クリスマスおめでとうございます。クリスマスは愛を贈る日と言われるが、キリストは愛の神として人類に世界最初に与えられたクリスマスプレゼントである。約二千年前、キリストは家畜小屋で生まれ、ぼろきれにくるまれ、飼い葉おけに寝かされたのである。キリストの誕生を国の大臣や身分の高い人たちが盛大にお祝いすることはなかった。お祝いにかけつけたのは、近くの丘にいた貧しい羊飼いたちだった。キリストの両親とされたヨセフとマリヤも貧しい夫婦にすぎなかった。

今日、お開きしたヨハネの福音書には、キリスト誕生の詳しいストーリーはない。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」(14節)。これが、ヨハネの福音書でのクリスマスの最初の描写である。著者のヨハネは何に強調を置いているのだろうか。

「ことば」とは、神さまの言い換えであることが1節からはっきりわかる。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」(1節)。神さまがことばで表されている。これは特異なことのように思えるが、古代日本にも同じような思想があった。「言霊」(ことだま)について聞いたことがあるだろうか。言霊信仰とか、言霊思想とか言われる。言霊という文字は万葉集に記されている。古代人はことばに神の霊を認めた。ことばに神の霊が内在している、神の力が宿っている、そのように考えた。ことばには神の霊が宿っており,その霊のもつ力がはたらいて,ことばはその通り、現実に実現する,と考えていた。ことばは単に、感情やしてほしいことの表現手段ではないということである。ことばは生きていて実体をもち、ことばが発せられると、それは実現する。このようにことばに神的力を認めていた。言霊は、正確に言えば、神の力がことばに内在しているというよりも、ことばは神に付随しているものだということらしい。神とことばは一体、神イコールことば、そのようにも言えるだろう。このようなことば観は日本人の専売特許ではなくて、古代世界に共通するものだった。聖書ははっきりと、神とことばを同一視している。そして驚くことに、この宇宙をさかのぼると、初めに何があったかということにおいて、初めに物質があった、ではなく、初めに無であった、でもなく、初めにことばなる神があったと証言している。宇宙誕生以前にことばなる神が存在していたと言うのである。

そのことばなる神が人となられた、この事実を祝うのがクリスマスである。イエス・キリストは人となられた神であると聖書は証言している。東洋の宗教では、人が神になる、人が神にまで進化する、この教えが多いと思う。東洋の神々や仏がそうである。もとは人であったが神となった、人から神へ、である。けれども14節は逆方向のことを証言している。神は人となられた、と言うのである。まったく反対のことが言われている。神は人となられたというのは、神は人間にまで退化した、というのではない。神は神なのだけれども、人の姿をとったというのである。しかし、これは、みかけだけ人の姿をとったというのではない。文字通り、百パーセント、人間となられたというのである。14節の「人」のところにマークが付いていて、欄外註を見ると、別訳「肉」となっている。「肉」が直訳である。「言は肉となって、私たちの間に宿った」(共同訳)。

ことばは肉となった。これがクリスマスなのである。キリストが人となられたことを、キリスト教用語で「受肉」と言う(受ける、肉と書く)。さて、「肉」ということで何を表そうとしているのだろうか。通常、聖書で「人」と訳されることばは<アンスローポス>である(6,7節参照)。けれども14節では文字通り「肉」を意味する<サルクス>が使われている。ことばなる神は肉となられた。生肉のからだを持たれたのである。このからだはお腹が空き、喉が渇く。飢え渇きを覚える。ある程度動けば疲れを覚え、休まなければならない。回復のために睡眠をとらなければならない。おのずと行動範囲には限界が出て来る。病や死の恐怖とも戦わなければならない。つまり、肉は弱さを持つということである。キリストについてこう言われている。「私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、私たちと同じように、試みに会われたのです」(へブル4章15節)。「私たちの弱さ」とは肉の弱さである。肉という存在は弱さを持つ存在である。キリストは赤子の姿で降誕された。赤子は弱さそのものである。踏めばつぶれてしまうような存在。自分では何もできない。お乳は飲ませてもらわなければならない。ほおっておいたら飢え死にである。着替えも自分でできない。裸のままにされていたら、傷を負うか病気になって死んでしまう。全く無力である。大人になったらなったでの弱さを覚える。体力、気力の試みを覚える。肉につきまとう欲望の誘惑がある。肉はそれ自体は罪ではないけれども、その弱さのゆえに、欲望に弱く、罪と隣り合わせである。罪を引き寄せやすい。キリストは罪は犯されなかったが、人間とはどのように弱い存在なのか、肉となって実体験された。ゆえに、キリストは、私たちの弱さに同情できるお方である。

そしてキリストは、私たち人間に同情できるようにと、私たちと同じ肉となられたというだけではない。肉となられた一番の目的は、十字架にかかり、私たちを罪から救うためだった。「神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです」(ローマ8章3節後半)。肉である私たちの身代わりに、キリストは肉となって処罰を受けてくださった。これが受肉の大切な目的である。

肉の姿での刑罰は耐え難いものがある。十字架刑の前に、疲労困憊した状態のまま、皮ひもに鉛や動物の骨を埋め込んだ鞭で打たれた。キリストの場合、長い棘がついた茨の冠も被せられた。全身に激痛が走る。死刑囚は、自分が架けられる十字架の横木を刑場まで運ばされた。重さは約30~60キロ。軽いものではない。キリストは傷だらけの姿で、荒削りの重い横木を、運ばされた。そして刑場に着くと、長さ十数センチの釘で手足を固定された。これもまた激痛が走る。十字架は垂直に立てられ、重力は釘打たれた手足の三点にかかる。激痛で正常な精神を保つことさえ難しくなる。これらの行程で肉から流れ出し、失われていくのは血である。肉の特徴の一つは血を流すということである。キリストは全身傷だらけとなって、血を流しながら、十字架刑の痛みと苦しみを耐え忍んだ。キリストが十字架上で血を流された物語は、家畜小屋での誕生とともに有名である。クリスマスカラーは赤と言われるが、赤はキリストが流された血の象徴である。キリストは血を流すために生まれたと言って良いだろう。それは聖書にこう書いてあるからである。「血を注ぎだすことがなければ、罪の赦しはないのです」(へブル9章22節)。

キリストが血を流されることは1章29節で暗示されている。「見よ。世の罪を除く神の子羊」。旧約聖書の時代、罪の赦しのために、いけにえとして子羊が献げられていた。だから、こう言われている。「しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです」(へブル9章26節)。キリストは十字架で私たちの罪を負って血を流された。しかし、ただ死で終わったのではない。よみがえり、恵みとまことに満ちた愛の神として今も生きておられる。キリストの皆様へのメッセージは次のようである。

 

あなたを愛している。その気持ちは永遠に変わらない。わたしが与えるプレゼントは、お金では買えない、とても貴重なプレゼントだ。これを受ける人はどんな億万長者よりも恵まれている。

愛、喜び、平安、永遠のいのち・・・、これらがわたしのプレゼントだ。その愛は無条件の愛、永遠の愛だ。それは、与え続け、思いやる、真実な愛だ。

そして、弱さを覚えているあなたを忍耐強く見守る。誰もが無関心でいる時も、あなたに理解を示す。誰もが冷たく、あなたに心を閉ざしている時も、優しさを忘れない。悲しい時、孤独な時にも、わたしの愛はあなたを慰め、がっかりしている時には力づける。平安を運んできて、嵐の真っただ中でも心の安らぎを与える。

疲れ果てている時には休みを、もう一歩も進めないと思う時には力を与える。わたしの愛はあなたの恐れや不安を鎮め、絶望のどん底にいる時には勇気を与える。罪でへし折れている時は、赦しを与える。

わたしの愛は、昼も夜も、いつでもどこでも、あなたに注がれる。あなたを救うためなら、どんな難局も乗り越え、どんな所にも行く。死の陰の谷でもいっしょだ。あなたを見捨てることはない。片時もあなたのそばを離れない。天の御国まであなたを導く。

わたしはあなたのすべてを知っているし、すべてを見ている。わたしはあなたを罪から救い、永遠のいのちを与えたくて、天から下り、十字架の上でいのちを捨てた。それほど愛しているのだ。わたしとわたしの愛があなたへのクリスマスプレゼントだ。わたしの名を呼んで、心を開いてわたしを受け入れてほしい。わたしは永遠のはじめから在ることばなる神であり、あなたの救い主だ。(以上)

 

ヨハネの福音書で、クリスマスに良く読まれるのがヨハネ3章16節である。最後に、この箇所を開いて読もう。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりも滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」。著者ヨハネが強調したいのは、キリストが神であるということともに、神の愛なのである。「世」のところにご自分の名前を入れて読んでみてください。愛に満ちた世界最初のクリスマスプレゼントが心に迫ってくるはずである。