビデに害を与えないでと。それによって父親から殺されそうになることまで経験する。ヨナタンはダビデのために愛の犠牲をいとわなかった。

キリストの場合、こうした友への愛は、私たちのためにいのちを捨てることによって表された。それは偶発的なことではなく、キリストの意志として、そうする、と決めておられていたことだった。キリストはすでに、「わたしが自分からいのちを捨てるのです」(10章18節)と宣言しておられた。キリストがご自分のいのちを捨てられたことが、私たちへの愛であったことを思うときに、そして私たちのことをも友と呼んでくださることを思うときに、私たちは、では現実的に、私はキリストの友となっているだろうか?と問いかけてみたい。その試金石は12節の愛の戒めを実践しているかどうかにかかっている。キリストの戒めを実践することがキリストの友の証である。

私たちは、現実の目に見える友という視点からも幾つかのことを考えてみたい。四つのポイントで考えてみよう。一つ目は、私たちはお互いのことをどれだけ知っているだろうか、ということである。性別、年齢、職業、あと詳しいことはわからない、そういう関係を主は望んではおられないだろう。よそよそしい関係ではなく、自分を開示し合って、喜びも悲しみもともにする関係を望んでおられるだろう。親密な関係を築くために、一緒に過ごす時間も大切にするはずである。ソーシャルディスタンスということばが定着してしまったが、あれは本当に、物理的距離を取るだけの話であって、お互いの心の距離感まで遠くしてはならない。そうならないための工夫が必要である。交わる時間を確保することは大切である。

二つ目は、私たちは祈りの友となっているだろうか、ということである。普段の祈りの時間に、どれだけ他の兄弟姉妹のために祈っているだろうか。また兄弟姉妹ともに祈る時間を持っているだろうか。とりなしの祈りは友の証である。祈りの課題を共有し合うこと自体、大切である。それはお互いを知ることにもつながる。

三つ目は、私たちは助け合っているだろうか、ということである。箴言18章24節に「滅びに至らせる友人たちもあれば、兄弟よりも親密な者もいる」とある。親密な友は、一緒に過ごすだけではなく、友が落ち込んでいるとき、慰め、励ます。病のときに支え役となる。罪を犯しそうなとき、諭す。その人のできない部分に手を差し伸べる、等の行動に出るだろう。

四つ目は、目がくらむような目標であるが、友のためにいのちを捨てる覚悟はあるだろうか、ということである。「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません」(13節)。ここでキリストは、最大級の愛について語っておられる。キリストご自身が私たちのためにこの愛を実践してくださった。私たちが、これを実践するというとき、対象は二つで一つである。どういうことかと言うと、まず私たちの友はキリストである。使徒たちのほとんどは、キリストのために殉教した。だが私たちの多くは、そのように召されているわけではない。キリストは言われた。これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのはわたしにしたのです」(マタイ25章40節)。キリストは、兄弟姉妹にすることがわたしにすることなのだと告げられている。キリストはこの告別説教においても、目に見える兄弟姉妹に対する愛を命じておられる。兄弟姉妹に対する愛を通して、キリストへの友情が表されるのである。14節では、「わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行うなら、あなたがたはわたしの友です」と言われ、このいのちを捨てる愛を、私たちに期待しておられることがわかる。ですから、12,13節のみことば(本日の中心聖句)を心に刻んでおこう。

最後に、私たちの共通の友であるキリストとの関係を改めて考えてみよう。16節をご覧ください。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めることは何でも、父があなたがたにお与えになるためです」。ここでは「選び」「任命」ということばを目にする。一般の友に対することばとは違う。戦友に対するようなことばである。キリストはここで、私たちに責任と自覚を与えるために、「選び」「任命」ということばを用いておられる。キリストが私たちを選んで、任命したのは、実を結ぶためである。その実とは、神のみわざとしての実、キリストのみわざとしての実である。「行って実を結び」とあるからである。また、これらの実は、キリストの名によって祈ることによって結ばれる。そして、これらの実の中心的成分は愛であるわけである。

私たちはキリストとの友情を培い、実を結んでいくために、一つのポイントに絞って考えてみたい。それは、友であるキリストとの交わりの時間を優先するということである。一般に、これは、祈りとみことばのデボーションタイムとなる。最善の友と交わるのが苦痛という人はいるだろうか。主は私たちをいのちを捨てるほどに愛してくださっているお方である。このお方との絆を強めることを心掛けたい。

ここで、中国の少数部族のリス族に福音を伝えたイゾベル・クーンという女性宣教師の、神学校時代のエピソードをお伝えしたい。彼女が学業とアルバイトの忙しさのために、主との交わりの時間を確保することに困難を覚えていた。彼女は一日一時間主と交わることに決めていたが、それを一度にとるのは不可能なので、朝30分、夜30分と分けて、主との交わりをしていた。ある日の晩、神学校で合同パーティが開かれることになり、彼女はパーティの最後にメッセージを取り次ぐように言われていた。けれども、彼女は前の週、メッセージの準備に一瞬の間イスに座る時間もないほど、勉強と仕事に追われていた。その日、アルバイトが終わって寮に着いた時には、夕食が始まる前だった。その後パーティが始まる。彼女は疲れ切ってお腹がペコペコだった。でも、メッセージの準備は何もできていない。パーティが終わって後片付けをして部屋に戻るのは12時過ぎとわかっていた。ということは、このままの調子で行くと、一日の終わりに待つはずの30分間との主との交わりを持つことはできない。夕食も食べたい、メッセージの準備もしなければならない、主との交わりもしなければならない。しかし、彼女にとって、使える時間は夕食の30分しかなかった。彼女に残されていた選択肢は三つだった。①夕食を食べ、お腹を満たす。②夕食を抜いて、メッセージの準備をする。③その30分を主との交わりにささげ、主を第一とする。

ここから、彼女のことばを述べよう。‟夕食のベルが鳴りました。同室の人は、食堂に降りて行ってしまいました。私は決断をしかねて、一瞬そこに立ち止まりました。それから、自分のベッドの横に、身を投げ出すようにして」ひざまずくと、すすり泣きながらささやきました。「おお、主よ。わたしはあなたを選びます!」あまりにも疲れていて、それ以上何も言うことができず、ただ主の前に身を投げ出しただけでしたが、その時ふたたび、主の臨在感が部屋一面に満ち溢れたのです。疲れと失神するような気持ちはすっかりなくなってしまいました。主のご愛に浸りきって、ゆったりとした気分になり、気持ちが一新されたのです。半分はひざまずき、半分は身を横たえたまま、何も言わずにただ主を愛し、主の優しさを飲み干している時、主は私に語りかけてくださいました。その晩のパーティの最後に語り継がなければならないメッセージのアウトラインとその大事な箇所を、主は静かに、一つずつ語ってくださったのです。それは忘れることのない経験であるとともに、忘れることのできない教訓でした。主を第一とすることには、常にその報いがあるのです。”

私たちは日々の生活の中で何を優先すべきか、その結果はどうなるのか、彼女の証は教えてくれている。私たちは主との親密な交わりをし、主の語りかけを受け、実を結ぶ備えをさせていただきたいと思う。