「足を洗う」と聞くと、日本人は、悪行から離れる、ということをイメージする。クリスチャンの場合は、謙遜に仕える、愛する、ということをイメージすると思う。

13章から新しい場面に入る。前回お話したように、12章でキリストの公の働き、民衆に対するミニストリーは終わった。キリストがこの後、心を向けるのは十二弟子たちである。13章から17章までは弟子たちに対するミニストリーである。13~17章で目立っていることばは「愛」である。わずか5章の中に、実に31回も登場する。1節後半には、「その愛を残すところなく示された」と弟子たちへの愛が強調されている。私たちは、今日の個所から、キリストの愛の深さを学び取りたいと思う。

今日の出来事があったのは、「過越の祭りの前日」(1節)と記されているが、木曜日であることはまちがいなく、他の福音書で言うところの最後の晩餐での出来事である。キリストが十字架につくのは目の前まで迫っていた。「過越の祭り」ということば自体、キリストの十字架を暗示させている。過越の祭りでは、イスラエルの民がエジプトから脱出する際、傷のない小羊をほふったことを記念して、子羊をほふる習慣になっていたが、それは神の子羊キリストの十字架の死を予め告げる型でもあった。十字架刑は目の前に迫っていた。それだから、「この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知らされたので」と続く。「自分の時」とは、十字架刑が意識されている。キリストは十字架刑を前に、十字架の愛の前哨となる行動を弟子たちの前で示そうとされた。

キリストの愛を受ける弟子たちは、ご存じのように捕縛の場面で、キリストを置き去りにして逃げてしまう弟子たちである。しかも、弟子たちの中のひとりは、この時すでに、キリストから心が離れていた者もいた。「夕食の間のことであった。悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたが」(2節)。ユダは悪魔の「思い」を心に入れていた。13章27節に進むと、「サタンが入った」と悪魔に完全に占領されることになる。外玄関に立つセールスマンの甘いことばに心許し、ドアを少し開ける。セールスマンはドアの隙間に足を差し入れて、話を具体的に持ち掛ける。そしてとうとう居間に迎えて、契約を結んでしまう。悪魔の誘惑のパターンは、だいたいこういうものである。家に上げる前に、いや、外玄関に立っている時に、追い返してしまわなければならない。キリストは、ユダがまだ悪魔に完全に支配されていない段階で、ユダにも愛を示されたことになる。

キリストは「夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って、腰にまとわれた」(4節)。このように弟子たちの足を洗う準備をされた。そもそも、なぜ足を洗うのかということだが、当時はサンダル履きだったので、外を歩いていると足が汚れる。そこで、足についた砂やほこりを落とすために、家に入る時に、宴席の前に、足を洗うわけである。しかし、「夕食の席から立ち上がって」と、足を洗うタイミングがふつうではない。夕食の前であったならわかる。ということは、特別な行為だ、という予感が走る。弟子たちは、この時まで足を洗っていなかったのかという疑問もわく。足を洗うのは、通常は異邦人奴隷がしたらしい。ということは、卑しい行為の範疇に入るということである。誰も、この行為をせずに、やりたがらずに、夕食の時間を迎えたのだろうか。真実はわからない。奴隷がいない他のケースでは、妻が夫や子ども、両親の足を洗った。また弟子が師の足を洗った。しかし、この場合、師が弟子の足を洗うという逆転現象である。洗ってもらう立場の人が洗う行為をするという、通常はありえない行為である。この通常あり得ない行為は、12章前半でも見られた。やはり夕食の席のことだった。マリヤが高価な香油を取って、イエスの足に塗り、髪の毛をほどいてイエスの足をぬぐうという行為だった。当時の文化では禁じ手のような行為であった。しかし、マリヤは、もうこれが自分の愛を示せる最後の機会になるかもしれないという思いで、この行為をした。そして今、キリストは、やはり、これが最後の機会という心境で、弟子たちに愛を、残すところなく示そうとされる。その愛は、十字架の愛を暗示させるものである。十字架の愛の影を落とす行為となっている。

足を洗う前の「上着を脱ぎ」であるが、「脱ぐ」には、通常、服を脱ぐのには使用しない原語<ティセーミー>が当てられている。他の個所では、キリストがいのちを「捨てる」という表現に使われていることばである。「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを<捨てます>」(10章11節、同15,17,18節)。ヨハネは上着を脱ぐというときに、このことばを用いることによって、すでにキリストの十字架を暗示させていると思われる。それはまた、謙遜と愛の啓示となるわけである。キリストは上着を脱いで腰巻き一枚の姿になられたようであるが、それは古代の奴隷の姿と同じである。ピリピ2章7,8節の「仕える者の姿を取り・・・自分を卑しくし」を思い起こさせる。腰に巻かれた「手ぬぐい」は、日本で使うような短いものではない。奴隷が腰に巻くと長く垂れる、そういう手ぬぐいである。

「それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられた手ぬぐいで、ふき始められた」(5節)。奴隷は腰をかがめてお客の足を洗い、そして垂れた手ぬぐいの先で足を拭き、乾かして差しあげた。キリストは奴隷と同じ身なりになって、奴隷と同じやり方で、弟子たちに愛を示されたことになる。ヨハネの福音書には記されていないが、ルカ22章24節を見ると、キリストのこの仕えるしもべとしての行為の前に、弟子たちは「この中でだれが一番偉いだろうかと」と議論していたことがわかる。その後に、キリストは弟子たちがびっくりする洗足の行為に出られた。

6~11節は、キリストとペテロのやりとりである。キリストはペテロの足も洗い始められる。ペテロの反応は、「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか」(6節後半)。原文では、「あなたが」「私の」が強調されている。とんでもないことだ、というニュアンスが伝わってくる。そして8節では拒絶反応を示している。「決して私の足を洗わないでください」(8節前半)。ペテロは謙遜であったなら、こんな反応はしないでおとなしく従ったはずだとも言われるが、誰も人の事は言えない気がする。キリストご自身も、自分のしている行為は皆が理解に苦しむ行為であることを承知しておられ、「わたしがしていることは、今はあなたがたにわからないが、あとでわかるようになる」(7節)と言われた。「あとでわかるようになる」とは、十字架と復活の後でわかるようになる、ということである。

続く8節後半のことばを通して、このキリストの洗足は、愛を示すこと以上の特別な意味があると教えられることになる。「イエスは答えられた。『もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません』」(8節後半)。キリストの発言は強烈である。「何の関係もありません」。水で洗うか洗わないかの行為でキリストと無関係になるかどうかが決まるとはどういうことなのか、と思う。キリストはこの洗うという行為に、大切な意味を込められていることがわかる。「わたしと何の関係もありません」ということばは、原文では「わたしとともに受ける分がありません」ということである。キリストの共同体である教会の中にも受ける分がない。キリストの永遠のいのちの中にも受ける分がない。キリストとともに天の御国の分け前を受けることはできない。キリストと切れた関係の中におかれるということである。キリストは洗うという行為によって、十字架の贖いというきよめのわざを提示しておられる。キリストは十字架の血で、私たちの罪を洗い流そうとされた。この行為を、とんでもない、やめてください、と拒むならば、あなたの十字架とかかわりたくないと拒むならば、キリストとの関係は断たれたままになる。救いはない。何の分け前もない。キリストの十字架の贖いのみわざは私の罪のためであったと自分に適用することは、本当に大切なことであると知る。

洗わないでくださいと拒絶反応を示したペテロは、9節を見ると、今度は極端な反応に出る。「主よ。私の足だけでなく、手も頭も洗ってください」。「あなたはわたしと何の関係もない」と拒絶的なことばを聞いて驚いて、今度は正反対のことを要求している。イエスさまに勘当されたくないと言わんばかりに。キリストはペテロの頭に、たらいの水をザブッとかければ面白かったかもしれないが、そうはされず、また意味深なことを言われる。

「イエスは彼に言われた。『水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身がきよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません』」(10節)。この個所は解釈が難しいと言われている。水浴について言われているが、当時、どこかの宴会に招かれた場合、自分の家を出る前に全身水浴して、それから宴会先に向かった。そして、その家に着いてから、砂やほこりのついた足だけを洗った。このユダヤの習慣が背景としてある。ここで「あなたがたはもうすでに水浴はしただろう」ということで、すでに救いのみわざは成就し、それに与ったかのように、先取りした表現をしていることはまちがいない。「水浴」でバプテスマないし十字架による罪からのきよめを表していると思われる。そして「足を洗う」とは、日々犯す罪を告白し、十字架の血によって洗いきよめていただくことだと思われる。

10節は難解であるが、大切なことは、弟子たちの足を洗うという行為に、十字架の影を見る必要があるということである。十字架の愛ときよめである。キリストもそのことを意識して弟子たちの足を洗われた。

キリストは弟子たちの足を洗い終えると、12節にあるように、「上着を着け」られる。「着け」<ランバノー>は10章17,18節でも使われている。開いて読んでみよう。ここでは「得る」と訳されている。「・・・それを捨てる<ティセーミー>権利があり、それをもう一度得る<ランバノー>権利があります」。キリストは十字架でいのちを捨て<ティセーミー>、復活によっていのちを得た<ランバノー>。よって、キリストが上着を着けた行為は、キリストの復活を暗示しているのかもしれない。

キリストは12節以降で、足を洗う行為に新たなるメッセージを付け加える。足を洗う行為に十字架を読み込むことは、今の弟子たちには無理である(7節)。キリストは十字架の愛ときよめを指し示すためにだけこの行為を行ったのではなく、実に、弟子たちの模範としてこの行為を行ったのである。「それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです」(14,15節)。弟子たちが、この中で一番偉いのは誰だろうかと話していた矢先に、キリストは奴隷の立場に身を置いて、奴隷のような身なりとなり、奴隷と同じやり方で弟子たちに仕えられた。天の御座に座す神の子であり、本来なら王である主。しかし、そうした地位、身分の痕跡も見えないほどに弟子たちに仕えられた。主の謙遜、愛、それは私たちの模範である。16節に「しもべ」ということばがあるが、私たちは主のしもべである。「しもべ」<ドゥーロス>の意味は「奴隷」である。主が奴隷のような仕え方をしてくださったのなら、私たちは当然のことながら主を模範としなければならないだろう。主の願いはこのことをわきまえて互いに仕え合うことである。そうするならば祝福されるのである(17節)。

カトリックは14,15節から、モーンディ・サーズディと呼ばれる洗足の儀式を行っている。上級の僧侶が下級の僧侶の足を洗い、手ぬぐいで拭き、右足に口づけするという儀式である。だが、ここは儀式の勧めではない。15節の「わたしがあなたがたにしたとおりに」ということばは、「あなたがたにした事をそのままに」ではなく「あなたがたにしたように」という意味である。ここは洗足の儀式の勧めではなく、へりくだって仕え合うことの勧めである。それは様々な場面に適用されていくだろう。

私たちが主に倣う、キリストを模範にするということにおいて、キリストの徹底した愛を再確認して終わりたいと思う。それはユダに対する姿勢からわかる。1節でキリストが「その愛を残すところなく示された」という記述の直後に、2節でユダへの言及がある。ユダはこの時点ですでに裏切ろうとしていた(6章71節参照)。キリストはこの後すぐに裏切られ、捕らえられ、傷だらけにされ、肉体はずたずたにされ、十字架の上で死んでいくことになる。

「愛するとは傷つきやすくなることである」という愛の定義がある。ふつう人は相手に向かうとき、傷つくことを恐れ、傷つけられることを拒み、自己防御の姿勢に走る。だが愛は無防備に自己防御の姿勢なしで相手に向かい、傷つけられることも恐れずに、近づき、愛する。キリストは十字架につけられた時、ずたずたに傷つけられた姿で、「父よ。彼らをお赦しください」と、なお傷つける者たちを愛してやまなかった。キリストが受けた傷は、鞭打ちやいばらの冠や釘打ちといった肉体の傷だけではなく、あざけり、ののしり、中傷、裏切りといったたましいの傷である。キリストは人々を愛することをしなかったなら、このような傷は受けずに済んだ。キリストの傷は愛するゆえに受けた傷である。

この場面でキリストは、ユダに対して裏切られることを承知しながらも、彼によって大きな傷を受け、大きなダメージを受けることを知りながらも、愛を与えた。彼の足もとにも腰をかがめ、奴隷の奉仕をされた。他の弟子たちと区別することなく、この奉仕をされた。彼に愛を傾けても、何の見返りもないことを知りながら。それどころが、害をこうむることを知りながら(18節)。

私たちは、自分に良くしてくれる人に対して愛を示すことはなんとかできても、気持ちがさっぱり通じないような人たちに対して、それどころか恩を仇で返すような人に対して、自分を傷つけてくる者に対して、なお愛を示すというのは難しい。冗談じゃない、という気持ちになる。その人に心を閉ざし、近づきたくなくなるのがふつうである。キリストの有名な戒め、「あなたの敵を愛しなさい」は、いかに実践が難しいかがわかる。けれども、キリスト自ら、それを実践されていくわけである。今日の場面でも、それを実践されている。ユダは遠くの敵ではなく、近くの敵と言える。常に近くにいるからこそ、しょっちゅう接する相手だからこそ、愛するのは余計困難である。

今日の命令は、教会に向けられているということも、しっかり覚えておきたい。私たちは互いに、キリストの謙遜と愛、その仕える姿勢に倣うように勧められている。それぞれがキリストに倣って仕え合ったのならば、教会はまちがいなく祝福されるだろう。主の御栄えは現わされるだろう。お互いに、謙遜に、愛をもって仕え合っていきたいと思う。