ヨハネの福音書10章の前半は「羊と羊飼いのたとえ」が記されていて、全世界のクリスチャンに愛されている個所の一つである。先の9章は、「わたしは世の光です」と宣言されたキリストが、生まれつきの盲人をいやし、彼に救いを与える物語であった。本日学ぶ10章は、9章とは全く違うお話になっているようにも思えるが、実は、9章の続きのお話である。

「まことに、まことに、あなたに告げます。羊の囲いに門から入らないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です」(1節)。キリストは羊を飼う描写をするにあたって、いきなり、盗人、強盗の話を持ち出している。それは9章のユダヤ人指導者たちが意識されているからである。彼らを対象に語られている(9章40,41節)。ユダヤ人指導者は旧約時代から、羊飼い(牧者)にたとえられてきた。けれども、キリストは彼らを羊飼いとはみなしていないということ。羊飼いは羊を集め、養う。ところが、彼らは養うことをせず、羊を力ずくで支配しようとする。彼らの関心は自分を肥やすこと。そして、本当の羊を散らしてしまう。9章はキリストが盲人をいやす物語として有名だが、この盲人はキリストを救い主として信じたということにおいて、ほんとうの羊であることがわかる。ところが、ユダヤ人の指導者たちは、このキリストの羊を会堂から追放してしまった(9章34節)。

エゼキエル34章には、悪い羊飼いと良い羊飼いが対照的に描かれている。キリストは悪い羊飼いを、今日の個所で、盗人、強盗という表現に変えている。そして、今日のたとえの羊飼いとは、もちろん、キリストご自身のことである。エゼキエル34章において、悪い羊飼いの描写の後に、良い羊飼いが出現するという預言がある。「わたしは、彼らを牧するひとりの牧者、わたしのしもべダビデを起こす。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる」(23節)。この牧者とはダビデのすえなるイエス・キリストである。キリストは良い羊飼いである。良い羊飼いが預言通りに出現し、そして今、悪い羊飼いたちに向かって語っているという図式である。10章6節を見ていただければわかるように、このたとえは、直接的には、キリストが盗人、強盗と呼ぶ、キリストを敵視するユダヤ人たちに向けて語られたものであることがわかる。「イエスはこのたとえを彼らにお話になったが、彼らは、イエスの話されたことが何のことかよくわからなかった」。

では、今日のたとえを見ていこう。1節で「羊の囲いの門」について言われている。当時、石垣で囲った囲いがあった。羊飼いたちが共同でこの囲いを使っていたようである。この囲いに、夜間、羊たちは入れられていた。囲いには、通常、扉がついていた。それが羊の囲いの門である。そこには3節で言われている「門番」がいて、見張りをしていた。朝、太陽が昇る頃、この囲いに羊飼いたちがやって来る。すると、3節にあるように、門番は羊飼いのために囲いの門を開く。羊飼いは囲いの中に入って行き、自分の羊の名前を呼ぶ。羊たちは人間のように名前というか、あだ名がつけられていて、その名を呼ぶと、羊たちは反応し、連れ出される。羊飼いは一頭一頭の特徴も癖も見抜いていて、一頭一頭を識別し、名前をつけていた。キリストも私たち一人ひとりのことを良くご存じであられる。早とちりだとか、動きがのろいとか、無口だとか。でも、家族のひとりのように愛してくださっている。

羊飼いは羊たちをみな引き出すと、4節前半にあるように、「先頭に立って」歩いて行く。これは欧米の羊飼いとの違いを表している。羊飼いというと、広い草原を思い出して、のんびりしたイメージをもったりする。それは欧米の羊飼いをイメージするからである。欧米では羊飼いは先頭に立つのではなく、たいてい羊の後ろから追うようにして進んでいく。牧羊犬に追い立てる役目をさせることもある。そこには、なんとなく、のんびりしたイメージがある。こうした光景は、地形がなだらかであるから生まれる。しかし、イスラエルの地形は険しい。丘陵地帯である。そして荒れている。危険が多い。そこで羊飼いは必ず先頭に立って、杖で道を確かめながらリードしていく。キリストも私たちの先頭に立って危険な人生をリードしてくださる。だから安心なのである。死の陰の谷も恐れることはない。

羊たちは4節後半にあるように、自分の羊飼いの声を聞き分けて、彼についていく。羊飼いたちは、種類の違う呼び声、口笛、また短い笛なども使って、誘導したようである。パレスチナを旅行した人の次の見聞は興味深い。「羊飼いは時々、自分の存在を知らせるために、鋭い呼び声を発する。羊はその声を知っていて、それに従う。ところが違う誰かが呼ぶと、ちょっと立ち止まり、びくっと頭を上げるだけである。それを繰り返すと、羊はくびすを返して逃げてしまう。その人の声を知らないからである」。他の人の声を聞くと逃げ出してしまうというのは、5節が告げている。ペットもそうであるが、家畜は主人の声の判別をする。そして主人の声に従う。羊飼いの衣服を借りて、それを着て、羊飼いになりすましたところで、羊たちはついて来ないと言われている。羊たちは主人の声に従う。「すると羊は、彼の声を知っているので、彼についていきます」(4節後半)というのは、9章の盲人がまさしくそうであった。彼はユダヤ人の指導者ではなく、良い羊飼いであるキリストの声に聞き従おうとした。

ゲームで、声を出す人に隠れていただいて、声を出していただいて誰の声か当てるというものがある。良く知っている人の声のはずなのに、外れてしまうということがある。電話のオレオレ詐欺でも、息子に成りすましてかけてきて、だまされてしまうということがある。ここでは、音声に惑わされてしまうとか、音声を識別できないとかいうことではなくて、私たちに置き換えると、みことばを識別できるかどうかということだと思う。この情報が氾濫し、多様な価値観が示される時代にあって、また、これが神の教えだと四方八方から突き付けられる時代にあって、本当の信者は、みことばを通してキリストについていく。みことばを聞き分けてキリストについて行く。そのような意味において、私たちはキリストの御声を聞き分けたいと思う。

今日は、後半は、キリストが羊の門であることを学ぼう。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしは羊の門です」(7節)。キリストは良い羊飼いであるとともに羊の門である。どういうことだろうか。実は、羊の囲いのすべてに門がついているわけではなかった。村からは離れた地域にある羊の囲いには門はなかった。夏の間など、羊飼いたちは村に帰らず、放牧地で羊の群を飼って一晩をそこで過ごすことがあった。そこにある羊の囲いは屋根もなければ扉もない。それでは困るではないかということだが、その場合、羊飼いが門になった。それがわかる次のような話がある。ある旅行者がパレスチナを旅行中のこと、一人の羊飼いと羊の群れと出会った。彼が羊飼いと話していると、羊飼いは指さして、「羊の門はここです」と教えてくれた。四方を囲ってあって、一か所だけ入り口が開いていた。その旅行者は、「羊は夜、ここから入るのですか」と尋ねると、羊飼いは、「そうです。羊はここから入ります。囲いの中にいる間は安全です」と答えた。しかし、良く見ると、その入口には扉がない。それで、どうして安全なのかと尋ねると、羊飼いは、「わたしがその扉です」と答えたというのである。どういうことなのかという問いかけに対して、「夜が訪れて、羊が全部囲いの中に入ると、入口の所に私が横になって寝るのです」と答えたというのである。そしてまたこう言ったそうである。「羊が外を出ようとすると、私の体の上を越えなければならないし、狼が来ても私の体を乗り越えていかなければ入れないわけで、必ず私がむっくり起き上がってしまう。だから私が扉です」。羊飼いは羊の生ける扉、生ける門である。キリストも私たちにとっての門である。

では、キリストという羊の門はどういう門なのか、9節から二つのことを見てみよう。まず第一に、キリストは「救いの門」である。「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます」(9節前半)。しかしながら、救いの門は他にもあると主張される方は多い。すべての宗教は一つ、すべて救いに通じると。この場合、門はたくさんあり、あれも、これも、どれもが門になるわけである。だから、好きな門を選べばそれでいいとなるわけである。ただ、他の宗教、教えにあって、キリスト教にしかないもの、キリストの十字架について考察していただきたい。聖書が語る救いは、罪からの救いということを外せない。神はその性質上、正義なので、一つの罪もみのがすことができない。罪ある者はさばかなければならず、そうすれば誰も救われないことになる。けれども、神は誰もさばきたくない。救いたい。神は愛である。神の愛と神の正義は、キリストの十字架の上で手を結んだ。十字架には罪に対する厳正なさばきがある。同時に神の愛である罪の赦しがある。キリストは十字架の上で私たちの身代わりとなってくださった。私たちの救いのために十字架についてくださったお方は、キリストただお一人である。だから、このお方を通らなければならない。「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます」という時、門に、野獣などの危険から守るという意味よりも、通らなければならない所、通路的な意味を与えている。わたしを通ることによって救いはあるということ。キリストは、救いを願っている人はわたしを通りなさい、と招いておられる。他に門はない。キリストは救いに至る唯一の門である。

またキリストは、誰でも通るなら救われる門である。「だれでも」とある。わたしのような罪深い者は救われないだろうとか、今さら信じても救われないだろうとか、そういうことはない。誰でも救われる。その条件は「わたしを通って入るなら」である。原文では「わたしを通って」が強調されている。キリストを通って入るなら、誰でも救われる。キリストという門戸はすべての人に開かれている。皆さん、まずキリストの十字架は門であると想像してください。その門のそばには、「救いを願う者は誰でも来なさい」という招きのことばが書いてある。十字架を仰ぎ見て、十字架という門をくぐる決断をする。そしてくぐる。その時、罪の重荷はすべて解け落ち、赦しと真の自由が与えられる。キリストとともなる人生のスタートが始まる。

キリストという羊の門は第二に、安全といのちの門である。「また安らかに出入りし、牧草を見つけます」(9節後半)。「安らかに出入り」と同じような表現が旧約聖書にもあるが(詩編121篇8節、申命記28章6,19節)、日々の生活の全体が守られるイメージである。特に今日の個所からは、盗人、強盗、狼に振り回され、いのちを奪われたりしないで守られるというイメージがある。霊的な守りが意識されていることはまちがいない。次に「牧草を見つけます」。イスラエルは日本のように降雨日数が多い地域ではないので、牧草を見つけるのに難儀する。牧草がいつもそこにあるのではない。羊飼いは牧草があるところまで導く。キリストを信じる者には、詩編23編にあるように、「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます」ということが成就する。「牧草を見つけます」の「牧草」は羊の食べ物である。それはいのちのシンボルである。ヨハネの福音書は、「いのち」ということばがたくさん出て来る。1章4節の「この方にいのちがあった」で始まり、10章に来るまで、約22回「いのち」ということばが使われ、すべて、キリストとの関連で使われている。キリストは「わたしが与える水はその人のうちで泉となり」(4章14節)と、ご自身が「いのちの水の泉」であることを教えられた。また「わたしはいのちのパンです」(6章48節)と宣言された。10章では10節後半で、「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです」とあり、「牧草」という概念で、いのちについて、言い換えれば、霊的な養いについて教えているように思う。

次回は、キリストが「羊飼い(牧者)」ということに焦点を当てて語っておられることを見ていくが、キリストは救いといのちを与える者として、絶対的な確信をもって私たち一人ひとりを招いておられることを覚えたい。キリストは8節前半で「わたしの前に来た者はみな、盗人で強盗です」と、ご自身が公生涯に入られた時点で、先に活動していたユダヤ人の宗教指導者たちに対して、厳しい評価をくだした。ほとんどの人たちが、この盗人、強盗のもとで生活を営んでいた。悲劇である。その悲劇的状況の中で、キリストの声に従う者は少数ではあったが起こされていった。この頃、ユダヤ人の指導者がどういう体制を敷いていたかは、9章22節に記されている。「すでに、ユダヤ人たちは、イエスをキリストであると告白する者があれば、その者を会堂から追放すると決めていたからである」。彼らは盗人、強盗で、永遠のいのちの持ち主、まことの羊飼いであるキリストから、人々のたましいを引き離すことに懸命であった。そして、人々のたましいを食い物にしていた。キリストはこうした悲劇を意識しながら、今日のところで語っておられる。同じような悲劇は今日も続いている。キリストを貴んでいるようでそうではない人たちがいる。聖書を貴んでいるようで、そうではない人たちがいる。真の羊飼いを見分けよう。そして私たちは、みことばを通して、キリストの御声に聞き従って歩んで行こう。