人は誤って高価なものを捨ててしまうということがあるそうである。ある人がゴミ捨て場にヴァイオリンが捨ててあるのを見つけた。とりあえずということで、拾って鑑定してもらうと、550万円の値打ちのある高級ヴァイオリンであったそうである。私たちもゴミにして捨てる前に、考え直したほうが良いかもしれない。

聖書は高級ヴァイオリンを捨てるどころではなく、もっとひどい話を載せている。ユダヤ人たちは、神の御子キリストを、悪霊につかれているとかなんとか言って、本当にゴミ扱いにして、何度も殺そうとする。今日の記事も、その一場面である。時期は冬で、ちょうどクリスマスの頃である(22~23節)。「そのころ、エルサレムで、宮きよめの祭りがあった。時は冬であった」。「宮きよめの祭り」は7章2節で言及されている「仮庵の祭り」から約二か月後に八日間開催される。「宮きよめの祭り」が聖書で言及されているのはここだけである。宮きよめの祭りは、モーセ律法で規定されている祭りではない。この祭りの起源は、旧約時代と新約時代の中間にある、俗に言う「中間時代」にある。この時代、ユダヤはシリヤに支配されていたことがあり、シリヤの王がエルサレムの神殿にゼウスの神の像を置くという冒瀆を働いた。神殿が異教の偶像で汚された。ユダ・マッカバイオスという祭司が指導者として立ち、ゲリラ戦で戦って、紀元前164年に神殿を奪回し、政治と信仰の自由を獲得するのだが、この時の神殿の奪回を記念して、宮きよめの祭りが開催されるようになった。だが、この祭りも形骸化してしまい、神殿を統治する指導者たちは、キリストによって悪魔の子たちと呼ばれる有様であった(8章44節)。彼らの罪によって、「宮きよめ」という名前とは反対に、宮は汚れていた。キリストは生涯の間、何度か神殿で「宮きよめ」という行為に出ている。ヨハネの福音書では2章13~22節に記されている。キリストは神殿を金儲けの場所に変えていたユダヤ人たちに対して、「わたしの父の家を商売の家としてはならない」と義憤を表わされた。ユダヤ人たちは宮きよめの祭りを毎年開催するも、それは空しく、宮は黒々に汚れていて、宮きよめが本当に必要な状態であった。

この時、キリストはどこにいたのかというと、神殿の外れである。「イエスは、宮の中でソロモンの廊を歩いておられた」。「ソロモンの廊」とは、神殿の周りの外庭を取り囲む屋根付きの回廊である。神殿の敷地にある構造物ではあるが、神殿の外と言えば外。神殿にはユダヤ人しか入れず異邦人が入るのは許されなかったが、このソロモンの廊に異邦人が入るのは許された。つまり、神殿そのものとはみなされていなかったという構造物で、位置づけは神殿の外れというか、神殿のはじである。しかし、今日の物語を読んでいただくとわかるように、ユダヤ人たちは、キリストが神殿の外れにいることも許さない。「ユダヤ人たちは、イエスを石打ちにしようとして、また石を取り上げた」(31節)。キリストは本来、神の救い主として、神殿の中心で礼拝されなければならないお方、神殿の主宰者。しかし、その神殿から排斥してしまう。神殿から神を追い出す行為と言ってよい。当時のユダヤ人の霊性がいかに闇に沈んでいたかがわかる記事である。ユダヤ人たちは、以前もキリストを石打ちにしようとしたことがある。約二か月前である。「イエスは彼らに言われた。『まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。』すると彼らは石を取ってイエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、宮から出て行かれた」(8章58,59節)。この時キリストは、神殿の内庭におられたが、殺されそうになり、居場所を失って退いてしまう。そして今は神殿の外れ、はじにおられるが、ユダヤ人たちはそこにいるのも許さない。

「それでユダヤ人たちは、イエスを取り囲んで言った」(24節前半)。何か物々しい雰囲気である。リンチにする前に、逃げ出さないようにして取り囲んで、いちゃもんをつけるような態勢である。教えを乞うというへりくだった態勢ではない。「あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。もしあなたがキリストなら、はっきりそう言ってください」(24節後半)。「キリスト」という呼び名は名前ではなく、欄外註にあるように「メシヤ」の別称である。キリストはメシヤであることを示してきた。しかし、その示し方には知恵が必要だった。ユダヤはシリヤから解放されて、それを記念して宮きよめの祭りを行っていたが、この頃はローマ帝国の属国になっていて、人々はローマ帝国から武力をもって解放してくれるリーダーを求めていた。それが彼らのメシヤ観であった。軍事的リーダー、政治的リーダー、第二のマッカバイオス、それを大衆は心待ちしていた。こういったメシヤ観が大半を占めていたので、公けの場で不用意に「メシヤ」ということばを口にされなかった。けれども、キリストは、ご自身が神から遣わされた者であること、「いのちのパン」であること、「いのちの水」であること、「世の光」であること、「良い羊飼い」であること、こうした様々な講話で、ご自身がメシヤであることを示し、語ってこられた。また、キリストが行われた様々なしるし、すなわち奇跡は、キリストがメシヤであることを証するものであった。だからキリストは言われる。「わたしは話しました。しかし、あなたがたは信じないのです。わたしが父の御名によって行うわざが、わたしについて証言しているのです」(25節)。キリストはことばとわざによって、はっきりとご自身が誰であるかを証してきた。けれども、心かたくなな彼らは信じようとしない。これから何を話しても、何を見せても信じないだろう。キリストはその信じない理由を、再び「羊飼いのたとえ」をもって話される(26~28節)。

「しかし、あなたがたは信じません。それは、あなたがたがわたしの羊に属していないからです」(26節)。私たちはまず、私たちがキリストの羊であることに改めて感謝しよう。私たちは、自分の無力さ、愚かを嘆き、自分のことが愛想が尽きると思ってしまうことがある。なんて自分はだめな信仰者なんだろうと。しかし、考えてみれば、私たちは無力で愚かだからこそ羊にたとえられている。キリストは私たちの無力さ、愚かさを最初からご存じで、喜んで羊飼いを引き受けてくださっている。だから、キリストの前でかっこつける必要はない。前回学んだようにオープンフェイスで御前に出て、ダメな自分を愛してくださる主についていけばいい。ユダヤ人たちの場合はかっこつけすぎで、自分たちのことを毛並みのいい馬であるかのように勘違いしていて、キリストに救いを求める気持ちはさらさらなかった。

「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます」(27節前半)。前回、羊は自分の羊飼いの声を聞き分けることができる、また羊飼いは、自分の家族のようにして、羊一頭一頭を知っているという話をさせていただいたが、まさに今日の箇所はそのことを語っておられる。そして、キリストは良い羊飼いとして愛の約束を28節で語られる。「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません」。この約束は真実である。キリストは良い羊飼いである。無力で愚かな羊を見捨てることなく、全身全霊をもって守り、永遠のいのちを与えてくださる。キリストの羊はほんとうに幸いである。

キリストは父なる神との関係において、一つであることを示される(29,30節)。「わたしと父とは一つです」(30節)。このことばによってユダヤ人たちはキリストを石打ちにして殺そうとする。以前お話したように、石打ちは、神を冒瀆した者に対する死刑手段である。なぜ「わたしと父とは一つです」ということばが彼らを怒らせたのだろか。それは、自分を神と等しくしたと判断したからである。

「一つ」と訳されている<ヘン>(中性形)は欄外註にあるように「同一の本質」を意味させることができることばである。キリストは神である。しかし、父なる神と区別される神である。「一つです」の「です」という動詞は、単数形ではなく複数形である。父なる神と子なる神は一つであるが区別があるということである。神は一人であるが、区別があるということである。これはすでに1章1節で論証されている。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」。神は三位一体であり、神はお一人だが、父なる神、子なる神、聖霊なる神の区別がある。三つだが一つ、一つだが三つ。キリストは今日の場面では、父なる神とご自身の区別を意識しながら、その一体性について語っておられる。いずれ、これはユダヤ人たちにとっては、自分を神と等しくする冒涜的発言と映った。「・・・冒瀆のためです。あなたは人間でありながら、自分を神とするからです」(33節)。

キリストが石打ちの危険に会う場面はこれで二度目であるわけだが、キリストの対応が先の8章とは異なる。8章のときは、石打ちを避けて、すぐに身を隠された。ところが10章のこの場面では、ご自身を殺そうとする彼らの前に踏みとどまっている。神殿のはじで、いわば土俵際で、ご自身の存在を完全に消滅させようとしている彼らに対して、誤りに気づくようにあわれみのことばを投げかけられる。怒りと憎しみに燃えて、石を持ち上げて迫る彼らに対して、なおご自身を信じるように迫る。ユダヤ人たちとの公の論争は、ヨハネによる福音書では、この章が最後になる。神殿のはじで、最後の愛のねばりと言っても良い。38節を見ると、「たといわたしの言うことが信じられなくても、わざを信用しなさい」とあり、最後の最後まで、信じることを呼び掛けていることがわかる。神殿のはじで、土俵際で、主なる神が最後の抵抗を見せながら、信じる呼びかけをされている。

ユダヤ人たちは、キリストのわざは良かったことを暗に認めている。「良いわざのためにあなたを石打ちにするのではありません」と(33節前半)。キリストのわざはどれも良かった。病人を治し、盲人に光を与え、悪霊を追い出しと。ユダヤ人たちは、あなたを石打ちにするのは、人間にすぎない身なのに自分を神とする、その冒瀆的発言のためだと答えたわけである(33節後半)。彼らは、キリストのことばに難癖をつけ、揚げ足を取ろうとしていた。

キリストは、聖書を用いて、ご自身のことばの正当性を証明しようとされる(34~36節)。34節の「わたしは言った。おまえたちは神々である」は詩編86篇6節の引用である。ユダヤ人の指導者であるならば当然知っているみことばなのだが、当時、この「神々」が誰を指すのかは二通りの解釈があったようである。一つは、神の代理人として「イスラエルの民を裁く裁判官」を指すというもの。神に代わって裁くその神聖な職務のゆえに神々と呼ばれるのだと。キリストは神の代理人というよりも神の全権大使、神の子である。もう一つは、「律法を受けるイスラエルの民」を指すというもの。キリストは律法を受ける側ではなく律法を与える側であり、そして律法の完成者である。神ご自身である。キリストを殺そうとしている彼らこそ、神を冒瀆する者たちである。そして、先ほどお話したように、キリストは、わたしのことばを信じることができないとしても、わたしのわざを信用しなさいと、最後まで信じることを呼びかけた。神殿のはじで、ふんばって、忍耐して、彼らに信じるラストチャンスを与えられた。このキリストの姿に心を留めなければならない。キリストはいのちがけで、救いの呼びかけをされた。キリストは殺しの道具を持つ彼らに対して、いのちの手を差し伸べておられた。キリストが与えようとされていたのは、永遠のいのちである。

結果的には、キリストは神殿から完全に遠のくという結果に終わる。「そこで、彼らはまた、イエスを捕えようとした。しかし、イエスは彼らの手からのがれられた」(39節)。この後、キリストは、ヨルダン川を渡って、公生涯をスタートされた場所に戻られることになる(40節)。そこではキリストのことばとわざを信じる者たちが起こされることになる(41,42節)。

今日は「宮きよめの祭り」の出来事であったが、実はこの祭りは神殿のともしびが8日間にわたって輝き続けたので「ともしびの祭り」とも呼ばれ、多くのともしびをともして祝う習慣があった。「光の祭り」とも表現されていた。キリストはかつて神殿において、「わたしは世の光です。わたしに従う者は決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです」(8章12節)と宣言された。光の祭りの期間に、皮肉にも、「わたしは世の光です」と公言された、神の光であられるキリストを神殿から追い出してしまうことになった。なんということだろうか。彼らは闇を愛していた。ヨハネ3章19節に、「光が世に来ているのに、光よりもやみを愛した」とあるが、今日の物語もそれを裏付けている。皆さんは光と闇のどちらを愛するだろうか。

闇の霊気は世界を覆い、私たちの心にも侵入して来る。その闇は罪の闇、死の闇、孤独の闇、絶望の闇である。キリストの光を慕い求めよう。また、私たちは自分が羊のように無力で愚かであることを認めて、キリストをわたしの羊飼いとして仰ぎ、歩んで行こう。