ラザロの復活の物語も6回目となった。今日の個所では、「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」(25節)という、イースターで必ず読まれると言って良い、有名なみことばが登場するが、クローズアップされている人物は、マルタである。マルタはマリヤの姉で、活動的なマルタと静的なマリヤは良く比較される。マリヤは2節にあるように、主に香油を塗り、主の埋葬の備えをした献身的女性として知られている。また、主の足もとに座り、みことばに注意深かった女性としても注目を浴びている。しかしながら、ヨハネの福音書の第七番目という、この最後のしるしにおいて、著者のヨハネは、マルタの信仰に私たちの注意を向けさせている。マルタは教会の歴史を紐解くと、主婦の鑑とて尊敬を集めてきたようである。炊事、掃除、接待、そうした主婦の仕事をこなす模範として注目を浴びてきた。

今日の記事は、ラザロが墓の中に入れられて四日もたってから、キリストの一行が到着するという場面から始まっている(17節)。当時は、亡くなったその日に埋葬した。よって死後四日目ということになる。三日目ではなく四日目ということに意味がある。四日目は死体が腐り始めていた(39節参照)。当時は死者の死を悼んで、泣き男、泣き女を雇ってまで泣くという習慣があり、三日目まで「泣く日」として、墓に通って泣いたという。死者のたましいはそこにいると信じられていたので。つまり、三日目まで死者のたましいは肉体に戻ることを考えているとされていた。しかし容貌がくずれ体が腐ってくると、たましいは墓から離れてしまうとされていた。それが死後四日目だった。まだ、たましいが肉体の近くにあるとされていた三日目まで、防腐剤の役目を果たす香料を死体に塗り続けた。四日目は、たましいもあきらめて死体から完全に離れてしまった時であるということであり、別の言い方をすれば、肉体は腐り、たましいは肉体に戻りたくとも戻れない、つまりは、よみがえりは完全に不可能になってしまった時であるということである。キリストはあえて、よみがえりが不可能な、この絶望的な日を選んで、「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」ということばを実証する偉大な奇跡を演じられる。

マルタは、キリストを出迎えるために村はずれにまで出かけたようである(20節、30節参照)。マルタはなぜ、村の境界まで行ってキリストを迎えようとしたのだろうか。可能性として考えられるのは緊迫した状況下にあったということである。キリストが向かったベタニヤは18節にあるように、エルサレムの近郊である。そこはキリストを殺そうとしていた敵対者たちの牙城である。弟子たちは8節を見ると、「たった今、ユダヤ人たちがあなたを石打ちにしようとしたのに、またそこにおいでになるんですか」と恐れていたことがわかる。そして16節では、弟子のトマスが、殉教覚悟で向かう意志を表していることがわかる。「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか」。キリストはマークされていた人物なので、キリストのベタニヤ入りはすぐに評判が立つだろう。そしてこの時、マルタの家にはエルサレムからも人々が来ていた可能性があった。この時、四日目と言えども、まだ喪の期間である。大勢のユダヤ人たちがマルタたちの家に出入りしていた(19節)。死後七日目までは喪の期間である。最初の三日間の「泣く日」と併せて、この七日間は「嘆く日」として、泣き、悲しみを表し、また遺族を慰めた。この集まっていた大勢のユダヤ人たちの中に、エルサレムの指導者たちと通じている者がいる可能性もある。マルタは、キリストのためにも周囲に人がいない状況でキリストを迎え、まず個人的に話をしようと考えたと思われる。妹マリヤは20節後半に「マリヤは家ですわっていた」とあるように、ふつうに家の中で喪の姿勢を取っていたようである。

21節のマルタのことばに注目しよう。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」。全く同じセリフを妹のマリヤも32節で述べることになる。このセリフの裏に、彼女たちのどのような思いが隠されていたのかを考えてみよう。二人は、ラザロが死亡する前に、川向うにいたキリストに使いを出して、ラザロが重篤な状態にあることを伝えている。「そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。『主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です』」(3節)。この伝言の内容は興味深い。ああしてください、こうしてください、と願い事は述べていない。第二のしるしの時は、王室の役人についてこう言われている。「この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞いて、イエスのところへ行き、下って来て息子をいやしてくださるように願った。息子が死にかかっていたからである」(4章47節)。ルカ7章の冒頭にある百人隊長のしもべのいやしの記事では、百人隊長は使いを出して、死にかけているしもべを助けに来てくださるようにと懇願している。その後、少し時間を置いて、「主よ。わざわざおいでくださいませんように。・・・ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべはいやされます」という願いに切り替えている(ルカ7章1~10節)。マルタとマリヤの場合は、同じくラザロは死にかけているのに、「早く上ってきて、ラザロをいやしてください」とも、「何かおことばをください」とも何も言っていない。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です」とだけ言っている。これは良く考えれば、キリストを全く信頼し切っている姿勢であることがわかる。「主はラザロを愛しておられるのだから、私たちのほうで、ああして、こうして、と言う必要はない。おゆだねしよう」。教えられる姿勢である。このように、主にいちいち願いは述べなかったが、マルタとマリヤの心のうちに分け入ってみると、主はラザロを愛しておられるのだから、来て、いやしてくださるはずだ、そういう期待が大きかったはずである。しかし、彼女たちの願いとズレが生じてしまった。主はラザロがいのちあるうちに来てくださらない。「ラザロは治っている。行きなさい」ということばも使いにはなかった。彼女たちにとっては残念な結果に終わる。その嘆きがことばとなった。私たちも、こうしたズレと直面することになる。期待どおりにはならなかったと。期待通りに主は働いてくださらなかったと。主の思いは人の思いを超えていることがしばしばである。

マルタたちは使いの者から4節の主のことば、「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです」を聞いていたはずである。だが、マルタたちの心に残ったのは、「死」ということばだったと思う。「ラザロはやはり助からないのか」。そしてラザロは間もなく死に、彼女たちはラザロの死を悼み悲しんでいたわけであるが、キリストへの信頼を失ったわけではないのである。キリストへの信頼を失ったのではないことは、マルタの場合、22節の「今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります」の「今でも私は知っております」ということばや、27節に記されている「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております」というりっぱな信仰告白からわかる。マリヤもマルタと同じ信仰告白を心のうちに持っていたはずである。彼女たちは、キリストの到着が遅れ、ラザロはいやされなかったにもかかわらず、イエスはキリストであるという信仰を保ち、キリストを敬う姿勢を保持している。彼女たちの信仰は不完全であると言っても、この時点で彼女たちの信仰は他の人たちと比べて傑出している。

キリストは悲しみのうちにあるマルタに対して希望を語る。「あなたの兄弟はよみがえります」(23節)。マルタは応答する。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っています」(24節)。キリストは、今ここでのよみがえりを意識して言われたのだが、マルタは終わりの日のよみがえりについて語っている。当時の一般的なユダヤ人は、終わりの日に、すなわち、今の歴史が終わる時に、神を信じる義人はよみがえり、そして神を信ぜず、神に逆らう悪人どもは、ゲヘナの火で滅ぼされると信じていた(ダニエル12章)。「終わりの日のよみがえり」は、通称「義人の復活」と表現される。マルタは、私の弟は遠い将来よみがえっていのちを受け、神の国入る、義人の復活に与る、と信じていた。それは事実であり、キリストも否定してない。

ここでキリストは全人類に希望を与える宣言をされる。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」(25節)。キリストは先ず、「わたしは、よみがえりです」と言われたが、「わたしは、よみがえります」とも、「わたしは、よみがえらせます」とも言われていない。「わたしは、よみがえりです」と宣言している。キリストは続いて、「いのちを与えます」とは言っておらず、「わたしはいのちです」と宣言しておられる。わたしはいのちそのものである、という宣言である。力強い宣言であり、神にしかできない宣言である。「よみがえり」と「いのち」を続けることによって、キリストといういのちの性質が明らかにされている。「よみがえり」は死に打ち勝つことを意味している。キリストといういのちは死に打ち勝ついのち、よみがえりのいのちなのである。春に死んでいたと思っていた草花が芽をふく、よみがえる。どうしてか?いのちがあるからである。よみがえりのいのちは死に負けてしまういのちではない。そのことが、「わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」という結果を生み出す。「死んでも生きる」というのは、第一義的に、この歴史が終わる時に、キリストを信じて死んだ者はよみがえり、この腐ったりしてしまうからだではなく、神の国仕様のからだをいただいて永遠に生きることが言われているのだろう。終末的救いの希望がそこにはある。その前哨戦となるみわざを、ラザロの復活を通して間もなく現わされる。

そしてキリストは続く26節において、終末の未来の救いだけではなく、今ここでの現在の救いを説いている。25節では「死んでも生きる」という表現が取られていたが、26節では、さらに不思議な表現が取られている。「また、生きていてわたしを信じる者は決して、決して死ぬことがありません」。キリストが与えるいのちは、生きている時に与えられ、肉体の死によっても妨げられることはないということである。途中、死によって中断してしまうといういのちではない。このいのちは、今、この地上の生において与えられる永遠のいのちである。

これらの死んでも生きるいのち、決して死なないといういのちは、キリストを信じることによって与えられるわけだが、なぜなら、キリストはいのちそのものだからである。キリストはよみがえりであり、いのちである。よみがえりのいのちである。神のいのち、永遠のいのちである。よって、キリストという存在を受け入れる時に、このいのちが与えられる。キリストは、ご自身がよみがえりであり、いのちであることを、十字架刑の後のご自身の復活によって、完全に証明されることになる。

今日の個所は、よく見ると、マルタとの信仰問答になっていることがわかる。25,26節は、マルタに対するキリストの問いかけである。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか」。マルタは、キリストの話されたことを十分に理解したという形跡はない。ただ、彼女は、キリストという人格に張り付くようにして、このお方こそメシヤであると信じ切る告白をする。「彼女はイエスに言った。『はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております』」(27節)。キリストの問いとは少しズレているが、告白した内容自体は素晴らしい。このような素晴らしい信仰告白の記述は、あとはピリポ・カイザリヤでのペテロの告白、「あなたは、生ける神の御子キリストです」(マタイ16章16節)ぐらいなものである。マルタの告白はりっぱである。マルタの理解は不十分であるが、確信をもって今、目の前にいる人物が誰であるのかを告白している。直訳的に表現すると、「はい。主よ。私は信じきっています。あなたが世に来られる神の子キリストであることを」。彼女が目の前にしていたイエスという人物は、ユダヤ教の指導者たちによって、神を冒瀆する人物として死刑に値するとみなされていたお尋ね者だった。さらに、自分たちの期待とズレてしまって、弟の死体が腐ってから到着したという遅い人物だった。弟ラザロが死んでしまい、皆が悲しみにくれていた。けれども、りっぱな信仰告白だった。ラザロの復活という偉大な奇跡を見た後での告白ではなかったゆえに、この告白には大きな価値がある。キリストは彼女の信仰告白を喜ばれたのではないだろうか。マルタはキリストの御計画の全容を知ってはいない。けれども、キリストは誰であるのかを、しっかりと受け止めることができた。マルタの告白を高く評価しよう。そして、この後も、精いっぱいキリストに仕えようとするマルタの一途な信仰に、私たちも倣おう。