以前、9章から痛みの問題についてお話させていただいた。人間の痛み、苦しみをどう受け止め、向き合っていくかということだった。今日はその中から病に絞ってお話したい。病にかかったことがないという人がおられるだろうか。病の問題はほぼすべての人に関係がある。今、病気を患っているという方もおられるだろうし、以前、患っていたという方もおられるだろう。そしてこれから後、病を患う可能性は誰にでもある。私たちはどうにかして健康を維持したいと願う。それは自分のためだけではなく家族のためにも。みんな健康でいることが家族の幸せだと思う私たちである。ところが現実は厳しい。まだ子どもたちが自立できていない若い父親、若い母親の病で家族が混乱に陥ることがある。またもっと長生きして教会や社会でリーダーとして活躍してほしいと思う方が床に伏してしまうということが起きる。このような場合、神の愛について疑問を投げかけたくなるかもしれない。神の愛を疑わないまでも信仰が試される。

ラザロという青年がキリストに愛されていた。だが死の病にかかっていた。「そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です」(3節)。「姉妹たちは」とは、マルタとマリヤであるわけだが、この三兄弟はキリストと親しいつきあいがあった兄弟たちであったようである。古代の文書によれば、ラザロはキリストと親しい語らいの時をもっていたことが言われている。そのラザロが重篤な病に陥った。ラザロのいやしを願うのは必然である。詩編に、「主は病の床で彼を支えられる。病む時にどうか彼をまったくいやしてくださるように」(詩編41編3節)とある。同じような願いが、この時、キリストに向けられた。今日は、ラザロの記事から、最初に、信仰者の病について三つのことを見たいと思う。

第一に、神に愛されている者も病にかかるということである。この単純な事実がしばし忘れられる。キリストに特別に愛されている人でさえ病にかかる。これは案外忘れられていることであり、素直に受け取められることも少ない。病の中にいる主に愛されている信仰者は少なくない。ラザロがかかっていた病は重いものであった。「病気」と訳す原語は二種類あるが、3節では「死の病」または「衰弱」という意味をもつ原語が使用されている。ラザロは重体であった。この事実から、信仰者の病気と主の愛は矛盾するものでないことを学ぶ。キリストが愛している人と言っても、それでもやはり人であることには違いない。つまり、人はその性質上、病にかかる。そして人である以上、衰弱して死を迎える。チャールズ・スポルジョンは言っている。「イエスの愛は、人生に必然的に起こる共通したことや、病気、衰弱から私たちを切り離さない。神の人はなお人である」。私たちは肉体をもつ人である以上、体力の消耗や種々の病を患う。病気はこの世界につきものである。けれども、病気にかかると、困惑と驚きが生まれる。それは当然である。3節では「ご覧ください」ということばが、それを表している。

第二に、病は教訓となるということである。ノンクリスチャンの病の体験談を読むと、教訓を受けたというお話が多い。ノンクリスチャンの方が病を通して教訓を受けるのなら、私たちはなおさらである。私も自分の病を通して自分の無力さを知り、病の中で神の愛を再発見した。また体を壊す度ごとに、みことばが心に響いてきて、たましいでみことばを理解するという体験をさせられている。小説家の三浦綾子さんは悪性腫瘍を患われた時、「病は神からのプレゼントである」と告白された。そして「苦しみにあったことは私にとって幸せでした。私はそれであなたのおきてを学びました」(詩編119篇71節)に同意されている。まことに神は、ご自身の計画に従って召した者たちのためにすべてのことを働かせて益としてくださる方である。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」(ローマ8章28節)。みことばが告げる「益」とは何かということだが、文脈から、続く29節から、御子のかたちに似せられることであるということがわかる。

第三に、病は神の栄光を現すためにも用いられるということである。「イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです」(4節)。ラザロの物語から、人類は大きな影響を受け続け、神の栄光は現わされてきた。今日はこのポイントについて詳しく取り扱うことはしないが、単純に、4節のみことばを受け止めよう。

これまで述べて来たことは客観的な観察にすぎず、重い病のうちにある仲間に対して、標本か何かに向き合うかのような態度を取ってはならない。私たちはその人の痛みを自分の痛みとして受けとめることに心を砕くことなくして、何も言う権利はない。聖書は「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい」(ローマ12章5節)と命じている。次回見るように、キリストも涙を流された(35節)。

信仰者の病について、神に愛されている者も病にかかるから始まって三つのことを見てきたわけだが、病はある意味、必然的なものである。だからと言って、病にかかった時、健康になることを願ってはならないということではない。いにしえの聖徒たちがいやしを神に願ってきた。自分が、家族が、また仲間のクリスチャンが病にかかった時に、私たちの心は主なる神に向かう。

では次に、病にかかった時にどうするかを3節から三つのことを見よう。第一に、主のもとに祈りによって走るということである。もちろん医者も呼ぶだろう。また病院に向かうだろう。けれどもいやしの根源は主なる神である。主のもとに祈りによって走ろう。第二に、問題を主に告げるということである。内臓が病んでいるならそのことを。頭痛がするならそのことを。病のため自分がしなければならないことができなくて困っているならばそのことを。第三に、主の愛を祈りの土台とするということである。マルタとマリヤは主に訴えるにあたり土台としたものは何だろうか。彼女たちはしばし、キリストを家に招きもてなした。だから彼女たちはここで、「私たちはあなたのお世話を十分にしてきました。だからその見返りとして弟を助けてください」と願っているだろうか。いや、違う。彼女たちの訴えの土台となっていたのは、彼女たちの功績でもなければ、彼女たちの愛でもない。「あなたが愛しておられる者が病気です」と、キリストの愛を基として願った。私たちはしばし、「私はあなたに対してこんなに犠牲を払ってきました。これだけ仕えてきました。私のしてきた事、私のあなたに対する愛は、あなたの助けを受けるに値します」と、そんな感覚で祈ってしまうことがある。つまり、取引の祈りである。自分のしてきた事、自分の忠実さ、自分の側の何かを持ち出して訴えるというのは、そんなに推奨できる祈りではない。純粋に主の愛にすがって祈るべきである。主の愛が、私たちの訴えの土台、祈りの土台である。この祈りの土台が崩れると、闇の迷路に入ってしまう。

主の愛を祈りの土台とするならば、自分の願ったとおりに物事が運んでいかなくとも、必要以上に慌てたり、主に対して不信感を抱いたりということにはならないはずである。主の愛を信じている人は、心が揺れても、みこころがなりますようにというところに必ず落ち着くはずである。主を信頼しているからである。

マルタとマリヤは使いを送ってキリストにラザロの病気を告げた。その時彼女たちは何を期待したのだろうか。使いがキリストのもとに到着し、キリストがラザロの病を耳にした時すぐに弟が回復することを願ったかもしれない。また、弟をいやしにすぐに来てくれることを期待したかもしれない。しかし、そのどちらでもなかった。そうこうするうちに、ラザロは快方には向かわず、悪化し、死んでしまう。キリストは来ず、なおもおられた所に二日間とどまった(6節)。そして実際に来てくださったのは埋葬後四日後(17節)。キリストはラザロの状態をすべてご存じであられたにもかかわらず、人間の願いとは完全にズレた行動を取られた。彼女たちの願い通りにはならない。私たちは病に関する私たちの祈りは、期待通りには応えられないかもしれないということを学ぶ。実際そうであることは、私の体験からも言える。私の場合、いやされたことはいやされたが、願った通りそのままではないかたちでのいやしを受けた(つまり、後遺症が残るかたち)。またある人はいやしそのものを受けず死に向かうということがある。またある人は、医者も驚くほどの奇跡的いやしにあずかる。三者三様である。

これらの事に関して私たちがわきまえておかなければならないことは、私たちは神のベストにゆだねていくという姿勢が必要であるということである。私たちは、自分の祈りが答えられた時だけ納得するという存在ではないはずである。主はベストは何かを良く知っておられる。この人にとってのベストは何であるのかも。そしてご自身の栄光のためには病や死をも用いられる。主のベスト、最善が成り、主のみこころが成るならば、私たちには人のすべての考えにまさる平安が与えられるだろう。ところがある方々は言われるかもしれない。「ラザロの物語に関しては、主のみこころが成りますように、と言うのはたやすい。なぜなら、願いは聞かれず病が重くなって死んだといっても、結局は死からよみがえったわけだから」。確かに、ラザロは病死が結末ではなかった。よみがえった。だが、このことを忘れてはならない。主を信じる者はだれでもラザロと同じく、やがてよみがえるということを。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」(25節)。ラザロがよみがえる者であるならば、私たちもよみがえるだろう。違うだろうか?主を信じているならば、兄弟はよみがえり、姉妹もよみがえり、父親もよみがえり、母親もよみがえり、子どももよみがえる。もちろん、キリストのいのちを受けて生きる御国、新天新地の世界には、病も死もない。こう思うと、私たちもラザロも大差ない。病の時期、病の種類、病の頻度、重さ軽さは人により違うが、私たちはどんな場合にも主を信頼して、慰めを受け、平安を受けて歩むことができる。

私たちは病にかかった時は主なる神に祈りつつ、最善の手を尽くすということは言うまでもないだろう。それとともに、主の愛を片時も疑わない信仰が必要である。マルタ、マリヤを愛され、ラザロを愛された主は、皆さんのことも愛しておられる。そのことを信じているだろうか。私たちは、ヨブのように主の愛を疑うように悪魔から試みを受けることがあるだろう。だが、それに屈してはならない。私たちは、主の愛の広さ、高さ、長さ、深さ、またその真実性を証するために生かされている。もし健康であるならば、精力的に、活発に、元気よく主に仕えたら良いだろう。もしそうでないのならば、その弱さのうちにあって主に助けを受けている姿が証となるように心がけたい。病のいやしは祈るものである。しかし、病のいやしは、私たちの願いとは異なるかたちで聞かれることになるかもしれない。たといそうであっても、主の愛を土台として、主にゆだね、私たちを通して主が証され、主の栄光が現わされることを願っていきたいと思う。