今日は、マリヤとユダ、この対照的な人物を観察したいと思う。二人の比較によって、私たちがキリストに対して取るべき信仰姿勢の輪郭が見えて来る。前回は、イスラエルの立法府がキリストを殺すための計画を立てたことを見た(11章53節)。国家としての殺害計画である。キリストへの憎悪はここまで来てしまった。時は過越しの祭りが近づいていた頃(同55,56節)。国の内外から、十万人は優に超えると思われる人々がエルサレムに上って来ていた。人々の関心は、あのイエスも上って来るだろうか、ということであった。キリストは注目の的になっていた。ユダヤ当局は、キリストを殺すために、キリストを監視する体制作りもしていた(同57節)。

その折、「イエスは過越しの祭りの六日前にベタニヤに来られた」(1節前半)。ベタニヤは、エルサレム近郊の町である(11章18節)。そこには、キリストと親交の深い、マルタ、マリヤ、ラザロの三兄弟が住んでいた。ラザロは11章で学んだように、キリストによって死からよみがえらせていただいた。ラザロも当然、キリストと会うことになる(1節後半)。

今日の場面は「過越しの祭りの六日前」ということだが、おそらくは、土曜安息日の夜のことであると思われる。晩餐の席が設けられた(2節a)。場所は、平行記事のマタイ26章6節等から、「ツァラアトに冒された人シモンの家」であったことがわかる。マルタは相変わらず、賜物を生かして給仕している(2節b)。彼女は、感謝と愛から、無私の姿勢で、喜んで給仕していただろう。ラザロはキリストとともに食卓に着く光栄に与っている(2節c)。マリヤはどうしていたのだろうか。途中まで給仕を手伝っていたかもしれないが、彼女はある行為に出る。ナルドの香油をキリストに注ぎ、塗るという行為である。この行為については、ヨハネ11章のラザロの復活の講解メッセージの第一回目「マルタとマリヤに倣う」で、ある程度詳しく触れた。今日は、弟子ユダとの対比の中で、マリヤの行為から教えられたいと願っている。

「マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった」(3節)。「ナルドの香油」は北インド原産で、今はスパイクナードの名で知られ、入手可能である。「非常に高価な」と言われているが、どのくらい高価かは、5節で「三百デナリ」と言われていることから推測できる。欄外註に「約十か月分の生活費に相当する金額」とあるが、約1年分の生活費と思っていただいて良い。そのグラム数は「三百グラム」と訳されているが、正確には3節の欄外註にあるように、「328グラム」である。換算すると、1グラムで、およそ一日分の生活費、一日分の賃金に相当するという高価なものである。彼女はナルドの香油の中でも、「純粋な」が意味しているように、最高級のものを、キリストのために使おうとしていた。

マリヤはこの香油をキリストに注いだ。平行記事のマルコ14章3節では「そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ」とあるが、ヨハネは「イエスの足に塗り」と足を強調している。ヨハネが足に注目させるのは、以前にもお話したように、埋葬の時は、足にまで、つまり全身に香油を塗ったからである。キリストは7節で、「マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしたのです」と、埋葬を意識して語られている。マリヤも埋葬を意識して足に塗ったのかどうかは、後で触れることにする。

マリヤはこの非常に高価な香油を、あっという間に注いで一気に使い切ってしまったわけである。馬鹿げた行為にも見える。平行記事のマルコ14章4節では、「何人かの者が憤慨して」とある。器に注いだスープをひっくり返してこぼしてしまった、もったいない、どころではない。ある人たちには、一年分の生活費を無駄にする、怒りたくなるような馬鹿げた行為にしか見えなかった。来客の頭に香油を塗るということはあっても、非常に高価で、純粋なナルドの香油を、しかも全身に塗るために使い切ってしまうというのは、理解不能な、常軌を逸した行為にしか映らなかった。

そしてマリヤは、恥ずべき行為とみなされることもしている。「彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった」がそれである。女性が人前で髪の毛をほどくことはしなかった。それは夫の前でだけするものだった。マリヤの献身的な愛を見るわけだが、ふつうの人には恥ずべき行為にしか見えないものである。彼女は皆の面前で、人目をはばからず大胆な行為に出たわけだが、マリヤそのものは謙遜である。マリヤはこの時、主の足もとにいる。彼女はいつでもそうであった。「マリヤは、イエスのおられたところに来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して」(11章32節)。最も有名な個所は、ルカ10章39節。「彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた」。足もとは弟子の位置である。彼女は大胆なふるまいに出たが、非常に謙遜な弟子である。

マリヤの行為は、ある人々には、流れを止める、場の空気を乱すようなふるまいにしか映らなかったわけだが、マリヤはなぜこの行為に臨んだのだろうか。近くの出来事としてはラザロの復活がある。弟ラザロにいのちを与えていただいたことの感謝があることはまちがいない。しかし、なぜここまでの行為に及んだのだろうか。彼女は、イエスさまは来るべき神の救い主であると信じる信仰があった。彼女は主の足もとでみことばに聞き入る弟子として信仰が深く、イエスさまの人格、権威、力、恵みといったことに心開かれ、イエスさまを愛し敬う気持ちは人一倍強かっただろう。それをかたちで表そうとするのは自然である。それにしても、なぜ、高価なナルドの香油を塗るという選択をしたのか、ということになってくるだろう。

ここで考察しておきたいことは、マリヤの行為はキリストが7節で言われた「葬りの日」ということを意識しての行為だったのかどうかということである。彼女は意識してキリストの葬りのデモンストレーションをしたわけではないと思うが、彼女は主の足もとで注意深くみことばに聞き入る女性だったので、主の死は近いと気づいていた可能性はゼロではない。キリストは弟子たちの前で、ご自分の死を何度も予告しておられた。では、マリヤは、キリストの死を意識して行動に出たのではないという立場に立つと、どうなるのだろうか。マリヤは主の死を意識していなかったけれども、全身に香油を塗った行為は、無意識的にキリストの死と葬りを暗示する預言的ふるまいになった、という解釈になる。前回、11章後半から、大祭司カヤパがサンヘドリンの議員たちとの会議で、国民を救うためにイエスに身代わりに死んでもらったほうが良いと発言したことについて学んだが、11章51,52節で著者は、カヤパの発言をキリストの死の預言として受け取っている。カヤパには自分は預言しているという自覚はないし、キリストの十字架の死は人類を救うための神のご計画であることも知らない。知らないで無意識的にキリストの死を口にした。マリヤもこれと同じで、無意識的にキリストの葬りを告げる預言的行動に出たという解釈である。確かに、葬りを自覚して香油を塗ったのではないかもしれない。ただ、これだけで片付けてしまっていいのだろうか。

マリヤは主にいのちの危険が迫っていると知っていたことは事実である。男弟子たちも、いのちの危険を感じるようになっていた(11章7,8節,16節)。そしてラザロの復活は、国家挙げての殺害の計画を決断させることになり、キリストは益々お尋ね者的存在となってしまった。実際、十字架刑は目の前まで迫っていた。マリヤは主の足もとで、またその交わりの中で、主のことばをどう受け止めていたかわからないが、主の死をはっきりと悟っていなかったとしても、「主は殉教覚悟でいらっしゃる。これが主とお会いする最後の機会になるかもしれない」と受け止めていた可能性は高いと思う。そして、これが主に感謝と愛を示す最後の機会かもしれないと。そう思えば、三百デナリは高価すぎるということはない。実際、彼女は高価すぎるとは思わず、全く惜しむ気持ちなく、香油を注いだだろう。四百デナリの香油があったら、やはり余すことなく注いだだろう。そして彼女は香油を足に塗り、自分の髪の毛でぬぐったわけだが、幾らして差しあげても、し尽せない思いがあっただろう。これが最後の機会だとしたら、今私にできることはこれだと、人目も気にせず、全力投球の献身的ふるまいをしたと想像がつく。彼女の愛は香油の香りとともに、キリストを大いに慰めただろう。「家は香油のかおりでいっぱいになった」(3節後半)。この香りはただの化学反応ではない。それを超えたものがある。

ここで、マリヤと正反対の性質をもつユダが表に出る。「ところが、弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしているイスカリオテ・ユダが言った」(4節)。この時点ですでに、ユダはキリストを裏切ることに決めていた(6章70,71節)。マリヤの主に対する献身的姿勢とは正反対である。真逆である。マリヤは献身的、ユダは裏切りである。そしてマリヤは愛で判断する女性だったが、ユダは打算で判断している(5,6節)。彼は損得勘定で物事を考えるような人だった。マリヤの行為は浪費、無駄遣いの部類にしか見えなかっただろう。もったいないと打算で考えた。だが愛は打算ではない。またマリヤは惜しみなく主に献げたが、ユダは主のものを盗んだという対比がある。「彼は盗人であって、金入れを預かっていたが、その中に収められたものを、いつも盗んでいたからである」(6節後半)とあるが、これは主のために献げられたものを盗んでいた、主のものを盗んでいたということになる。三百デナリの香油を主のために惜しみなく注いだマリヤとは対照的である。それどころか、この後、ユダヤ当局に、銀貨をもらってキリストを売り渡してしまう行為に出る。ユダはキリストのものを盗み、キリストを売る。マリヤとユダは余りに対照的である。ユダは謎の人物として、彼の心理はああでもない、こうでもないと分析がされる。そんなに悪い人ではない、良い人だった、という心理分析も聞くが、深読みして余計な推論は禁物だと思う。今日の個所のように、単純にマリヤとの対比で考えることのほうが有益である。ユダにはマリヤの持っているキリストへの愛はなかったことは確かである。

キリストはマリヤを擁護する。5節の「なぜ、香油を三百デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか」という意見は、筋が通っているように見える。当時のユダヤの文化では、貧しい人々への施しは、奨励されていたというよりも、一種の義務だった。律法にはこうある。「貧しい者が国のうちから絶えることはないであろうから、私はあなたに命じて言う。『国のうちにいるあなたの兄弟の悩んでいる者と貧しい者に、必ずあなたの手を開かなければならない』」(申命記15章11節)。だが、マリヤのキリストに対するこの破格なふるまいは、タイミングから言っても、優先順位においても、まちがったことをしたのではない。

「イエスは言われた。『そのままにしておきなさい。マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです。あなたがたは、貧しい人々とはいつもいっしょにいるが、わたしはいつもいっしょにいるわけではないのです』」(6,7節)。注意深く読めばわかるように、キリストは貧しい人々のことをおろそかにする思いは全くない。あなたがたが貧しい人々に仕える機会はいつでもある、と言っている。しかし、主なるキリストの死は間近に迫っていた。全人類の罪を背負って苦しむという言語を絶する苦しみが待っていた。十字架刑の前に主をお慰めする機会は、もう残されていない。マリヤは時機を逃さず、最善の愛の行為で主を慰めることができたのである。戦地に夫を送ることが決まったとして、妻は戦地に送る最後の夕食の日、やはり、主人の好物を作ろうと、せいいっぱいの食事の準備をするだろう。自分の愛が伝わる方法、慰めとなる方法を考えるだろう。もう最後の夜となるかもしれないのである。プレゼントも用意するだろう。貧しい人のお世話は他の日にもできる。しかし、夫に何かできる日は、もう訪れないかもしれないのである。後悔しても遅いという日が来るかもしれないのである。マリヤの場合、キリストの死をどれだけ心に置いていたのかわからないが、大切なお方が戦地に赴くことになるような気持ちがあったことは確かであると思う。翌日の日曜日から受難週であることが12節以降からわかる。彼女はこの時、食事のもてなしはスペシャリストの姉のマルタにゆだね、今、自分にできるせいいっぱいのことをしようとした。物事は明日では遅いという日がある。マリヤはベストタイミングで主に奉仕した。

マリヤはタイミングだけではなく、優先順位においてもまちがっていなかった。キリストはご自身の葬りについて口にされているが、律法の教師ラビたちは、葬りはあわれみのわざ、貧しい者への施しは正義のわざであって、前者の葬りのわざが優先されるべきだと教えていた。たとえば、父親を葬ることは他の戒めにまさって実践すべきこととされていた。葬りが何よりも大切にされていた文化だった。キリストというお方は、敬われるべき最高のお方、主なる神である。このお方を葬るわざというのは、すべてにまさって優先すべき事柄のはずである。マリヤは主の葬りのために香油を塗るのだという意図をもってナルドの香油を注いだのではないかもしれないが、キリストにとっては、そのように受け取れる愛の行為になった。

私たちがマリヤを模範とするということはどういうことなのか、それぞれの受けとめがあっていいと思うが、キリストに対する一途な献身的な姿勢に倣いたいと思う。この時、マリヤの行為を評価して口にした人は、キリスト以外にいない。反対に、非難のことばは数々飛んできた。口に出さなくとも、怪訝な視線を向けていた人たちもいたはずである。目立ちたいと思っているのか、エフリコキだ、と思った人もいたかもしれない。けれども、マリヤは人のことばや視線を気にしていたら、こんなことはできなかっただろう。マリヤは人を喜ばせようと思ってしたのではない。あくまでも主のためである。彼女のしたことは主を喜ばせた、主を慰めた、ここが肝心である。

私たちは今、目に見えるキリストに何かをするというのではない。しかし、私たちの奉仕は主に献げるためにするのである。主キリストは私たちのために、十字架の上で高価ないのちを献げてくださった。私たちはこの主の御愛に応えていきたいと思う。気持ちが乗らないという時がある。疲れて何もできないと思う時がある。何をしたら良いのかわからなくなる時もある。人の視線やことばが気になって動けないと思う時もある。しかし、十字架を仰ぎ、主の足元に座り、主に聞くという基本姿勢を保つときに、マリヤにならう道は備えられるのではないだろうか。本日の物語を私たち一人ひとりの物語としよう。キリストの祝福が皆様の上にありますように。