今日の物語は、物乞いの盲人のいやしとして有名である。そして奥が深い物語である。「またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた」(1節)。キリストが盲人に神のみわざをされるという展開となる。今日の物語は8章とつながっている。キリストは8章において「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです」と宣言された(12節)。キリストは今日の5節でも「わたしは世の光です」と宣言されている。キリストはこの宣言の後、暗やみしか見えない盲人に光を与える。しかし、キリストは、簡単にいやすことはされない。「わたしは世の光です。わたしに従う者は」と、宣言したご自身に従うかどうかを試される。キリストは彼の目に処方してすぐにいやすことはなさらず、7節にあるように「行って、シロアムの池で洗いなさい」と、彼が従う態度があるかどうかを試している。わざわざシロアムの池に行って、目を洗うことを要求した。そしてこの盲人はキリストのことばに従った。結果、闇から光に移されることになる。

物語の最後のほうでは、盲人とは反対に、世の光であるキリストに従う気持ちのないパリサイ人たちが意識されていて、キリストは意味深長なことを述べている。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです」(39節)。目が見えていたとしても、光であるキリストを受け入れず、遠ざけようとする者は、霊的には盲目にすぎず、闇の中に自らを置いているということである。「さばき」とはふるい分けるという意味があるわけだが、キリストという存在が、人間をふるい分けてしまう。この真理は3章18~21節ですでに言及されていた。光であるキリストが人間をふるいわけることになる。「そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。の行いが悪かったからである。悪いことをする者は光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない」(19,20節)。「光よりもやみを愛した」、「光のほうに来ない」と言われている代表としてパリサイ人が描かれている。パリサイ人たちは光を嫌い、闇の中にとどまることになる。闇の中にとどまるとは、罪の中にとどまることである。パリサイ人たちは自らの罪さえ自覚できていない。そういう意味でも彼らは盲目なのである「私たちも盲目なのですか。・・・あなたがたは今、『私たちは目が見える』と言っています。あなたがたの罪は残るのです」(40,41節)。私たちは、パリサイ人ではなく、世の光である主キリストに聞き従った盲人にならうように招かれている

これからの時、キリストに聞き従った盲人に焦点を当てて見ていくが、今日の物語から、「人生における痛みの問題」にも焦点を当てていきたい。この地上に住む人間は一様に痛み、苦しみを経験する。経験しない人はひとりもいない。けれども割り切れない思いにさせられることがある。それは自分や自分に親しい人に災いがふりかかった場合である。私たちは他人が、また遠くの人が災いに遭っている時は、世の中そのようなものだと割り切ることがある。けれども、自分の身に降りかかると、「神よ、どうして?」となる。また私たちは自分には甘く、他人には厳しい目を向けやすい。ある人は次のように述べている。「なんらかの悪い事が隣人にふりかかる時、それは神のさばきだとみなす。その人はそうやって他人を厳しく非難するが、それと同じ厳しさを自分には向けない」。このような他人への見方は、今日の物語のキリストの弟子たちにも伺える。

弟子たちは、道端で物ごいをしていた生まれつきの盲人を見て、キリストに質問する。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。この両親ですか」(2節)。当時、次のような見方が大勢を占めていた。「苦しみには原因がある。それは本人、もしくは両親、先祖の罪だ」。これを応報的賞罰主義と呼ぶこともある。弟子たちの憶測を二つに分けて見よう。一つは、「人が負う痛み、苦しみは、その人が過去に犯した罪に対する刑罰なのだ」。しかしながら、彼の場合、過去に罪を犯したと言っても、生まれつきの盲人のわけだから、彼が過去に犯した罪と言ったら、母親の胎内にいた時に犯した罪となってしまう。これがヒンズー教、仏教系となると、もっとさかのぼって、前世で犯した罪のためとされる。前世がよろしくなかったから、今不幸な目に遭っているのだと。私も以前、そのように言われたことがある。前世のことまで言われたら、元もこうもない。確かに自分の罪が直接の原因で引き起こされる災いというものはある(5章14節参照)。けれどもヨブ記に見られるように、その人の罪と直結していないものも数ある。もう一つの憶測は、「人が負う痛み、苦しみは、その人の両親、また先祖が罪を犯したからだ」。本人に自己責任はないが、親や先祖たちにあるというもの。これも全くのまちがいとは言えない。当時、子どもが生まれつきの盲目になる原因の一つとして、親の性病ということが実際あったようである。これは罪というよりも病理学的なものであるが。聖書は苦しみの原因をすぐに親に帰してしまう愚かさを戒めている。「罪を犯した者は、その者が死に、子は父の咎について負い目がなく、父も子の咎について負い目がない」(エゼキエル18章20節)。自分の今の状況を親のせいにし続けるのも不幸でしかない。

キリストは当時一般的な見方であった応報的賞罰主義を当然知っていただろう。紀元300年頃のラビの一人は言った。「罪なしの死はない。罪悪なしの苦しみはない」。もしこの見方に捕らわれてしまうと、人を冷たい目でしか見れなくなる。キリストは生まれつきの盲人に対して、応報的賞罰主義を適用しない。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです」(3節)。弟子たちはいわば、「苦しみの原因」について質問してきた。けれども、このキリストの答えを注意深く読むと、苦しみの原因ではなく、「苦しみの目的」について語っている。原因から目的にシフトしている。私たちはすぐに苦しみの原因を突き止めようとする。私が言う苦しみの原因とは、何か悪いものを食べただろうかとか、遺伝子に問題があったのだろうかとか、警戒心が足りなかったのだろうかとか、そういうことではない。因果に結び付けた原因のことである。他の人たちも同じような目に遭ってもおかしくなかったのに、なぜあの人だけが?なぜ私だけが?と問う私たちがいる。「なぜ?どうして?」が私たちには付きまとう。結局、限られた知性と理解力しか持ち合わせていない私たちは、苦しみの原因を探り極めることはできない。そしてまた、苦しみの原因ばかりに注意を注いでいると、自己憐憫に陥ったり、周囲を非難したりするのが関の山で、生産的な生き方ができなくなる。神さまは、山ほどの災いが与えられたヨブにも、苦しみの原因を明かすことはなかった。キリストも私たちに対して、苦しみの原因よりも苦しみの目的に目を注ぐように招かれていると思う。いかがだろうか?

次に今日の物語から苦しみの目的を見ていこう。今日の個所から言えることは、苦しみの目的は神のわざが現れるため、ということである(3節後半)。ある人は障害のある人のことを説明するのに、神のわざが現れるためなんてひどいじゃないか、と思われるかもしれない。だが、それは逆である。たとえば家に不幸が起こった、子どもが病気になった、などという場合、多くの宗教は、前世の行いが悪かったからとか、先祖のたたりだとか言って、過去に思いを縛り付ける。けれどもキリストは将来に希望を与える。神のわざとは何だろうか。それは神の祝福のご計画が実現することである。キリストは、あなたは前世がだめだったから仕方がない、親が悪いからこうなった、先祖のたたりだから仕方がない、とは言っておられない。神に呪われているのだとも言っておられない。あなたの将来には希望がある!苦難は祝福に変わるんだ!闇から光に変わるんだ!と言っておられる。肯定的である。全盲のヘレンケラーは心に留まることを言っている。「一つのドアが閉まっていたら、もう一つのドアが開いているものです。しかし私たちは余りにも長い間、恨みや後悔をもちながら閉ざされたドアを見つめているように思います。もう一つのドアが開いていることを知らないで」。キリストはまさに、開いているもう一つのドアを指し示している。この後、盲人に与えられた祝福で心に留めなければならないことは、キリストに聞き従い、キリストを知るものとされたということ、闇から光に移されたということ、死からいのちに移されたということ、永遠のいのちを得たということである。

キリストはいやしのみわざに入る前に、この盲人にも聞こえるように「わたしは世の光です」と語られた(5節)。この盲人は生まれてから一度も光を見たことがなかった。やみの世界しか知らなかった。それが20年続いたのか30年続いたのか、それ以上続いたのかわからないが、長年、闇の世界しか知らなかった。このような彼を特別な存在と思ってはならない。彼はキリストという光と出会うことなく、霊的に盲目のまま生きてきた私たちの象徴である。また彼は、生まれつきの盲人ということで、弟子たちのような見方しかされず、どれだけつらい思いをしてきたかわからない。私たちも、卑近な見方を浴び、また自分でも浴びせかけて生きてきた。

キリストのいやしは二段階である。最初は目への処方である(6節)。つばきで泥を作って目に塗る行為自体は意味がないが、これをした理由はあるだろう。つばきや泥を用いるのは古代の医療技術の一つだった。キリストはこの行為を通して、あなたの目をいやす意志が私にはある、というメッセージを伝えたと思われる。次はシロアムの池に行って目を洗わせるということである(7節)。池の水自体にいやしの効力があるということではない。シロアムの池は貯水池に過ぎなかったので。キリストのことばに従ったということに意味がある。行くように命じられた「シロアムの池」とはエルサレムの南東部にある四角い石造りの池である。キリストがこの貯水池を選んだのは霊的には意味があった。シロアムの池は、イザヤ書8章6節の「シロアハの水」と同一視されている。それはエルサレムの神殿の区域の下から流れて南下する小川だと言われている。このシロアハの水はメシヤのシンボルとみなされていた。つまり「シロアムの池」もメシヤのシンボルということになる。「シロアム」(訳して言えば、遣わされた者)と著者は説明を加えている。キリストは父なる神から遣わされたメシヤである。実は先の8章で、キリストご自身が「遣わされた」という表現を何度もしている(8章16,18,26,29節)。盲人のいやしは、遣わされた者のみわざであった。

盲人は目が見えるようになってから、しばらくの間、キリストに会えなかった。再会できたのは彼が追放されてからのことである(35~38節)。彼はキリストと再会して、「主よ。私は信じます」とはっきり信仰告白をし、キリストを礼拝している。感動的な場面である。これまでの長きにわたる闇の人生に、彼の全存在に神のみわざが現わされ、キリストを知る喜びに与ったのである。彼は光の子とされたのである。この感動的な場面に続く、自分たちは目が見えていると勘違いしている傲慢なパリサイ人たちが哀れに見えてくる。私たちに必要な存在は世の光キリストである。私たちはキリストに従う人生に招かれていることを知ろう。私たちは世の光に従うように招かれている。

続いて、すでに信仰を持たれた方のことを意識して語りたい。苦しみの目的は神のわざが現れるためということを見てきたが、それはすでに救いに与っている信仰者にとってもそうであろう。ビーチャーという方は、「困難はより成長した私となるために神がしばしば使われる道具です」と言った。神は彫刻家であり、私たちから削り取れるものを削り取り、ふさわしい姿に形造ることを図られるかもしれない。病、その他の試練を通って味わい深い人物に造り変えられたあるキリスト者はこう言った。「人生を理解するために一番大切な事は、安易に奇跡を待ち望むことではなくて、真っ向からその問題と取り組み、自分を変え、神のリアリティを生きることです」。私たちが変えられる、成長する、それを神のわざという受けとめができるだろう。

そして実は、多くの学者が「神のわざが現れるため」を、「神の栄光が現れるため」と解釈している。私たちは自分の置かれている状況に不平を言うことは簡単だが、大人になって、どのような状況下でも、私の人生を通して神の栄光が現れてくれればいい、と思える者たちでありたいと思う。思いがけない奇跡を経験することもあるが、肢体不自由な星野富弘さんのように神の栄光を現す道もある。神は肉体の弱さにあるパウロに言われた。「わたしの恵みはあなたに十分です。わたしの力は弱さのうちに完全に現されるからです」(第二コリント12章7~8節)。これは私に語りかけがあったことばでもあるが、神さまは私たちが強くなると、その強さゆえに、傲慢になり、神さまのことを考えなくなることをご存じであられる。へりくだって神の奥深い知恵に服従することによって、神の栄光は現わされると言えよう。私たちの今の立場、状況は神の栄光が現されるためだと、各自受け止めよう。

最後に、人々に対してキリストのまなざしを持つことも考えてみたい。「またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた」(1節)。キリストは彼にどのようなまなざしを注がれたのだろうか。愛のまなざしを注ぎ、神のわざが現れる祝福の対象として見ていた。他の人たちはどうであっただろうか。弟子たちは2節にあるように、この盲人は自業自得か親か先祖が罪を犯して呪いのうちにある罪人だ、と見てしまった。この盲人も確かに罪人の一人である。けれども、神の審判の座に座って、神に成り代わって裁くことは私たちのすることではない。近所の人たちや通行人たちは8節を見ると、物乞いの乞食以上の見方をしていないように思う。弟子たちと同じように冷たい見方しかしていないように思う。パリサイ人たちはというと、13節以降を見れば、キリストと真逆の見方しかしていないことがわかる。盲人をキリストを非難するために使える道具(モノ)くらいにしか見ていない。そして34節を見れば、彼を会堂から追放してしまうことがわかる。「彼らは答えて言った。『おまえは全く罪の中に生まれていながら、私たちを教えるのか。』そして、彼を外に追い出した」。彼はユダヤの宗教的、社会的生活から締め出されてしまった。これはユダヤの国の中にお前の居る場はないということを意味する。もっと言えば、神の国にお前の居場所は完全にないと、ゴミ扱いにしたということである。両親はどうであったかというと、18~23節のユダヤ人との対話を見れば、22節からわかるように、保身に走って我が息子を見捨ててしまう。彼の家族は彼を見捨てた。近所の人たちもそっけなく見捨てた。ユダヤ教の指導者たちは彼を追放した。社会は彼を見捨てた。彼は隣人に見捨てられ、指導者に見捨てられ、社会に見捨てられ、家族にも見捨てられ、見離された。けれども、たった一人、彼を見離さなかった方がおられた。「イエスは、彼らが追放したことを聞き、彼を見つけ出して言われた」(35節)。「見つけ出して」と何気なく言われているが、キリストはこの時も、大切なものを見るかのようなまなざしを注いだことだろう。すべての人が見捨て、家族さえも見捨て、追放された彼を、キリストはわざわざ捜して、見つけ出して、ご自分の存在をあかし、明確な信仰告白に導き、祝福を与えようとされたのである。彼は今、天の御国で豊かな祝福に与っているだろう。現代でも、キリストのまなざしを向けるべき、闇から光に招かれている人々がいるだろう。私たちは様々な出会いの中で、そのような人々にキリストのまなざしを向け、キリストを伝えたいと思う。「わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行わなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます」(4節)。キリストとともに、私たちは今、世の光である。けれども、誰も働くことのできない夜がいつかは来る。パウロは「今は恵みの時、救いの日です」(第二コリント6章2節)と言っているが、夜が来る前に、私たちは、キリストのまなざしでキリストの働きに携わるのである。