新年、最初の主日礼拝は、「わたしは、よみがえりです。いのちです」と宣言されたキリストのいのちのすばらしさについて思いを潜める時としよう。ラザロの復活の物語も、いよいよクライマックスを迎えた。本日で第7回目である。前回は、キリストとマルタのやりとりから、マルタが信仰告白に導かれたところまで学んだ(27節)。マルタの信仰告白の前には、「わたしは、よみがえりです。いのちです」という、キリストの有名な宣言があった(25節)。今日の箇所はマルタに続いて妹のマリヤが登場する。キリストを出迎えに村の境界まで足を運んだマルタは、家に戻ると、マリヤに耳打ちする(28節)。「『あなたを呼んでおられます』とそっと言った」。キリストはマルタと個人的に話したように、マリヤとも個人的に話すことを願われたようである。家には大勢の人が集まっている状況にある。落ち着いて話せない。それだけでなく、これから足を運ぶユダヤでは、つい最近もユダヤ教指導者たちから石打ちで殺されそうになったばかり。キリストはユダヤ当局からマークされている存在として、事態は緊迫化していた。キリストには身の危険が迫っていた。弟子たちも殉教覚悟でキリストについて来た。キリストはご自分から出向こうとされず、ご自分がおられた村の境界までマリヤを呼び出そうとされる(30節)。ところが、マリヤが出かけると、ユダヤ人たちがぞろぞろとマリヤについて来てしまった(31節)。結果的に、多くのユダヤ人たちがラザロの復活を目撃することになり、すべては益と変えられることになる。マリヤはキリストにお会いすると、キリストの足もとにひれ伏し、姉同様、素直な嘆きの気持ちを表す(32節)。マリヤもユダヤ人たちもラザロの死を悼み、泣いている(33節前半)。

キリストは彼らの悲しみの姿を見て、ある感情が起こる。「霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて(新改訳2017「心を騒がせて」)」(33節後半)、同じような表現は38節でも繰り返されている。このキリストの「憤り」とは何であったのか、様々なことが言われてきた。皆さんはどのような意味での憤りだったと解釈されるだろうか。「憤り」<エンブリオマイ>の原語の元来の意味は、「馬が鼻を鳴らすこと」を意味する。それが人間に適用される場合は、いつも決まって、「怒り、憤慨、感情的憤り」を意味する。「霊の」とは聖霊のことではなく、意訳するなら「ご自身のうちで」ということで、それはキリストの内側の反応を指し、それは怒りであり、憤りなのである。ある人は、マリヤ、ユダヤ人たちがキリストにいやしの奇跡を行うべきだったと考えているので、憤ったと言う。しかし、そんなことで憤られるお方でない。ある人は、ユダヤ人たちの偽善的な悲しみの姿を見て、憤ったと言う。確かにユダヤ教の埋葬の習慣としてプロの泣き女まで呼んで泣く習慣はあったが、しかし、ここで造り泣きといった偽善を匂わせるものは何もない。マリヤは兄弟を失って心から悲しみ泣いていただろうし、マリヤについて来たユダヤ人たちの涙も同等のものだろう。

この場面で自然に引き出すことができる結論は、キリストは死に対して憤ったということである。悲しみを引き起こすところの死に対して憤った。聖書において、死は人類の敵として描写されている。それは憤りの対象になっていい。キリストは、死を異常なもの、人間にとって本来あってはいけないものとして敵視しておられる。それだから、この死は打ち負かすべきものとして受けとめておられる。キリストは、25節で、「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです」と死に対する勝利を宣言してくださったばかりである。

キリストが憤った死に関して付け加えておくが、聖書では、死は罪の結果とされている。「罪から来る報酬は死です」(ローマ6章23節)。罪は死をはじめとするすべての悲しみの原因と言える。それだから、キリストは罪に対して憤ったと解釈する人もいる。また、「その死によって、悪魔という死の力を持つ者を滅ぼし」(ヘブル2章14節)とあるところから、死の背後にあって死の力を持っている悪魔に対して憤ったという解釈もある。罪も、悪魔も、死に密着しており、死を形づくるものであるという受け止めは必要であると思う。ただ11章には、罪や悪魔に対する直接的言及はない。いずれ、キリストの憤りの対象として死を外してはならない。キリストは死に対して憤りを覚えられたことを、しっかりと受け止めておきたい。

ある人たちは、キリストの憤りはマリヤやユダヤ人たちの不信仰に向けられていると言う。キリストに死からのよみがえりのみわざを期待せず、信仰のない異邦人のように、他に望みのない人のように、敗北的悲しみに暮れているのを見て、キリストは憤ったのだと言う。だが、彼らは、マルタのように、ラザロがよみがえるという話をキリストから聞いていない。死からのよみがえりのみわざも目撃したことがないだろう。この不信仰の解釈もしばしされるが、断言できることは、キリストの憤りの対象には、まちがいなく死があったということである。

キリストは最初の憤りの後、涙を流される。「イエスは涙を流された」(35節)。印象的な場面である。この涙にはどのような意味があったのだろうか。感激の涙を感涙と言うが、そうではない。嬉しさのあまり流す涙を嬉し涙と言うが、そうではない。悔しさのあまり流す涙を悔し涙と言うが、そうではない。では死に対する悲しみの涙なのか。そう単純ではなさそうである。第一テサロニケ4章13節には、信仰者の死には希望があるという意味で、「眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです」とある。死はすべての終わりだ、死は愛する人との別離だ、キリストは、そのような暗澹たる涙を流したのではないだろう。マリヤやユダヤ人たちの涙とは違っていたはずである。33節で、マリヤとユダヤ人たちに対して使われていることば、「泣く」<クライオー>は「泣き叫ぶ、激しく嘆き悲しむ」の意味である。それに対して35節の「涙を流す」<ダクルオー>は「涙をこぼす」の意味で、オイオイ泣く嘆き悲しみとは異なるようである。

最初にはっきりしておきたいことは、キリストはラザロを愛し、マルタ、マリヤを愛し、そして、死に支配され悲しみにくれる全人類を愛しておられるということである(11章5,36節、3章16節)。キリストが流された涙は、「愛の涙」である。愛がなければ主の涙はない。マリヤ、ユダヤ人たちの悲しみに続いてということでは、「泣く者といっしょに泣きなさい」(ローマ15章15節)と、悲しみの共有と言えるだろう。しかし死に対する無力の涙、絶望の涙ではないことを確認しておく。

そして、この涙は、「悲憤の涙」である。「悲憤」とは悲しみ憤るということだが、先の「霊の憤り」がかたちとなって表れたものである。愛する人たちを支配し、悲しみに追いやる死に対する憤りが涙となった。だからセンチメンタルな涙ではない。キリストの愛と憤りは、コインの両面のようなもので、それは一つである。それが涙となった。愛と憤りの一体の涙である。静かにこぼれ落ちる涙だったかもしれないが、熱い力ある涙だったと思う。キリストの涙は、死を打ち負かし、ラザロをよみがえらせる予兆となっている。

では、ラザロの復活の場面を見よう。これは第七のしるしとなる。これまでのしるしの中で、最大のみわざとなる。これまで、しるしの中で、病のいやしはあったが、死人を生き返らせるみわざはなかった。しかも、死後四日目のみわざである(39節)。前回述べたように、死後三日目までは、死者のたましいは肉体に戻ろうとする意志があると考えられていた。しかし四日目は肉体が腐っているので、たましいは完全に墓から離れてしまっていると考えられた。四日目は死体が腐っていて、よみがえりは絶望だと誰しもが思う日である。しかしキリストは、「墓の石を取りのけなさい」と命じられる。信仰のチャレンジである。ラザロの復活それ自体は、人の信仰によらない。百パーセント主の力である。けれども、このみわざに人も関与させる。それは神の栄光を拝させ、信仰を確かなものとするためである。

キリストはマルタに言われる。「もし、あなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか」(40節)。キリストは彼女たちが送った使いに、「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです」(4節)とすでに伝えてあった。さらに、ご自分がよみがえりであり、いのちであることを伝えた後、わたしを信じるかと、信仰問答があったばかりであった。マルタはりっぱな信仰告白をする(27節)。ただ、彼女の信仰はまだ未発達であったため、ラザロの今ここでのよみがえりを信じ、石を取りのけるということは大きなチャレンジとなった。だが、キリストの命令によって、そして「もしあなたが信じるなら」というキリストのことばによって、マルタの心に、今ここでのラザロのよみがえりを期待する信仰が芽生えたと信じたい。石は男一人で取りのけることができない重さである。よってマルタではなく、当然、男たちが取りのけることになった(41節前半)。

ここで、キリストの出番である。キリストはラザロに向かって声をかける前に、目を天に上げて話されている。「イエスは目を上げて、言われた。『父よ。・・・』」(41節後半~42節)。ヨハネの福音書において、キリストの祈りのことばが出て来るのは、ここが最初である。「父よ」と呼びかけておられる。当時のユダヤ文献では、神は「王」あるいは「主」と表記されることが圧倒的に多く、「父」はまれだった。ところがキリストは会話の中で、ほとんどの場合、「父」と呼んでいる。そして祈りにおいては神を、常に「父」と呼んでいる。これも当時にあって特徴的なことであった。「父」という呼び名には畏敬の念も込められているが、親しさということが込められている。父と子の親しい関係である。弟子たちにも祈りにおいて、「父よ」と呼びかけるように教え、初代教会において、これが定着していく(ローマ8章15節、ガラテヤ4章6節)。キリストは祈りにおいて、皆に聞こえるように、「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝します」と語っておられるが、このことばに、マルタが先に言ったキリストへのことば、22節を思い起こす。「今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります」。キリストが父なる神に願い求めたこととは、死後、四日目のラザロの復活だった。マルタたちはこの願いを耳にし、復活を目撃することになる。

「そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。『ラザロよ。出て来なさい。』」(43節)。キリストはただご自身のことばで、ラザロを死からいのちへ移し替え、ラザロを新しく造り変えてしまう。聖書はキリストがことばによって、この被造物世界を創造されたことを証している。ヨハネの福音書冒頭もそうである。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。・・・すべてのものは、この方によって造られた。この方によらずにできたものは一つもない」(1章1~3節)。ことばなる神がことばによって世界を創造された(創世記1章)。そして今、キリストは、同じくことばによって、死からいのちへという創造のみわざをされる。

このラザロのよみがえりを、ただの蘇生と思ってはならない。死んでいたのがいのちを吹き返した程度のことではない。たましいが肉体に戻ったという程度のことではない。ラザロのからだは、死後四日経って、悪臭を放ち腐っていた。からだの組織全体が腐っていただろう。その腐っていたからだが新しいからだによみがえった。だから、ただの蘇生ではない。ラザロは長い布でぐるぐる巻きされた姿でよみがえるが、その下にあるからだは新しくなっていた。腐敗したからだではない。このラザロの復活は、キリストがやがて終わりの日に、病むことも腐ることも朽ちることもない復活のからだを私たちに信者に与えてくださることのしるしともなっている(第一コリント15章)。また、今この世で、肉体的に弱さを覚え、気力まで失ってしまう時、キリストのよみがえりのいのちを待ち望む祈りをささげたい。

そして、今日の個所から直接的に引き出せるというのではないが、キリストのよみがえりのいのちは、罪に腐敗した私たちを新しくする力があることも覚えたい。最後に詩編14篇1~3節を読もう。キリストのいのちを失っている全人類は「彼らは腐っており・・・だれもかれも腐り果てている」のである。けれども、キリストのいのちは、私たちを腐敗から救い出し、再生して下さるのである。

私たちは今、肉体的にダメージを受けて弱くなっているだろうか。また内側の腐敗を感じているだろうか。そんな私たちを、キリストのよみがえりのいのちは刷新し、再生してくださるのである。ラザロは腐敗した自分がよみがえるために何かをしただろうか。何もしていない。無力に横たわっていただけである。すべてはキリストのいのちの力であった。100パーセント主のみわざだった。

私たちが待ち望むべきは、いつでも、キリストというよみがえり、いのちである。キリストのよみがえりのいのち力である。私たちは、新しい一年も、キリストのよみがえりのいのちに期待し、このいのちに生かされて歩んでいきたいと思う。