今日の記事は、キリストがご自身を羊飼いにたとえられた講話の続きである。前回は、キリストがご自身を羊の囲いの門にたとえられたことに強調を置いた。「わたしは門です」(9節)。今日の講話では、キリストはご自身のことを「わたしは、良い牧者です」と二回宣言しておられる(11,14節)。

良い牧者と正反対の存在は盗人である(10節)。9章では、ユダヤ人指導者たちが、キリストが生まれつきの盲人の目を開けたことにいちゃもんを付け、盲人を会堂から追い出したことが記されていたが、10節の「盗人」がユダヤ人指導者たちを指す。彼らは「ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけ」である。けれども、キリストが来られたのは、「羊がいのちを得、またそれを豊かに保つため」である。キリストはいのちを与えてハイ終わりではなく、続けて養い、育成してくださる。それが「豊かに保つため」ということばで表されている。

11節以降から、キリストが良い羊飼いであることを学んでいきたいと思うが、その前に、羊の特徴について触れておきたい。聖書はご存じのように、人間を羊にたとえている。羊の特徴を表すみことばを一箇所紹介しよう。「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの自分勝手な道に向かっていった」(イザヤ53章6節)。「羊のようにさまよい」とあるが、羊の方向オンチは有名である。羊飼いのもとをさ迷い出たら、広々した地でさ迷い、戻って来れなくなる。それでも元気にしてくれていればいいのだが、羊は無力なので、余計に心配になる。かめのようにひっくり返ったら、自分の力で起き上がることができない。何時間もその姿勢で暑い所にいたら、死んでしまう。また肉食獣が襲ってきた時、アタックされ、殺されるまで、鳴き声を上げることもなく、ボーッと突っ立っているそうである。逃げても鈍足なのでたかが知れている。狼や熊に襲われたら一ころである。もともと近眼であるため、離れた野獣を認識できない。近眼による危険はそれだけでなく、目の前が崖であっても、前に行ってしまう。崖から落ちる危険が高い。さらに悪い事に、食物に対する識別力がない。毒のある食物もわからないで食べてしまう。羊は羊飼いから離れ、迷ってしまうと、様々な危険が付きまとった。羊は、方向オンチで目が悪くて無力で愚か。人間をたとえるのに、まことにふさわしい動物。

通常の人間は、羊飼いであられる神から離れて生きている。つまりさ迷っている。その行きつくところは滅びである。羊飼いのもとからさ迷い出た羊が、そのままであると死んでしまうのと同じである。一度迷った羊は、自分の力で帰ることはできない。私たちも「自分の力で神に立ち返ろう。羊飼いのもとに帰ろう」と思っても、それはできない。羊飼いのほうで先手を取って捜し、いのちを捨てるというアプローチをしてくださらなければ誰も救われない。キリストは取税人ザアカイを救った時、「人の子は失われた人を捜して救うために来たのです」(ルカ19章10節)と言われた。もし、まことの神がまことの人となって、ご自身を啓示し、救いに招き、救いの道について語って下さらなかったら、私たちはどうやって神のもとに帰ったらよいかわからなかっただろう。迷い続け、滅んで終わりである。そして私たちの救いのためには、キリストがいのちを捨ててくださることが必要だった。私たちが神に立ち返るにあたって、障壁となっていたのが人の罪である。神と人とを隔てている罪が取り除かれない限り、私たちは神のもとに帰ることができない。だから、キリストは私たち羊のために、罪の問題を解決するべく、十字架に向かってくださった。

では、良い羊飼いの特徴を二つ見ていこう。良い羊飼いは第一に、今、お話したように、羊のためにいのちを捨てる、ということである。「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます」(11節)。これは、羊が熊や狼に襲われて助けようと思ったら、運悪く、いのちを落としてしまった、などというようなことではない。もっと、積極的なことが言われている。「捨てます」を新改訳2017は欄外註の別訳で、「与えます」と訳している。つまり、それは自発的な死であるということである。それがはっきりわかるのは18節前半である「だれも、わたしからいのちを取った者はいません(「わたしからいのちを取りません」新改訳2017)。わたしが自分からいのちを捨てるのです」。キリストの十字架の死は予想外の出来事で計画失敗だったとか、アクシデントだったとか、暴力で奪われたいのちだとか、そういうことではでない。自発的な愛の行為、いのちを羊に与えようとする行為だった。良い羊飼いは、羊を家族同然にみなして、いのちを与える。

キリストは良い牧者を浮き立たせるために、対照的な存在として「雇い人」を挙げている。「牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです」(12節)。「雇い人」について触れる前に「狼」について見ておこう。新約聖書で「狼」は偽預言者や偽教師について当てはめられている。「にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です」(マタイ7章15節)。「私(パウロ)が出発したあと、狂暴な狼があなたがたの中に入り込んで来て、群れを荒らし回ることを、私は知っています」(使徒20章29節)。新約の手紙の大半は、偽教師を警戒させるために執筆されている。ヨハネの手紙がまさしくそうである。「雇い人」は偽教師ほど悪くはないようである。ただ羊を置き去りにすること、逃げることが言われている。13節では、「羊のことを心にかけていない」と本質を突いている。ある方が「サラリーマン牧師」と表現しているが、的を得た表現である。給料をもえらえる仕事として割り切ってやっているだけというか、そこに自発性、親身さといったものは感じられない。めんどうなこと、損することには巻き込まれたくない。淡泊というかドライで、自分の身を守ることに終始してしまう。羊のことではなくて自分のことを大切にする姿勢を見せて終わってしまう。それは「羊のためにいのちを捨てる」とは正反対の姿勢である。以前、迷い出た羊を連れ戻すために、羊飼いが羊の皮をかぶってその羊に近づいた話を紹介したことがあるが、キリストは世の罪を取り除く神の子羊として、この世に受肉され、人となられ、迷える羊たちの友となり、救いの道を示し、ついには私たち羊の身代わりとして、十字架の祭壇でいのちを献げてくださった。キリストはご自分のいのちを捨てる意志を、今日の個所で四回表明しておられる(11,15,17,18節)。18節から、いのちを捨てることは神の命令であることも知れる。

良い羊飼いは第二に、羊を知っている、ということである。「わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています」(14節前半)。しかし、キリストがここで言われている「知っています」というのは、単に誰であるのかを知っている、という程度のことではなくて、親しい関係の中で相手のすべてを知っているという知り方なのである。14節、15節前半を読もう。「わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です」。羊飼いは羊を知り、羊も羊飼いを知っている。この相互の関係は、御父と御子の親しい関係になぞらえることができるのだと言う。

14節の、羊飼いは羊を知り、羊は羊飼いを知っているという話は、聞いている者たちもある程度理解できたはずである。パレスチナなどでは、二つの羊の群が一緒になってしまうことがある。けれども羊飼いたちは、どれが自分の羊か見分けることができるという。それどころか、自分の羊の一匹一匹の違いを識別できている。実際に、一匹一匹に名前をつけて、個々の羊に心を配っている。羊たちも、そこに二人の羊飼いがいたとしても、自分の羊飼いを識別できるという。キリストはこうした羊飼いと羊の関係に心を留めさせつつ、それを御父と御子という関係に昇華させて考えさせている。それは本当に親しい関係、愛の関係である。

「わたしはわたしのものを知っています」(14節前半)という知り方について、もう少し考えてみよう。現代は、個人情報ということばを良く耳にするが、現代はパソコンで人の情報を簡単に得られる時代である。その人の名前、住所、年齢、趣味、家族構成、学歴、職業、銀行の残高、病歴、過去のトラブル、基本的ライフスタイル、そうしたことが全部わかってしまう。けれども、キリストが知るという知り方はそういうことではない。キリストは全知全能のお方だから、パソコンが知る以上にもっと詳しく私たちを知っている。けれども、その知り方は機械的ではない。愛をもって知るという知り方である。事例を挙げると、4章の「サマリヤの女」を挙げることができるだろう。キリストは「あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです」(18節)と知っていた。キリストは彼女の過去も現在も、彼女の罪も弱さも、彼女の長所も欠点も、すべてご存じであられた。けれども、ただキリストは、身辺調査する私立探偵的に、彼女を知っていたということではない。彼女はキリストにとって、迷えるご自分の羊であったわけである。ご自分の羊として知っておられたということである。愛情を注ぐ対象として知っておられたということである。9章の「生まれつきの盲人」のことを考えていただいてもいい。「近所の人たちや、前に彼が物ごいをしていたのを見ていた人たちが言った。『これはすわって物ごいをしていた人ではないか』」(8節)。近所の人たちは、彼が生まれつき盲人であることや、彼の両親が誰でどこに住んでいるかや、彼の子供時代はどういう風であったかや、彼の体型や顔つきや性格や身なりや、彼の声を知っていただろう。ただ、そこ止まり。キリストは、ご自分の失われた羊として彼を知っておられた。家族の一員のようにして知っておられた。両親は彼を見捨てたが、キリストは彼をご自分の羊として自覚しておられた。いのちを捨てるに値する存在として知っておられた。「また、わたしは羊のために、わたしのいのちを捨てます」(15節後半)。

キリストは、ご自身が愛している迷える羊たちを、さらに導こうと、その決意を表明される。「わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです」(16節)。生まれつきの盲人は囲いに入ることができた羊である。「この囲いに属さないほかの羊」とは、異邦人が意識されていると言われることも良くあるが、それが誰たちのことを意味していたとしても、よくよく考えれば不思議なことがある。羊飼いが死んでしまったら、囲いに他の羊たちを入れる働きができなくなってしまうのではないかと。「ひとりの牧者となるのです」と言いつつ、死んでしまったら、どうするのかと。しかし、キリストは続く17,18節において、「わたしが自分のいのちを再び得る」「わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります」という表現によって、復活を暗示させていることがわかる。キリストは死からよみがえり、今、ご自身の御霊によって、羊飼いの働きを継続されている。キリストは今も生きておられる羊飼いである。

最後に、「わたしはわたしのものを知っています」(14節前半)と言われるキリストと、どのように交わるべきかを考えたい。「わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています」。ここには、愛の人格的交わりがあるわけだが、こうした交わりを築くために、私たちはどのような姿勢でキリストの御前に出たら良いだろうか。ある方が次のように述べている。「愛するということは、会うこと、出会うことであり、素顔(オープンフェイス)で会うことです」。これは本当の交わりとはどういうことなのかを教えてくれている。「素顔(オープンフェイス)で会うこと」がポイントになる。「素顔」は化粧をしてない顔が原意としてあるが、そこから、「ありのままの状態、真の姿、本性、本当の姿、正体、地」といった意味をもつようになった。私たちは社会の中では、もう一つの顔というか、作った顔で相対せざるを得ない時がある。また素顔で出るのが恐くて、仮面をつけて本当の自分の姿を知られないようにして相手に向かうことがある。いずれ、誰にでもありのままの姿で接することはない。そうこうしているうちに、自分でも自分の本当の姿を知ることが恐くなり、どれが自分の素顔なのかもわからなくなってくる。

キリストに向き合うときは、やはり、素顔(オープンフェイス)が一番。キリストというお方は、私たちの人格を取り巻いているすべての壁を突き破って、人格の中心に触れようとしている。しかし、人間一般の性質として、誰かが人格の中心に触れようとする時、恐れ、拒む。これ以上、立ち入ってはならないと。だから、自分の心の周りに、何重もの塀を廻らしている。城の周囲に敵の侵入を防ぐために、土塁を築くようなものである。城塞都市も周囲を城壁で囲み、堅固に防御している。ある暴力団の家の近くを通りかかったことがある。家の周囲に厚くて高い塀が築かれていた。監視カメラも四方に取り付けられていた。警報ブザーも取り付けられていたかもしれない。立ち入り禁止、侵入禁止である。疎外感を感じる造りとなっていた。主に対する私たちの姿はどうだろうか。私たちの人格の中核はもろいので、誰かがそこに触れることを願わない。また、心の内奥はろくでもないというか、見せたくもないものなので、周囲に防壁を築いてしまう。虚勢をはったり、当たり障りのない会話で済ましたり、口を閉ざしてしまったり、本当の自分を開示するのは稀である。けれども、キリストに対してもこうであるなら不幸である。キリストは私たちの敵ではない。キリストを心の内奥にも招く、オープンフェイスでつきあう、そうした交わりが求められていると知る。私たちは自分たちの迷いやすさ、目の悪さ、無力さ、愚かさを素直に認めればいい。9章41節において、パリサイ人たちはキリストに、「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える』と言っています。あなたがたの罪は残るのです」と言われてしまったが、彼らが悪い模範である。彼らは自分の人格の周囲を、固い殻でおおってしまっている。自分の本当の姿をキリストには見せず、自分でも見ようとしない。

私たちは砕かれた心で主の御前に出たい。素の自分で主の御前に出たい。愚かさを隠すことなく主の前に出たい。立派な自分で御前に出ようとするキリスト者や、自分の汚点をごまかして、当たり障りのない姿勢で主と交わろうとするキリスト者は、進歩がない。また、自分の悲しみの感情や怒りの感情を押し殺して、ポーカーフェイスで主の御前に出続けるのも良くない。キリストとの真実な交わりを築いていこう。そして、キリストが私の羊飼いであることを喜び、キリストの御声を聞き分け、キリストについて行こう。キリストは良い羊飼いである。