今日は、キリストによる「聖霊」についての教えである。17節で言われているように、聖霊を「世はその方を見もせず、知りもしない」わけだが、私たちは日々、聖霊の助けをいただいている。初めに「聖霊」ということばそのものについて説明させていただきたい。ヨハネの福音書において、「聖霊」ということばが最初に登場するのは1章33節である。開いて読んでみよう。ここでキリストは「聖霊によってバプテスマを授ける方」として紹介されており、キリストが聖霊の与え主であることが言われている。そして良く見ると、聖霊は「御霊」とも呼ばれている。これは二つの呼び名があるというよりも、実は訳語の問題にすぎず、「聖霊」と訳されていることばを原文で見ると、「御霊」を意味する<プネウマ>という名詞の後に、「聖い」を意味する<ハギオス>ということばが続いている。この場合に「聖霊」と訳しているということである。「聖霊」という単独の単語があるのではない。直訳的には「聖い御霊」、「聖なる御霊」となるが、それを一言で「聖霊」と表現しているということである。また「御霊」という訳語についてだが、「御霊」を共同訳は「霊」と訳しているが、ただの「霊」であると、人の霊、神々の霊、怪しい霊など、他の霊との区別がつきにくくなるので、新改訳の「御霊」は良い訳であると思う。昨今はというよりも、古来から、霊はみな神の霊であるかのような受け取り違いがされてきた。使徒ヨハネはヨハネの手紙第一4章1節で、「愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい」と警告を与えている。私たちが今日学ぶのは、三位一体の第三位格の神の霊についてである。聖い霊についである。

ヨハネの福音書において、キリストが聖霊を口にされるのは、14章が初めてではない。3章のニコデモとの対話で口にされている。そこでは、救いは聖霊の働きであるという真理を告げておられる。私たちも聖霊によって信じ、生まれ変わった。注目していただきたいのは3章8節である。開いて読んでみよう。「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来て、どこへ行くのかを知らない。御霊によって生まれる者もみなそうです」。実は、原文では、「風」も「御霊」も<プネウマ>である。原語は全く同じである。御霊は風のような存在で、目に見えず、その働きは神秘に満ちている。私は風が吹く時、聖霊を想うことがある。また、ヨハネの福音書において、聖霊は「生ける水」にたとえられている。7章37~39節を開いて確認してみよう。「生ける水」とは綺麗な流水である。聖霊という生ける水を心に持つことができるというのである。聖霊によって心の渇きはいやされ、平安が与えられる。

では、今日の箇所に戻ろう。今日の箇所においては、キリストは御霊に対して、すなわち聖霊に対して、「もうひとりの助け主」という呼び名を与えている。メッセージの後半はこの呼び名にも注目して、聖霊についての教えを学んでいこう。

初めに、冒頭の12節をご覧ください。キリストは、ご自身のわざについて言及されている。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりも大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです」。この12節から聖霊が意識されていると思われるが、ご自身のわざについて話されているのは、10,11節からの流れである。ここでキリストは、わたしのわざは父なる神のわざであると言っておられる。父なる神と御子キリストは一つであり、父なる神は御子の中に融和しておられる。だから、キリストのわざは神のわざなのである。そのわざを弟子たちは約3年間にわたって、キリストの公生涯において見てきた。12節後半では「わたしが父のもとに行くからです」と、キリストが天に帰られることを暗示しておられる。では、地上での神のわざ、キリストのわざは終わってしまうのだろうか。キリストは、神のわざは終わるどころか、「わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりも大きなわざを行うのです」と語っておられる。どういうことだろうか。つまり、聖霊がそのわざを引き継ぐということなのである。この聖霊の働きのわざは、使徒の働きを見れば明らかである。使徒たちは、キリストと同じくみことばを語り、福音を宣べ伝えていった。ところで、キリストは12節において、「またそれよりも大きなわざを行うのです」と言っておられる。これはどういうことだろうか。それは福音書の時代と使徒の働きの時代の福音の伝播を比較してみればわかる。使徒の働きはエルサレムから始まった福音の伝播が全世界に広まり、キリストのコミュニティーが各地に築き上げられる過程を描いている。まさしくそれは「大きなわざ」なのである。それは聖霊の働きなのである。こうして、福音は広まり、教会は全世界に形成されることになり、私たちも聖霊の働きによって主を信じた。

この聖霊の時代に私たちの為すべき祈りが13,14節に記されている。「また、わたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光を受けるためです」(13節)。14節でも同じような表現が繰り返されている。気がつくのは、聖霊の時代、キリストは何もしないのではないということ。むしろ、その反対で、「それをしましょう」「わたしはそれをしましょう」と、わたしがわざの実行者なのだと告げられている。つまり、現在は、もろもろの天を上られ、神の右の座に着かれたキリストが、聖霊を通して「それをしましょう」「わたしはそれをしましょう」と、神のわざを実行に移してくださるということである。

祈りにおいて私たちに勧められているのは、キリストの名によって祈ることである。キリストは「わたしの名によって」と二度言われている。初代教会時代から、祈りにおいてこれが実行に移されてきた。しかしながら、古今東西の誤りとして、キリストの名を魔術的に用いる人たちがいる。キリストの御名に魔術的効力があると言わんばかりに、キリストの意志やみこころと無関係に用いる人たちがいる。キリストの名によって祈るとは、キリストの祈りそのものなのである。キリストの祈りは人間の利己的な願いとは関係がない。私たちは、キリストの意志を我が意志として、キリストの願いを我が願いとして、キリストと一つとなった祈りを捧げなければならないだろう。キリストのみこころを我がこころとして捧げなければならないだろう。「わたしの名によって」とは、キリストのみこころと調和した祈りを捧げることなのである。その結果、「わたしはそれをしましょう」と、キリストはご自身のわざを行ってくださり、そのわざは13節後半で「父が子によって栄光をお受けになるためです」と明らかされているように、父なる神の栄光を現すものなのである。

「わたしの名によって」について、二つのことを付け加えておきたい。ある男性が著名な説教家に、一通の手紙を渡した。そこにはこう書いてあった。「私は非常に困惑しています。私は長い間、みこころと確信して祈ってきたことがあります。しかしまだかなえられていません。私は30年間、教会の会員でした。25年間、日曜学校のリーダーを務め、20年間、教会の長老を務めてきました。なのに、まだ神は私の祈りに答えてくれません、私はそれを理解できません。それがなぜなのか、あなたは私に説明できますか」。この説教家は問題の本質を見抜いた。この男性は自分の頑張り、自分の忠実さを訴え、それゆえに、神は自分の祈りに答える義務があると考えている。説教家は、彼が自分の名によって祈っていることを見抜いた。私たちは、神から何かを受けるに値するものは、私たちのうちに何もないことを知らなければならない。自分の善行、自分の誠実さ、そのようなものに基づいて祈る誘惑があるかもしれない。しかし、私たちは、ただキリストの人格と功績に基づいて祈るのである。ただ、キリストのいさおしととりなしに期待するのである。祈る者は謙遜になって、キリストの御名に拠り頼まなければならない。自己主張ではなく、キリストを主張するのである。

「わたしの名によって」というとき、当然のことながら、キリストの御力に拠り頼まなければならない。もし、みこころにかなう祈りをしているのに、聞かれないという場合、キリストの御力を信じる信仰が弱いということがあるかもしれない。隣人を震え上がらせるワルを息子に持つ母親がいた。彼女は牧師に聞いた。「私はどうしたらいいんでしょう?」「あなたは息子のために祈ったことがありますか?」「どうしてそんなことを聞くんですか。もちろんですよ」。「いいや、そういうことではなくて、息子の生まれ変わりを神にちゃんと求めて、息子の生まれ変わりを神に期待したことがありますか、ということです。」「いいえ、今まで、そうしてきたとは思いません」。「では家にまっすぐ帰って、そうしなさい」。その息子は、その週にたましいの変革が起こり、すばらしい若者に成長していったそうである。私も同じような事例を目撃している。

15節を見ると、キリストのわざを願い、キリストと一つ心で、キリストの名によって祈る人は、キリストを愛することを願い、キリストの戒めを守ろうとすることがわかる。「わたしの戒め」の要約は13章34節ですでに学んだ。「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。キリストはこの戒めを繰り返し語る。15章のぶどうの木のたとえでも。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです」(12節)。キリストの愛の戒めを実行に移そうと思う人は、キリストの名による祈りにおいても、この愛を求めることになるだろう。

では、今日の中心聖句、16節を学ぼう。「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためです」。ここで、聖霊は「もうひとりの助け主」と言われているということは、聖霊に先んじる助け主がおられる、ということである。その助け主とは、主イエス・キリストである。今、私たちは、主キリストは天に昇られて、その臨在を失っていると思ってはならない。何度も述べてきたが、「もうひとりの」と訳されていることばは<アロス>。それは「全く同じもう一つのもの」という意味である。それは<ヘテロス>ではない。<ヘテロス>は「違う種類のもう一つのもの」という意味である。聖霊は<アロス>。キリストと全く同じもう一つのもの。キリストと同質の助け主。キリストの霊である。

三位一体の関係においても、述べてみよう。父、御子、御霊は<ホモウーシオス>と言われる。その意味は、「同一の本質、実体である」ということである。<ホモイウーシオス>ということばもあるが、それは、「似ている本質また実体である」という意味である。たとえば、コーヒーのキリマンジャロ、ブルーマウンテン、モカは、コーヒーということで似ているが、全く同じではない。それに対して<ホモウーシオス>は、全く同じ性質、同じ中身、何も違わない。聖霊は全き神であられ、全知全能、偏在など、神の性質をすべてもっておられる。17節においては「その方」と呼ばれ、人格を持っていることがわかり、また「真理の御霊」と呼ばれ、神にだけ帰せられる真理という性質を有していることがわかる。父なる神は、新約時代に入り、まず助け主としてキリストを遣わした。そしてキリストが救いのみわざを全うして昇天された後、もうひとりの助け主として聖霊を遣わすということである。

「助け主」と訳されていることばは<パラクレートス>。共同訳は「弁護者」と訳している。確かに、そのように訳せることばである。第一ヨハネ2章2節では、キリストが<パラクレートス>と呼ばれ、「もしだれかが罪を犯すことがあれば、私たちは、御父の御前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです」と、「弁護する方」と訳されている。私たちの罪が告訴される時、キリストは、私がこの人のために罪の代価をすべて支払いました、と弁護してくださる。しかし、福音書において聖霊が<パラクレートス>と呼ばれる場合、そのような罪の弁護のことが言われているのではない。<パラクレートス>は、<パラ>(そばに)+<クレートス>(呼ぶ)の合成語。よって原意は、「助けるためにそばに呼ばれた者」である。<パラクレートス>である聖霊の場合、そばにいて、ともにいて、キリストの臨在を現すように助ける、キリストのわざが為されるように助ける、そのような助け主なのである。「慰め主」「励ます者」「助言者(カウンセラー)」、そのように訳されることもあるが、「助け主」がふさわしい訳であると思う。私たちは、実際、様々な仕方で、聖霊の助けをいただいてきたはずである。何をどうすれば良いのか導いてくださるのは聖霊である。人を赦す力を与えるのも聖霊である。何をどう語っていいのかわからないとき、ことばを下さるのも聖霊である。「彼らに捕らえられ、引き渡されるとき、何と言おうかなどと案じるには及びません。ただ、そのとき自分に示されることを、話しなさい。話すのはあなたがたではなく、聖霊です」(マルコ13章11節)。

私たちは聖霊の助けをいただきながら、主のみこころを行い、それぞれが神の栄光を現していきたいと思う。使徒たちをはじめ、初代教会を築き上げた弟子たちは、一応におくびょうであった。しかし、聖霊によって自分の弱さを克服していった。パウロは言った。「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です」(第一テモテ1章7節)。弟子たちの生涯は聖霊によって力をいただいた証だった。彼らはおくびょうであったが力をいただき、助けられた。伝承によると、マタイはエチオピアで殉教した。マルコはアレキサンドリアの通りを引きずり回されて死んだ。ルカはギリシャでオリーブの木にかけられて死んだ。ペテロはローマで逆さはりつけにされた。大ヤコブは首を切られ、十二使徒最初の殉教者となった。小ヤコブは神殿から落とされ、こん棒でたたかれ死んだ。ピリポはペルシャのヒエラポリスの柱にかけられた。トマスは西インドで槍に突き刺されて死んだ。バルトロマイは生きているまま、皮膚をはがされ死んだ。ヤコブの子ユダは矢で射られた。熱心党員シモンはペルシャで十字架刑となった。パウロはローマでネロ皇帝によって首を切られた。この福音書の著者ヨハネはパトモス島に流刑となり、その後、エペソで自然死した。おくびょうだった彼らがキリストの証人に変えられた様は、もうひとりの助け主、聖霊の働きを物語っている。一人ひとりがキリストに従い通し、主のわざを行い、神の栄光を現した。彼らは福音書で見るとおりに弱い者たちだったが、聖霊の力で、キリストの証人として献げた生涯を全うした。

私たちも、「もうひとりの助け主」の助けを、これからも体験していこう。聖霊は、キリストと同じ根源である御父から遣わされ、キリストと同じ本質を持ち、キリストと同じ働きをされる、キリストの御霊である。キリストは聖霊を通して今も働いてくださる。聖霊は、キリストの臨在を現し、神のわざを行ってくださるお方である。私たちとともにいて、教え、導き、強め、働き、神の栄光を現してくださるお方である。この世は聖霊に対して無知で、その存在すら知らないだろう。だが、私たちはそうであってはならない。私たちは、キリストの名によって祈り、もうひとりの助け主、聖霊の助けを、日々、体験していこう。