「我が家」と聞くと、わたしは「峠の我が家」というアメリカ民謡を思い出す。聴いた方、歌った方も多いだろう。日本語訳の一部を紹介しよう。

あの山を いつか越えて 帰ろうよ わが家へ
この胸に 今日も浮かぶ ふるさとの 家路よ
ああ わが家よ 日の光かがやく
草の道 歌いながら ふるさとへ帰ろう

キリストは2節で、「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります」と我が家について話され、この家にあなたがたを連れていくと言われている。では、今日の箇所を学んでいこう。

今日の箇所は、「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」で始まっている。キリストは弟子たちの不安、胸騒ぎを鎮めようとされている。弟子たちが不安になってしまったのは、キリストが国の中枢機関から命を狙われていて、いつどうされてもおかしくない状況にあったこととともに、13章33節の発言があったからである。「子どもたちよ。・・・わたしが行く所へは、あなたがたは来ることができない」。弟子たちは思ったわけである。「主は、私たちがついていくことができない所に行ってしまうと言われる。どういうことだ?主について行きたいと願っているのに、いったいこれからどうなってしまうんだ?」

私たちも、待ち受けている困難、予測のつかない将来を思って、心が騒いでしまうことがある。そんな時、私たちも、「神を信じ、わたしを信じなさい」という御声を聞く必要があるだろう。

弟子たちは、キリストが地上のどこかに行ってしまうことを思い描いたようだが、前回お話したように、キリストは十字架と復活後の昇天について言及されたわけである。キリストは今日の箇所で、私たちが天の我が家に帰る道について話されている。そこはキリストがおられる世界である。

「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです」(2節)。ここで「家」ということばは、当時、天の御国を描写するのに使われたことばである。また「父の家」というときに、それは神殿を表していた。神殿とは神が住まう所である。黙示録では天の御国の描写でこうある。「私は、この都の中に神殿を見なかった。それは万物の支配者である、神であられる主と、子羊とが都の神殿だからである」(21章22節)。天の御国では目に見える神殿はない。というか、いらない。神と子羊なる主キリストが神殿だからである。そこは主なる神の豊かな臨在で溢れている所である。キリストは「父の家」ということばで、地上の我が家ではなく、天の御国である我が家を意味させている。そこには、キリストを信じる者の「住まい」がたくさんある。

「住まい」<モネー>ということばには、「永久に、いつまでも」という意味を見出すことができる。だから、キリストが言われた住まいとは仮住まいではなく、永久的に住む住居と言えるだろう。そう思うと、地上の我が家も仮住まいにしかすぎないことがわかる。この<モネー>ということばは、永久ということとともに、もう一つ、「いっしょに」という意味合いを見出すことができる。弟子たちは、キリストとの関係が断たれることを恐れていたわけだけれども、キリストの父の家は、キリストといっしょの世界である。家に帰ったけれども、誰も住んでいない、空っぽ、それでは寂しい。帰りを待ってくれている人がそこにいて、「我が家」となる。灯りをつけて、部屋を暖めて、食事を用意して待ってくれている人がいる。それが我が家の良いところである。

ある重病の母親がいた。彼女は小さな娘と二人暮らしだったが、娘の面倒を見ることができないので、良くなるまでお願いしますということで、近所の知り合いのところにあずけた。ところがその母親は、良くなるどころか病状がますます悪化して死んでしまった。娘をあずかった近所の人は、最初、母親の死を告げられないでいた。その間、その少女を一度だけ、母親といっしょに住んでいた家に連れて行ったことがあった。その少女は、母親を見つけるために、最初、居間に入った。次に応接室。こうして家中、部屋から部屋へと母親を探して回った。けれども母親を見つけることができない。ついにこの少女はこう言った。「どこにいるの?わたしのお母さん?」そこでようやく、近所の人は真実を語った。その少女は、自分をあずかってくれたその人の家に帰ると言い出したそうである。その理由は、母親がいない家は魅力を失ったということである。人はよく天国を口にする。なぜ天国に思いを馳せるのだろうか。宝石のように光り輝く床や壁が天国を魅力あるものにするのだろうか。天国を魅力あるものにするものは何だろうか。天国を魅力あるものにするのはイエス・キリストという人格である。

キリストは御国のホームに招くために、「あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです」(2節後半)と言われた。私たちの罪のために十字架につき、よみがえり、天に昇り、場所を備えるという約束である。そこはキリストがおられる所である。

関節炎を患い、生活圏が自宅に限られていた貧しい女性がいた。彼女は癒えない痛みに悩まされていた。けれども、誰かが彼女に具合を尋ねないかぎり、自分からそうした痛みや悩みを口にすることはなかった。忍耐強い人であった。彼女はクリスチャンだった。彼女の死期が迫っていた時に、牧師が彼女に尋ねた。「イエスさまを愛していますか?」彼女は苦しんでいたけれども、目を輝かせながら言った。「はい、もちろんです。イエスさまといっしょにいることを願っています。イエスさまがわたしを家に連れて行ってくださることを切望しています」。彼女は自分の行先である我が家を確信していた。そこはキリストといっしょの住まいである。

3節では「わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに向かえます」とあるが、これは再臨の言及かもしれない。「また来て」がそれを暗示している。ある人たちは死を経験せずして、キリストの再臨の時に御国に入る。しかしながら、どの時代の人であっても、天の御国に入る条件は一つである。天の御国に至る道は一つだけである。キリストがその道なのである。

6節のキリストの宣言を見よう。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」。ここで、キリストは、ご自身について三つのことを宣言しておられる。

第一に、わたしが道である。キリストは天のホームに至る道である。高速道路をイメージしてみよう。誰でも自由にそこを通ることはできない。料金所があって、そこで料金を支払わなければならない。同じように、天のホームに至るためにも支払わなければならないものがある。天のホームに至るのに障害となっているのは、人の罪である。罪が赦されるためには、いわば赦免金が必要である。キリストが十字架についたのは、ご自分のいのちを代価として支払い、私たちの罪の償いをするためだった。キリストは私たちの罪の負債をすべて背負って、ご自分のいのちで肩代わりしてくださったということである。この事実を受け止め、キリストを信じるならば、天のホームに至ることができる。私たちの罪のために身代わりとなって下さったお方はキリストしかいないことを覚えよう。

第二に、わたしが真理の道である。「分け上る、ふもとの道は多けれど、同じ高嶺の月を見るかな」で、どの道を登ってもいっしょ、好きな道を選びなさい、とキリストは言われない。キリストは、「わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」と言われている。なぜならば、天に登る真理の道は一つだからである。ここでキリストは、わたしは真理を知っていると言っているのではなく、わたしが真理、すなわち、わたしは真理そのものであると言っておられる。これは、ご自分が神であると宣言したのに等しい。

第三に、わたしがいのちの道である。聖書で、いのちは神さまに帰せられている。いのちである神さまから離れている状態を死と呼ぶ。肉体的に生きていても、神さまから離れているなら死んでいると、ヨハネの福音書も教えている。初代教会の教父エイレナイオスは言う。「神との交わりはいのちであり・・・神からの分離が死です」。キリストは、神と人とをつなぐ道である。キリストが下さるいのちは、永遠のいのちとも言われる(3章16節)。

7~11節に入ると、キリストは、ご自身が神であることを強調しておられる。8節を見ていただくと、ピリポは「主よ。私たちに父を見させてください。そうすれば満足します」と願っている。これは、私に神を見せてください、という願いである。キリストは9節で、「わたしを見た者は父を見たのです」、すなわち、わたしを見た者は神を見たのです、と答えている。10,11節でキリストは、「わたしが父におり、父がわたしにおられる」と、ご自身のうちに父なる神が融和していることを強調し、ご自身がまことの人となられたまことの神であることを証している。そのことを受け止めながら、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」のみことばを信じる者は幸いである。キリストはまことの人となられたまことの神であるゆえに、人と神をつなぐ道、地と天をつなぐ道なのである。私たちは、キリストを通していのちを持ち、天の御国に至ることができる。

父のみもとである天の御国は、私たち人類に共通する我が家なのである。ポール・トゥルニエというスイス人の医者が、青年をカウンセリングした時の話を伝えている。その青年は不幸な家に生まれ、自分は失敗の人生を歩んできたという思いが強くあった。彼はトゥルニエ博士に語った。「実のところ、ぼくはいつも、居場所をどこかに探し求めている」。トゥルニエ博士がこのことを語ったのは、人間の心にある基本的な願いを示したかったからである。それは、ここが自分の居場所だと納得できるような真の居場所、真のホームを求めているということである。博士は、多くの人はこの場所を見出すことができず、さ迷い歩いている、と語っている。

NHKを見ていたら、日本にあるスナックの数は、コンビニの数より多くて、コンビニのないところでもスナックはあると伝えていた。人々はそこに疑似家庭的なものを求めるのだと思う。ホッとできる空間、心の仮面を脱ぎ去ってコミュニケーションできる空間。なんとなく分かるような気がする。人は家庭的な場所を求めている。しかし、真のホームは神のふところであり、天の我が家なのである。私たちはやがて地上を去る時が来る。

一人の金持ちがいた。彼は世を去ろうとしていた。医者が彼に延命の望みはないことを告げた時、彼は弁護士を呼んで遺書を書いた。覚悟を決めたわけである。彼には4歳になる娘がいた。彼女はまだ小さかったので、死が意味するところを理解できない。お母さんは彼女に、もうすぐお父さんは去るのよと告げた。この少女は、お父さんは別の土地に行くのだと受け取った。そしてベッドサイドに行って、お父さんの目をのぞき込んで、こう聞いた。「お父さん。お父さんはこれから行く場所に家を持ったの?」この質問は彼の心に深く入った。というのは、彼は莫大な富を貯えることだけにエネルギーを費やして、先のことまでは考えていなかったからである。彼はこの世において立派な家を持っていたが、先のことは考えていなかった。多くの人はこの世に安全や慰めを見出そうとするだろう。持ち家、確かな収入、保険、投資計画、退職後の生活設計、幸せな家庭生活、だが、私たちは誰でも、やがて死を迎える。長くて数十年後には誰でも死を迎える。人生はあっという間に過ぎ去る。つかの間の人生である。けれども、その先があると聖書は各書で告げている。無になると言ってはいない。「永遠の忌み」(ダニエル12章2節)、「永遠の刑罰」(マタイ25章46節)等の記述もある。そこは我が家ではなく、無期懲役の刑務所のようなものである。そこは我が家とはなりえない。だから私たちは、キリストが言われた「わたしの父の家」「わたしのいる所」に心を向けたい。そこが私たちの本当の我が家なのである。皆様が、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」と言われた救い主イエス・キリストを通して、真の我が家に帰られることを願う。