今日は、麦の話が中心となる。「一粒の麦」とは主キリストを指すが、私たち一人ひとりも一粒の麦である。私たちは自分のことをつまらない一粒の麦と思うかもしれない。しかし、様々な可能性を秘めているのである。

12節から、過越しの祭りの記述に入る。キリストが神の子羊として全人類のための犠牲となる十字架の死は間近に迫っていた。この頃、イスラエルの立法府は国家としてキリストの殺害計画を立てていた(11章53節)。キリストを捕えるために、キリストの行動を監視する体制を強めていた(同57節)。祭りは首都エルサレムで開催される。人々の関心は、キリストがこの祭りに上って来るだろうか、ということだった(同56節)。

キリストはこの祭りに、お忍びではなく、なんとパレードを思わせるように、大々的に王としてエルサレムに入場する。キリストを捕えようとしていたユダヤ当局が仰天する行動だった。この祭りには国内のユダヤ人、そして国外に散らされたディアスポラのユダヤ人が一斉に上ってくる。その数は十数万人以上、百万人を超えたかどうかは定かではないが、巡礼のために上ってきた大勢のユダヤ人が、街頭で、キリストを王として迎え入れる行為に出る。この時、キリストの人気が高まった要因の一つは、11章で見たラザロの復活があったからである。ラザロの復活の出来事はユダヤ人たちの間で大きなうわさになった(9~11節)。

エルサレム入城の記事は、四福音書すべてに記されているが、ヨハネの福音書独特の特徴がいくつかある。場面設定としては、ラザロの復活と関係づけられているということがある。ラザロの復活はキリストの人気を勢いづけた(17、18節)。また、特徴として、キリストの殺害をねらうユダヤ教の指導者たちの動きと関係づけられているということがある(19節)。キリストの絶大なる人気。それは全ユダヤ人を覆いつくしそうな勢いだった。このままであると殺害計画は無に帰してしまうか、無理に強行しようとしたら、自分たちが民衆に殺されてしまうかもしれない。ユダヤ教の指導者たちは苦々しい思いで、王としてのパレードを見ていただろう。

このエルサレム入城の記述自体にも、ヨハネ独特のものがある。まず、他の福音書のように、キリストが乗ったろばはどのように準備されたとか、群衆が道に小枝や上着を敷いたとか、そのようなことは省いてある。他の福音書と比較すると、キリストは王であるということに強調を置いていることが、はっきりわかる。

群衆は「しゅろの木の枝」を取って、出迎えた(13節前半)。しゅろの木の枝を持つようになった詳しい歴史的経緯は省くが、紀元前二世紀の民族独立戦争の勝利を祝った時のことに由来するようである。これは、王や将軍を迎え入れる時に持つものだった。それは勝利の支配者のシンボルであった。「ホサナ」(13節後半)という呼びかけも、王に対する呼びかけとして用いられるものであった。これはヘブル語の「ホシアー(救ってください)」「ナー(どうぞ)」ということばである。ここでの使い方としては、王様バンザイ!といったところだろう。

群衆は賛美の中で「イスラエルの王に」と言っている。群衆はキリストを偉大な王として認めている。それ自体は良い。しかしながら、彼らの言う王とはナショナリズムの王である。国粋主義者としての王である。異邦の民を力で打ち倒し、イスラエルに平和をもたらしてくれる王である。政治的、軍事的王である。この時、イスラエルはローマ帝国の支配下にあったわけである。民族独立をもたらす解放者をユダヤ人は待望していた。けれどもキリストは、ナショナリズムを否定する乗り物に乗られる。それは「ろばの子」である(14節)。それは馬のように力のシンボルではない。ヘリ下り、柔和、平和のシンボルである。キリストが築こうとしている御国は、群衆のイメージするそれと違っているようである。確かに、キリストは「イスエラルの王」である。けれども、キリストはやがて総督ピラトの前で、「わたしの国はこの世のものではありません」(18章36節)と答える。どうやら、キリストの国は性質が違っているようである。黙示録21章には、新しいエルサレムが天から下るという新天新地の描写である。アルファでありオメガである永遠の王キリストが治める国の描写である。この国はユダヤ人のためだけの国ではない。ヨハネは今日の個所で、この後、意識的に「ギリシヤ人」を登場させている(20節)。これには意味がある。キリストは異邦人の救いのためにも死ぬことを意識して、「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ」と告げられることになる(24節)。キリストはすべての人の救い主、王となるために来られた。キリストは一民族のためだけの王ではない。キリストが願っていたのは一民族だけの解放ではない。すべての民族、すべての国民を罪の支配から解放すること。ローマからの解放という次元の話ではない。そのために十字架の死に向かっていった。

ヨハネの福音書では、旧約聖書の引用にも特徴がある。キリストがろばの子に乗るという預言は、15節の欄外註にあるように、ゼカリヤ書9章9節の預言として良く知られているが、15節の「恐れるな。シオンの娘。」という呼びかけはヨハネ独特で、ヨハネは、どうやら、ゼパニヤ書の預言も意識しているようである。その個所はゼパニヤ書3章14~17節である。開いて読んでみよう。16節に「シオンよ。恐れるな。」という呼びかけがある。17節は当教会の今年度のみことばである。主は「その愛によって安らぎを与える」お方である。この預言もキリストのエルサレム入城に関係している。「「あなたの神、主は、あなたのただ中におられる」(17節)とあるが、イスラエルの王であるキリストは、ろばの子の背中に乗って、エルサレムのただ中におられる。救いの勇士は平和の王として入城された。剣や銃で解放をもたらす、そういったイメージとは無縁である。

群衆は歓呼をもってキリストを迎え入れた。キリストの王としての性格、キリストの御国の性格を彼らは気づいてはいない。そして、この後、キリストご自身が、王であるご自分が、ユダヤ人と異邦人のために死ぬのだという、とんでもないことをほのめかすことになる。キリストは死ぬためにエルサレムに入城したのである。死ななければ、人民の救いも王としての栄光もないからである。この世的には馬鹿げたことであった。

20節に目を落とそう。祭りの最中、ギリシヤ人たちがキリストとの面会を願い出る。キリストに面会を願い出たギリシヤ人たちは、ユダヤ教に改宗したギリシヤ人であると思われる。彼らは弟子のピリポにキリストとの面会を願い出ている(21節)。なぜピリポに仲介を頼んだのかは定かではないが、「ピリポ」という名前はギリシヤ風の名前である。身なりもギリシヤ風だったかもしれない。ギリシヤ人にとって近づきやすい人物だったようである。ピリポは直接にはキリストのところには行かず、同じ町出身のアンデレに相談してから、キリストのもとへ行っている(22節)。ピリポは少し躊躇したようである。キリストのエルサレム入城はユダヤ人のナショナリズムをかき立てた。キリストは民族解放運動の王という受け止めであった。そのような中、非ユダヤの改宗者の求めなどに応じていいのかという思いがあったと思う。異邦人を相手にしている時なのかと。しかし、熱心な懇願に心動かされたのだろう。これまで、キリストはアウトカースト的な存在や、サマリヤ人といった人たちにも心を向けてきたので、ギリシヤ人も拒むとは思わなかったのだろう。

不思議なのは、ギリシヤ人のことを話した時のキリストの反応である。「人の子が栄光を受けるその時が来ました」(23節)。不可解な発言である。「人の子」とは、メシヤ用語の一つだが、神なるメシヤが人間としてみわざを行うことに焦点が当てられている。「栄光を受ける時」とは、十字架の死を通して栄光を受ける時のことである。ここでキリストはギリシヤ人も含めて、すべての人を救う時がやってきたことを意識されているのである(10章16節,12章32節参照)。すべての人を救うために、しなければならないことは、自らのいのちを捨てて死ぬことである。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます」(24節)。この時は過越しの祭りであったわけだが、大麦の収穫は、春の過越しの祭りの頃から始まり、続いて小麦の収穫が始まる。キリストが言及した「麦」<シトス>は小麦のことのようである。一粒の麦から、どのくらい増えるのだろうか。一つの穂の粒数は20~30粒台だと思われる。20~30倍に増えるということなのだろうか。ただし、麦も稲と同じく分けつする。一粒から、多ければ数十本の分けつ茎が出る。「豊かな実を結びます」という言及通りになる。ここでキリストは、「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ」と、「麦が死ぬ」という表現を使う。ふつうは地に落ちて芽を出していう表現になると思うが、あえて「死」を口にされる。私たちは、キリストがご自身の死と重ね合わされていると知るわけである。キリストは地に落ちた一粒の麦として死ぬことによって豊かな実を結ぶことになる。すなわち、十字架に架かり、いのちを捨てることを通して、ユダヤ人だけでなく全世界の人々が救われるに至るということである。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは、御子を信じる者が<ひとりとして滅びることなく>、永遠のいのちを持つためである」(3章16節)。キリストは死ぬために地に下り、十字架でいのちを捨て、全世界の人々がこのいのちを持つことができるようにしてくださった。私たちに与えられる永遠のいのちは、キリストの自己否定、自己犠牲の賜物である。その与えようとされた永遠のいのちは、ご自身のいのちに他ならない。十字架のもとにひざまずきキリストを信じ受け入れる全世界の人々に、キリストのいのちは分け与えられる。今も、地に落ちて死んだ一粒の麦は、地球上で、全世界で、豊かに実を結び続けている。

次節からは、キリストは私たちにも地に落ちた一粒の麦になることを願っておられると知る。「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです」(25節)。「自分のいのち」の「いのち」<プシュケー>とは、肉体のいのちというのではなく、その人自身を意味することばである。自分自身を愛することによって自分自身を失う。「失う」ということばは「滅びる」という意味のことばである。自分自身を愛する者は滅びるというのである。反対に、自分自身を憎むことによって自分自身を保ち永遠のいのちに至るというのである。ここでは、本当の意味で自分自身を愛するとは自分自身を憎むことであるという逆説的真理が言われている。しかしながら、自分自身を愛するとは自分自身を憎むことだと言われても、頭が混乱してしまう。だいいち、自分自身を憎むとはどういうことなのだろうか。これはユダヤ的な極端な表現で、文字通り憎むことではない。理解のために、ルカの福音書から二つの例を見てみよう。「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子となることはできません」(ルカ14章26節)。献身と服従の対象は二者択一。どちらかを選ばなければならないという時、選ばなかったほうについて「憎む」という表現をとる。それは軽蔑しているとか嫌いだとかいうのではない。文字通り憎むというのではない。別の柔らかな表現を取ると、「憎む」というのは、キリスト以上に愛さないということである。もう一箇所を見よう。「しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません」(ルカ16章13節)。二人の主人に仕えることはできないという真理は、今日の個所にも適用される。キリストにも仕え、自分にも仕える、そのような都合のいい選択はできない。

今日の箇所に戻ろう。キリストは12章26節を見ると、「わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい」と言われているが、キリストは、わたしを愛するのか、自分を愛するのか、わたしを取るのか、自分を取るのかと、二者択一を迫っているのである。私たちは自分がかわいい。自分の欲望を満たし、自分を温存し、自分のことだけを考えて生きたい。しかし、キリストに献身し、キリストに服従しようとするならば、キリストと同じく、自己否定、自己犠牲が迫られることになる。私たち罪人の本性として、自己保存、自己温存を選び取りたい。殻を破らないで一粒のままでいたい。自分を捨てるという犠牲は避けたい。自分自身の殻の中にこもっていたい。自分のためだけに生きたい。しかし、それは自分に仕えることで、キリストに仕えることではない。まちがった自分の愛し方にすぎない。一時的な楽しみがあっても、それは滅びへの道である。

私たちは自分自身よりもキリストを愛することを選びとろう。それが自分を憎むということであり、本当の自己否定であり、自己を愛することである。キリストに服従しようとする時に、自分を取るかキリストを取るかという二者択一を迫られる。キリストへの服従は悩みをもたらすだろう。自分との間で葛藤が起きる。キリストはこうしたことを見越し、「自分の十字架を負ってわたしについてきなさい」と弟子たちに語られてきた。誤った思い込みで、十字架には苦さしかないと思い込んでいるなら、それは不幸なことでしかない。十字架は、表皮は苦くても中身は甘い木の実や果実のようなものである。そこにキリストとの親密な交わりが生まれるからである。

そして私たちは、このキリストのために実を結ぶことを求めよう。24節から、キリストは私たちにも実を結ぶことを求めていることを知ろう。「もし死ねば、豊かな実を結びます」。このような箇所から、キリストのための殉教は誉れ高いあり方のように言われてきた。「殉教者の血は教会の礎」という言い方もされてきた。だが、殉教者として選ばれている人は数多くはないだろう。ただ、私たちは、自分のいのちを憎むという心の在り方で死ぬことを通して、キリストのために実を結ぶ者たちでありたい。私たちは、日々、葛藤がある。みことばを通して「わたしに従いなさい」「わたしのためにこれこれをしなさい」という主の御声を聞くが、同時に、「そんなことはしなくていい」「あなたの我欲に従いなさい」という肉の声も聞こえてくる。二つの声の狭間で揺れる私たちだが、自分にNOと言い、主にYESと言うことを選び取りたい

26節の「わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい」というのは、キリストが私たちに自発的服従を求めておられることだとも知る。私たちは自分ではなくキリストを選びとり、キリスト従っていこう。キリストに従うことは空しいことではない。26節後半では、「父はその人に報いてくださいます」と、確かな約束も与えてくださっている。

前回は、純粋なナルドの香油をキリストに注いだマリヤから、キリストを愛する弟子の姿勢について教えられたが、今日は、地に落ちて死んだ一粒の麦のようになったキリストの姿勢に倣うことを教えられた。今日のキリストのみことばを心に刻みたいと思う。そして、それぞれのところで実を結びたいと思う。