「アブラハム」と聞いて、一般の方は何を思うだろうか。アブラハム・リンカーンを思い出す人もいるだろう。そんな種類のハムあったかしら?と思う人もいるかもしれない。今日の個所は前回に続いてのユダヤ人とキリストの対話が記されている。対話の中で良く飛び交っている人名が「アブラハム」である。今日の個所で10回登場している。アブラハムはキリスト在世から二千年前の人物。彼の物語は創世記11章の終わりから記されているが、アブラハムは天地万物の創造主の召しによって、偶像の地シュメールの主要都市ウルを旅立ち、カナンの地に入り、信仰共同体を形成していった。ユダヤ人のルーツはこのアブラハムにあるわけである。ユダヤ人たちはアブラハムを父と呼んで、自分たちがアブラハムの子孫であることを誇っていた。「私たちの父はアブラハムです」(39節)。彼らがアブラハムの名を口にするきっかけとなったのは、32節のキリストのことばである。キリストに、「真理はあなたがたを自由にします」と言われて、奴隷扱いされたのに憤慨して、その反論として、彼らは33節において、「私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません」と主張した。彼らは、言うなれば、「私たちは神に特別に選ばれた民族で、唯一の神の国の民だ、御国の子らなのだ。それがアブラハムの子孫の意味するところだ。お前は何を言うか、無礼者」というところだろう。ある方はユダヤ人たちが霊的な偶像崇拝に陥っていたことを指摘し、このように述べている。「その偶像の対象は、先祖であり、民族的誇りであり、伝統である」。日本人も、ちょっぴり耳が痛いことばではないだろうか。戦時中の皇国史観を思い出す。「日本は万世一系の現人神である天皇がとこしえに支配する神の国である、世界に一つの神の国である、我らはその神の国の民である」と説いた。日本は天照大御神を皇室の皇祖神と仰ぎ、天照大御神の孫ニニギノミコトが天から下ったという神話を作った。それを天孫降臨と言う。そこから数えて三代目の人物が日本初代天皇に君臨し、神の国を築いたとする。神武天皇である。建国の日は2月11日とされ、建国記念日となっている。こうして、我ら日本人は神の子孫、日本は唯一の神の国と謳い、他民族の上に自分たちを置き、戦争を正当化していった。
ユダヤ人たちは遺伝子解析でアブラハムの子孫であると認められ、自分のたちの民族的優秀さを認められても、罪の奴隷なら、何も誇れない。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行っている者は、罪の奴隷です」(34節)。奴隷は奴隷であって、奴隷は子どもではない。つまり、ユダヤ人たちは霊的にはアブラハムの子ではない。キリストは今日の個所の冒頭で「あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っています」(37節前半)と、彼らがアブラハムの子孫であることは認めている。キリストは彼らがアブラハムの子孫であることは認めていても、彼らがアブラハムの子どもであることは認めていない。「あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行いなさい」(39節後半)。「ところが今、あなたがたは、神から聞いた真理をあなたがたに話しているこのわたしを、殺そうとしています。アブラハムはそのようなことはしなかったのです」(40節)。キリストは、罪の奴隷であることを認めない彼らに対して、「アブラハムを父と呼び、自分たちはアブラハムの子だと主張するなら、アブラハムの態度を思い返してみなさい。あなたがたと全然違うよ」というわけである。キリストは、アブラハムと自分たちの態度を比較するように促している。アブラハムは神から遣わされた使者を敬った。アブラハムが神から遣わされた使者を敬った態度の一例は創世記18章にある。ソドムとゴモラの裁きの前の記事である。アブラハムは人間の姿をとって現れた天の使者たち三人を、へりくだって歓待したことが記されている。そのうちのひとりは「主」と呼ばれている。その使者は主を代表する御使いであったのか、受肉前のキリストであったのかわからないが、アブラハムは神の使者をへりくだって歓待した。キリストは42節後半において、「わたしは自分で来たのではなく、神がわたしを遣わしたのです」と明言しておられる。わたしは神が遣わした使者である、ということである。ところが、神が遣わした主そのものであるキリストを、彼らはへりくだって歓待するどころか殺そうとしている。まさしく、「アブラハムはそのようなことはしなかったのです」(40節後半)と言われているとおりである。
キリストは41節前半で「あなたがたは、あなたがたの父のわざを行っています」と意味深長なことを言われる。これを聞いたユダヤ人たちは、私たちが民族的に純潔ではなくて、淫らな行いによって誕生した民族であるとでも言うのか、と思ったようである。続く彼らの41節後半の返答、「私たちは不品行によって生まれたのではありません」(「私たちは淫らな行いによって生まれた者ではありません。」新改訳2017)がそれを意味している。彼らはこの時、48節に記されている「サマリヤ人」のことが頭にあったかもしれない。サマリヤ人は混血民族で、イスラエル人と異教徒との混血民族である。彼らの「サマリヤ人」という言い方は、日本で昔よく使われた「バカチョン」に匹敵する。彼らは、私たちはそのような汚らわしい民族ではないと弁論し、さらに彼らは、「私たちにはひとりの父、神があります」と、今度はアブラハムだけではなく、神さまを父と呼んで、自分たちの信仰筋の完璧さも主張する。血筋だけではなく信仰筋もまっとうなのだぞと。あなたに、あれやこれや言われる筋合いは全く無いと。
それに対する応答として42,43節でキリストはご自身を試金石とし、わたしを愛さないこと、わたしのことばを受け入れないということにおいて、あなたたがたは神と何の関係も持っていないということを言われている。あなたがたは、神を自分の父と呼んでいるが、あなたがたの父は神ではない、それはわたしを受け入れないからだ、と言っておられる。では彼らの父とは誰だろうか。キリストは38節において、わたしとあなたがたの父は違うということをすでに語っておられた。
キリストは44節において、彼らの父について明言される。ショッキングな発言である。彼らが自覚してはいないが、彼らの父は悪魔であるという真実を語っている。「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです」。キリストはここで悪魔の二つの特徴「人殺し」と「偽り」について語る。なぜ、「人殺し」と「偽り」について語るのかというと、ユダヤ人たちはキリストを殺そうとしているということと、そしてもう一つ、真理を話しているキリストのことばを受け入れないからである。「悪魔は初めから人殺しであり」について説明をしておこう。聖書で一番最初の殺人事件は、アダムとエバの子の間で起こった殺人事件である。長男カインが弟アベルを殺したというもの(創世記4章)。しかし「悪魔は初めから人殺しであり」というのは、アダムとエバまで起源をさかのぼることもできる(創世記3章)。神さまはアダムとエバに対して禁断の木の実を指し示し、「この木から取って食べてはならない。食べると必ず死ぬ」と命じた。けれども、悪魔は44節で言われているように偽りを言った。「あなたがたは決して死ぬことはありません」と。この偽りのことばに引っかかった二人は取って食べ、死ぬ者となった。世界に死が入った。それは霊的な死も含まれる。悪魔は「人殺し」である。そして確かに「偽り者」であり「偽りの父」である。45~47節においてキリストは、悪魔の偽りを意識して、あなたがたの父は悪魔、すなわち偽り者であるからこそ、わたしが真理を話していても信じないのだということを話されている。
ユダヤ人たちは、キリストのことばに少しも承服しない。あなたがたの父は悪魔だと言われて腹が立ったのか、キリストに向かって、あなたは悪霊につかれているという主張を次に繰り出す(48節)。この主張は今に始まったことではない。一例を挙げると、ルカ11章15節にこうある。「彼らのうちには、『悪霊どものかしらベルゼブルによって悪霊を追い出しているのだ』と言う者もいた」(マタイ12:22~24 マコ3章22節参照)。ベルゼブルは悪霊ども束ねる悪霊どもの首領とされていたが、この世は主なる神を悪霊呼ばわりするほどに、霊的に倒錯している。光を闇、闇を光としてしまう。そして自分たちが悪魔のしもべとなっていることに気づかない。
キリストはご自分が悪霊につかれていることを否定した上で、51節で「まことに、まことに、あなたがたに告げます。だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を見ることがありません」と語られる。ご自身を信じる者は死を見ることがない、永遠のいのちが与えられるというメッセージは、ユダヤ人にとっては、自分を神とすることばであった。これらのことばを聞いてユダヤ人たちは、続く52節で「あなたが悪霊につかれていることが、今こそわかりました」と断言してしまう。ユダヤ人たちは、キリストを、悪霊につかれて虚言を語る誇大妄想家扱いにしてしまう。その後に、アブラハムと自分を比較してみるように問いただす。「あなたは、私たちの父、アブラハムよりも偉大なのですか。・・・あなたは自分自身を誰だと言うのですか」(53節)。「あなたは自分自身をだれだと言うのですか」という表現に注目してください。原文では「あなた自身を何者にしようとしているのか」という文体となっている(新改訳2017「あなたは、自分を何者だと言うのか。」共同訳「一体、あなたは自分を何者だと思っているのか。」)砕けた表現にすると、「あなたは誰の役を演じようとしているのか」「あなたは誰のふりをしようとしているのか」となる。秋田弁で言うと、「お前はエエフリコキだ。自分を何様だと思っているんだ」ということになる。イエスという男は救い主を気どった究極のエエフリコキだというわけである。
キリストの弁明が54節以下に続くが、わたしはエエフリコキをするつもりはなく、むしろ御父の栄光を現すことに努めて、みことばを守ってきたことを証言する。そして、56節以降、アブラハムの話で締めくくられる。「あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て喜んだのです」(56節)。アブラハムはキリストが来られる日のことを知っていたのだろうか。創世記のアブラハム物語には、56節の事実に対する確かな言及はない。ただ、紀元前二世紀の伝説文書のヨベル書によると、イサクが誕生した時、神の御使いがアブラハムの前に現れて、イサクの子孫から「聖なる種」が出現することが告げられたと言う。「聖なる種」とは、神の国の民の種となる存在、すなわちメシヤということであろう。キリストはこうした伝説に依拠して語っておられるというよりも、救いの歴史の支配者として、アブラハムに与えられたビジョンというものを当然のごとく知っておられ、その時の「喜んだ」彼の表情も見ておられたということだろう。アブラハムはこの時から二千年前の人物であるが、二千年前の人物の様子をキリストが目撃したかのように語るものだから、ユダヤ人たちはこう尋ねた。「あなたはまだ五十歳になっていないのにアブラハムを見たのですか」(57節)。なぜ彼らが50歳という具体的な年齢を打ち出したのかということだが、キリストはこの時、30代前半である。老けて見られたのだろうか。一番考えられるのは、祭司の定年は50歳だったので、そのあたりの数字が意識されているのではないかと思う(民数記4章参照)。いずれ、この時のキリストの人としての年齢は50歳にもなっておらず、30歳ちょいであったわけである。二千歳でも三千歳でもない。アブラハムを見るわけがないという疑問を持つのはわからないわけでもない。
しかし、キリストは決定的な発言をする。「イエスは彼らに言われた。『まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです』(58節)。もし、この発言を私がしたら、病院に送り込まれるだろう。キリストの場合は続く59節前半にあるように、石打にされるところだった。これは単なる怒りの行為ではない。ユダヤ人が石を投げつけるという行為は、神への冒瀆罪を働いた者への死刑手段であった。イエスは自らを神と等しい者としたということで、彼らは石を持った。その結果、キリストは神殿から出ていかれた。「イエスは、身を隠して、宮から出ていかれた」(59節後半)。この姿を象徴的にとらえることもできる。つまりユダヤ人の不信仰のゆえに、神の臨在は神殿から離れ去るということである(エゼキエル10,11章参照)。かつて過越の祭りの時、神殿におられたキリストは「、わたしの父の家を商売の家としてはならない」(2章16節)と義憤を表され、俗に言う「宮きよめ」という事件を起こされた。今回は過越しの祭りが終わろうとしていた時であったが、ユダヤ人たちは自らの手で、キリストを神殿から消し去ろうとした。神の臨在の拒絶行為である。神の臨在の抹殺行為である。神を敬っていると口では言っているが、実際はそうではない彼らの不信仰が暴露された。彼らのたましいの奥底にある本音は、神などいらない、私たちの邪魔だ、ここから出て行け、である。それがキリストへの態度となった。彼らは、神殿から神を消し去ろうとする闇の霊性に支配されていた。彼らの父は悪魔であった。けれどもその自覚は彼らにはない。
最後に58節のキリストの発言について目を落とそう。「わたしはいるのです」と訳されていることばは<エゴー・エイミ>で、<エゴー・エイミ>は神名(神の名前)であることを8章24節ですでに学んだ。このことばは出エジプト3章14節で、神さまがモーセに教えたご自身の名前「わたしはある」のギリシャ語訳である。「わたしはある」には二つの意味を認めることができることをすでにお話した。一つは、神は自立自存の存在であるということ。何にも頼らず、ご自身だけで存在できるということ。もう一つは、神は永遠の実在であるということ。新改訳第三版の58節の欄外註別訳を見ると、「あるいは『あった』と訳す」とあるが、これでは<エゴー・エイミ>の意味を十分に伝えることはできない。なぜなら「あった」では、キリストがアブラハムよりも昔から存在していたということを伝えるだけで、キリストが永遠の昔からおられる永遠の神であることを伝えることができないからである。新改訳2017は、この別訳を排除して、本文で「アブラハムが生まれる前から『わたしはある』なのです」と原文の意を酌んで訳している。キリストは永遠に在るお方なのである。宇宙誕生以前から、はじめのはじめからおられる神、とこしえからとこしえまで生きておられる神なのである。
「アブラハムが生まれる前から、わたしはエゴー・エイミ 自立自存、永遠の神である」という宣言ができるのは、誇大妄想家やペテン師のたぐいか、それとも本当の神さまだけである。どちらなのか。ユダヤ人は前者だと判断した。だがキリストは、まがいもなくエゴー・エイミなる神であられる。私たちは、キリストがエゴー・エイミであるという確信を深めよう。キリストが始原の神、永遠の神、エゴー・エイミであり、真理であり、いのちであるという確信のうちに、キリストをすべてのすべてとして歩んで行こう。
ユダヤ人たちは神は唯一であるという信仰告白を持ってはいた。しかし、キリストを拒絶することにおいて、彼らの信仰は偽りであることが暴露された。単に、肉的に、アブラハムの子孫というだけである。神の名を口にする人は多い、多くの人が神を信じていると言う。けれども、その人たちが信じている神の実体は何なのか。キリストをエゴー・エイミとして信じ、従う者が幸いなのである。