前回は、24節のみことば、「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます」を中心に見た。今日の箇所でキリストは、十字架の死を前に、もう自分に残されている時間は少ないことを意識して、民衆に対して大切なメッセージをされている。キリストが公生涯において、民衆に対して強調して語ってこられたメッセージは何であったかご存じだろうか。それは「世の光であるわたしを信じなさい」である。36節をご覧ください。「『あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい。』イエスは、これらのことをお話になると、立ち去って、彼らから身を隠された」とある。キリストが民衆を前に教えをされるのは、これが最後。再び民衆の前に姿を現されるのは、逮捕されて裁判の時になる。民衆に対する最後のメッセージが今日の場面である。44~50節にもキリストのメッセージがあるが、これは時間的に後のものではなく、キリストの最後のメッセージを受けて、著者ヨハネがこれまでキリストが語ってこられた教えを要約したものである。今日の個所は、人々を前に語った最後のメッセージということにおいて、重要な教えが込められている。それはキリストがこれまでも語られてきたことであり、民衆に強調したいことである。今日はそれを学び取りたい。

今日の記事は、「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください』と言おうか」(27節前半)で始まっている。キリストの心に大きな葛藤があった。十字架の死を目前にして心が騒いでいた。十字架の死は恐ろしい。それは避けたい恐怖である。この恐怖の前に心が騒いでいたが、しかし、キリストは、「いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです」(27節後半)と決意を新たにしている。「このためにこそ、わたしはこの時に」と、十字架の時に心を真っすぐ向けている。その姿勢の中で、キリストは御父の栄光を願い、「父よ。御名の栄光を現してください」(28節前半)と祈られた。すると、天から声が返ってきた。「わたしは栄光をすでに現したし、またもう一度現そう」(28節後半)。この栄光も十字架の死と関係がある。「わたしは栄光をすでに現した」ということばで思い起こすみことばは、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である」(ヨハネ1章14節)である。キリストの救い主としての公生涯は栄光を現すものであった。ラザロの復活に代表されるような七つのしるしもそうである。そして「もう一度栄光を現そう」とは、十字架の死によって現される栄光である。キリストは、すでに十字架の死を意識して、23節で「人の子が栄光を受けるその時が来ました」と語られている。御父の栄光と御子の栄光は一つである。そして十字架がこれまで現してきた栄光にまさる栄光となる。しかし、困惑するのは、ふつうに考えると、十字架と栄光は結びつかないということである。十字架は敗北であり呪いであるというイメージしか沸かない。栄光と全く結びつかないように思える。栄光を現すというのは、最高に価値のあるものにスポットライトを浴びせるような行為である。この場合、スポットライトを浴びるのは十字架である。キリスト教は十字架を誇りとする。十字架は神の栄光を輝かせる。十字架が栄光に結びつく理由は、今日の箇所では31,32節からわかる。「今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです」(31節)。十字架でこの世は罪に定められ、裁かれる。そして「この世を支配する者は追い出される」とある。すなわち悪魔の敗北について言われている。悪魔はどこから追い出されたのか。この世から追い出されたのか。悪魔はまだこの世から追い出されてはいない。ヨハネの手紙第一5章19節では、「私たちは神からの者であり、世全体は悪い者の支配下にあることを知っています」とある。キリストの十字架以後も、悪魔はまだ滅んではいない。この世に影響を与え続けている。しかし、悪魔は支配権を失い、神の前から追い出されたことは事実である。そして黙示録20章10節で「彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた」とあるように、やがて完全に滅びることも事実である。悪魔は十字架によって完全に力を失った野党のようなものである。支配権を失った。だから、今や、キリストを信じる者を支配することはできない。十字架によって悪魔は裁かれ、悪魔の力は打ち砕かれたのである。パウロはコロサイ1章13節で、悪魔の支配を「暗やみの圧制」と表現して、こう述べている。「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に置いてくださいました」。闇から光へ、である。十字架は闇の力を打ち砕き、私たちを闇から光へと移すみわざだった。かつての私たちはエペソ2章2節で言われているように、「そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました」という者たちであったが、今はそうではない。それをもたらしたものが十字架である。

32節では、キリストは「地上から上げられる」こと、すなわち復活の後の高挙について言われている。キリストは十字架の上で悪魔を裁き、三日目によみがえり、四十日後に昇天し、すべての支配、権威、権力の上に、至高の御座に上げられた。「すべての人を自分のところに引き寄せます」というのは、全世界の人々を勝ち取るという告白である。この勝利の告白は、有名な苦難のしもべの歌、イザヤ53章で見ることができる。53章10~12節のキリスト預言を開いて読んでみよう。12節前半において、悪魔に対する勝利が戦利品を分かちとる描写で表されている。その戦利品(分捕り物)とは私たちのことである。キリストは受難に遭い、十字架の死の苦しみを味わうけれども、勝利者となり、たましいを勝ち取る。

民衆はこれまでの一連のキリストの話に困惑してしまう。死を匂わせたり、上げられなければならないと言われたり、彼らがこれまで教えられてきたキリスト像とは違っていた。そこで疑問を投げかける。「私たちは、律法で、キリストはいつまでも生きておられると聞きましたが、どうして、あなたは、人の子は上げられなければならないと言われるのですか。その人の子とはだれですか」(34節)。「律法で、キリストはいつまでも生きておられると聞きましたが」とあるが、当時、多くの人たちは、メシヤは永遠に統治すると信じていた。詩編や預言書からの解釈と思われる。彼らは「人の子」というメシヤ用語も用いているが、彼らにとって「人の子」とは、上げられなければならない存在ではなく、この地上に下る存在であった。ダニエル7章13,14節では、人の子であるメシヤの永遠の統治が言われているが、13節では「見よ。人の子のような方が天の雲に乗って来られ」という表現がある。人の子が天から地に下ってくるという印象を受ける。ところがキリストは、人の子は上げられなければならないと反対のことを言われたわけである。「どうして、あなたは、人の子は上げられなければならないと言われるのですか。その人の子とはだれですか」という質問が生まれるわけである。

さてキリストは、「その人の子とはだれですか」、すなわちメシヤとは誰ですか、という質問に対して、どう答えられたのだろうか。キリストは、それはわたしなのだということを直接的には語られず、これまで繰り返し用いてきたメシヤ用語「光」を用いて、ご自身がメシヤであることを語られる。「まだしばらくの間、光があなたがたの間にあります。やみがあなたがたを襲うことのないように、あなたがたは、光がある間に歩きなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこに行くのかわかりません。あなたがたは、光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい」(35,36節)。キリストが光であることはヨハネの福音書で繰り返し証言されてきた。「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった」(1章4,5節)。「すべての人を照らすまことの光が世に来ようとしていた」(1章9節)。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです」(8章12節)。「わたしが世にいる間、わたしは世の光です」(9章5節)。このように宣言されてきた光なるキリストが民衆の前から身を引く時が来ていた。キリストが彼らの前から身を引くということは、もうすぐ日が沈むということである。今は日没前ということである。もうすぐ闇で覆われてしまう。その前に、「光であるわたしを信じなさい」と最後のメッセージを送られた。最後の警告と言って良い。だが、良い反応があったという記述はなく、キリストは彼らから身を隠されることになる(36節後半)。これ自体が彼らへの裁きとなる。キリストの公けの場での働きはこれで終わった。太陽は沈んだ。ユダヤ人たちは、光がある間、光を信じることがなかった。こうして自らに裁きを招いてしまった。

ヨハネは、光であるキリストをユダヤ人たちが拒んだということから、37~50節まで、裁きをテーマにまとめのことばを書いている。この個所を二つに分けることができる。最初の37~43節は、イザヤ書の預言を引用しつつ、ユダヤ人の心のかたくなさを証言している。38節の「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。また主の御腕はだれに現わされましたか」というのは、先ほど見たイザヤ53章の第1節のみことばである。40,41節は、イザヤが預言者として召される有名な場面の言及で、イザヤ6章10節の引用である。ヨハネはこの区分で、ユダヤ人の心のかたくなさは神の定めであったことを印象付ける書き方をしている。41節の「イザヤがイエスの栄光を見たからである」というのは、十字架につけられるキリストの栄光を先取りして見たということだろう。42,43節を見ると、信じるユダヤ人がいるにはいたことが記されているが、その信仰を公に告白はしなかった、すなわち偽りの信仰にすぎなかったことが書いてある。「会堂から追放されないためであった」というのは、信仰を告白すればユダヤ教から破門されることを恐れたということである。実際、そういうお触れが出されていた。「彼らは、神からの栄誉よりも、人の栄誉を愛した」のである。ユダヤ人のかたくなさの度合いは違ったが、総じて、ユダヤ人たちはかたくなであった。

44~50節は、人の側の責任ということが強調されている。神は人間をかたくななままに放置しておくことをお望みなのだろうか。そうではない。かたくなな人間を救うために、キリストは遣わされた。キリストはまことの人となられたまことの神である。キリストの中に父なる神は融和している。キリストと父なる神は一つである。キリストを信じる者が神を信じる者なのである。キリストを見ることは神を見ることなのである。キリストは世に来られた神の救い主である。47節で言われているように、キリストが来られたのは、「世をさばくためではなく、世を救うため」である。ではなぜ、裁きを招いてしまうのか。48~50節において、キリストのことばがその人を裁くことが言われている。キリストのことばは神のことばである。キリストのことばを拒むことはキリストを拒むことであり、キリストを拒むことは神を拒むことである。光と闇の観点で述べると、裁きは、光よりも闇を愛したその人の責任である。光を嫌い、闇の側に身を置いてしまうことが裁きなのである。キリストは「光を信じなさい」とことばを投げかけ、光に招いているのにもかかわらず、人々のほうで光を嫌って、自ら闇を選ぶ。それが裁きなのである。

最後に、12章46節のみことばに耳を傾けよう。「わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです」。この世は、この物質界は、光と闇との異なる霊性の戦いの場と言えるだろう。光と闇は真っ向から対立している。それは交じり合うことはない。私たちは、どちらに身を任せるのかということである。ただし、今の世界は、この世は光と闇の異なる霊性の戦いの場という世界観には立っていない。一つの霊性があるのみとする。暗い影があるように見えても、曇っているように見えても、一つの流れの中で、霊的に進化するのだという思想。鉱物が植物に進化し、植物が動物に進化し、動物が人間に進化し、人間が徐々に神のようになる。曇った玉は磨かれ、すべては神になる。元々すべては神の一部なのだから・・・・。神道しかり、仏教しかり、新興宗教しかり、異端しかり、東洋神秘主義しかり。現代の西洋思想も、ニューエージムーブメントに代表するように、すべてに神の性質を見ていき、神と対立する悪魔や罪の存在を否定する方向にある。一つの霊性があるのみとする立場は、必ず罪を軽視する。「それは大したことではない、またやり直せばいいのだ」程度。罪意識は極めて希薄である。

私が大学の時に、信仰を持つに至ったのは、自分は霊的には闇の牢獄にいるのだという自覚が生まれたからだった。このような話がある。ある老紳士が町を歩いていると、怪我をした野良すずめを鳥かごに入れて歩いている少年を見かけた。その老紳士が、その少年にすずめをどうするのかと聞くと、「これでちょっと遊んだあと、殺しちゃおうかな」と言った。そのすずめがかわいそうになった老紳士は、いくらで売ってくれるかと聞いた。少年は日本円して1万円と吹っかけてきた。しかし、その老紳士は「わかった」と、少年の言い値で買い取り、近くの原っぱに行って、そのすずめを鳥かごから出して放してあげた。その翌日、この老紳士は、皆の前で、このような話をした。悪魔は私たちをかごに閉じ込めて逃げられないようにしてしまった。キリストがかごの中にいる人々をどうするのかと聞くと、「この連中かい。お互いに憎み合うように教えてやるさ。こいつらと遊んで、あとは殺すのさ」と答えが返ってきた。キリストは買い取りたい旨を話すと、「お前さんがどうしても買い取りたいと願うなら、その値段は、お前さんの涙と血、お前さんのいのちだ」と言ってきた。この話の最後に老紳士は言った。「皆さん、これがキリストが私たちのためにしてくださったことなのです」。お話は以上だが、キリストが十字架の上で血の代価を支払う、これが私たちを闇から光へと招き救う手段であった。

多くの宗教でも光について話すが、うのみにしないように注意していただきたい。パウロは第二コリント11章14節で、「サタンさえ光の御使いに変装するのです」と警告している。光に見えて実体は闇ということが幾らでもある。何を信じてもいいのだというのではない。私は無神論ではなく神の存在を信じているからそれでいいというのではない。また次のことを覚えておきたい。利己的な欲望のために、我欲のために神を利用しようというのは闇の霊性にすぎない。また被造物の分をわきまえず、神のようになろうという霊的高慢も闇の霊性にすぎない。そのような教えはキリストからは来ない。

いずれ私たちは、光と闇を見分ける霊性をもって歩んでいきたい。キリストのことばに従っていくことが光の子として生きる秘訣である。「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」(詩編119篇105節)。現代、時おり、クリスチャンと言われる人々が、巧妙な異端に足を踏み入れる悲しいニュースを耳にする。最近の異端は見分けが難しくなってきている。どういうことかと言うと、ひと昔前までは、キリストを三位一体の神としないのなら異端だと見分けがついた。ところが最近出てきた異端は、キリストを神であると主張する。神々の一人とか言わない。けれどもキリストのことば、その教えをねじ曲げて、結局は我欲のために神を利用するように誘うか、神のようになろうとする高慢に誘う。また異端とまで言えなくとも、神秘主義に走るキリスト教、そしてキリストが嫌う剣による征服も辞さない右翼化するキリスト教なども、みことばから脱線している。光と闇を識別するためには、ヨハネの福音書をはじめ、みことばに習熟することである。それだからすでに信仰をもった皆さんには、聖書に親しみ、日々、デボーションを尊んでいただきたいと思う。

最後の最後に、キリストこそ信じ従うべき光であることを強調して終わりたいと思う。私はある吹雪の日、車を走らせていて、右も左もわからなくなってしまった。三百六十度視界はゼロ。私はこれ以上先に進んだら危険だと判断して、停止した。しばらくして、ヘッドライトをつけた車が通りかかった。その運転の様子からして、かなりこの辺りの道に詳しい方だと直感した。私は方向転換をして、まさしく光のあとについて行った。そして目的の町中に出ることができた。私たちの人生には光が必要である。なぜなら闇があるからである。罪がある。偽りがある。混沌がある。闇の霊気がある。孤独がある。危険がある。死がある。

ある人が山岳地方を旅していて、暗やみの中を自分を過信して全速力で歩いていたそうである。真夜中を過ぎた頃、自分の歩いている道全体が暗黒に呑まれたように感じたそうである。その人は深い奈落の底に投げ落とされたのである。崖から落ちてしまったのである。背骨に損傷を起こし、皮膚の八割がたが出血という重症を負った。この方はズタズタになった体で腹ばいで前進し、どうにか人家にたどり着く。もう少し到着が遅れていたら死んでいたという。この方はこうして命拾いをするのだが、神さまの前に自分を過信することの愚かさを学ばれたと言う。

私たちには光が必要である。けれどもそれはまことの光でなければならない。まことの光を信じ、光に従おう。キリストとキリストのことばがまことの光、いのちの光である。