今日のテーマは「自由」である。魚は水の中にあって自由である。鳥は空にあって自由である。では私たちはどこにあって自由なのだろうか。民主主義の世界だろうか。家族のいない昼間だろうか。ショッピングセンターだろうか。今日のキリストのお話は、私たちは自由ではないということを前提に語っていかれる。キリストは、私たちが何をもって自由ではないとしておられるのかと言うと、前回学んだ8章24節にヒントがある。ここで「自分の罪の中」という表現が二度登場する。だから不自由なのである。

キリストは今、自由ではない人たちを目の前にしていた。それが31節の「その信じたユダヤ人たち」である。30節に「イエスがこれらのことを話しておられると、多くの者がイエスを信じた」とある。この人たちを対象にして講話を進めていく。しかし読み進めていくと、信じたと言われているこの人たちは、手放しで喜べない人たちであることが判明する。37節後半には「しかしあなたがたはわたしを殺そうとしています。わたしのことばが、あなたがたのうちに入っていないからです」という残念なことばがあり、45節では、「しかし、このわたしは真理を話しているために、あなたがたはわたしを信じません」とキリストは明言されている。こうしたことから、「信じた」と言われた彼らであったが、それはほんとうに信じたのではなく、表面的に信じたのにすぎなかったということがわかる。彼らの信仰が見かけにすぎないということは、キリストのことばに対する反応、すなわち、みことばによって明らかになっていく。みことばを受け入れるか否か。だからキリストは31節前半で、「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です」と言われている。彼らはみことばのふるいにかけられた。そして彼らは、みことばを受け入れることができず、キリストから離れ、罪の中にとどまることを選択することになる。

キリストは繰り返し繰り返し、意表をつくことばを語られてきた。今日の個所でも、キリストはユダヤ人の意表をつくようなことばを語られている。あなたがたは奴隷で、自由にならなければならないと。「何を言っているんですか!」と言いたくなるようなことばであった。こうしたことの連続である。かつてキリストは、夜の訪問者ニコデモに対して意表をつくことばを語ったことがある。「人は新しく生まれなければ神の国を見ることはできません」(3章3節)。砕いた表現にすると、人は新しく生まれ変わらなければ天国に入れません、ということである。誰が天国に入ることができるのかということを考えるとき、当時の基準からすれば、ニコデモは誰の目から見ても合格と思われるような人物だった。当時、神の国の構成員はすべてのイスラエル人と言われていたし、また律法を守る者が神の国に入ることができると信じられていた。ニコデモはイスラエルの指導者であったし、聖書に通じる高僧であったので、そのまんまで天国行きはまちがいなし、といってよい人物だった。ニコデモも、自分は何の問題もなく、このまんまで神の国に入れると思っていたかもしれない。ところが「新しく生まれなければならない」と意表をつくことを言われてしまったのである。この新しく生まれるとは、物理的な誕生ではなく霊的な誕生であった。ニコデモはそのことを悟れなかった。人は誰しも罪も悔い改めて、罪からの救い主キリストを信じて新しく生まれ変わらなければ神の国に入ることはできない。

キリストは今日の個所では自由について語られているが、これも物理的な自由ではなく、霊的な自由であった。しかし彼らは物理的な自由しか思い浮かばなかったようである。「私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。あなたはどうして、『あなたがたは自由になる』と言われるのですか」(33節)。彼らがキリストの言われる自由ということばを受け取りそこなったのは「決してだれの奴隷になったこともありません」という反応からわかる。彼らは奴隷になったことはないと、自分たちの自由を弁明している。国民として奴隷になったことはないと。しかし、イスラエルの歴史を知っている人たちは首をかしげてしまうかもしれない。なぜなら、ユダヤ人たちはエジプトで400年間奴隷であった。エジプトを旅立ちパレスチナに入ってからは、ペリシテとか、少なくとも七つの民からの攻撃と支配を受けた(士師記)。それから数百年後に、アッシリヤ、バビロン、ペルシャと次々と大国の支配を受け、捕囚の民として苦渋をなめてきた。そして旧約と新約の間、聖書に記録のない空白の400年間を中間時代と呼ぶが、この期間、シリヤなどの支配を受けてきた。そしてキリストが出現する新約時代の頃は、ローマ帝国がユダヤを統治していた。こうした彼らの独立を失った歴史を思うときに、「決してだれの奴隷になったこともありません」は詭弁にすぎないと思われるかもしれない。けれども、彼らはごまかしで言っているわけではない。彼らは、今確かに政治的自由を失っていたけれども、ある程度の自治権を認められ、奴隷ではなかったし、何よりも、彼らには、私たちはアブラハムの子孫、神の国の民なのだという自負心があった。ユダヤ人たちは自分たちを「御国の子ら」と呼んでいた(マタイ8章12節)。奴隷なんかではないという誇りを持っていた。

けれども、キリストは、彼らの誇りというかプライドを砕いてしまうことを語られる。いや、あなたがたは確かに奴隷なんだよ、罪の奴隷なんだと。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です」(34節)。この罪の奴隷状態から自由にされなければ、御国の子にはなれない。この罪の奴隷状態から自由にされる方法はキリストを信じること以外にない。「ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです」(36節)。このことについては、すでにキリストは、異なる表現で語っておられる。「もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ(わたしが「わたしはある/エゴー・エイミ」であることを信じなければ)、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです」(24節)。神さまから離れ、罪の奴隷を続けていれば、自分の罪の中で死ぬ。罪の奴隷とは、闇の地下牢にたましいが閉じ込められ、たましいは光を失い、腐りつつある状態で、死に向かっていることをイメージしていいかもしれない。キリストは罪の闇を意識して、12節において「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです」とすでに語られている。

私が信仰を持ったのは大学一年の初秋であった。信仰を持つにはいくつかの要素があったが、ある日曜日、求道者会で、担当の方が、「自由への旅立ち」というメッセージテープを貸してくださった。わくわくするようなタイトルである。メッセージの中心聖句がヨハネ8章32節、「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」。メッセージでは、人間を不自由にしているのが罪で、キリストがあなたにほんとうの自由を与えてくださることが語られていた。同日、知り合いの方が、三浦綾子著の「光あるうちに」という本を貸してくださった。奇しくも、そこでも真の自由ということが語られていた。「自由の意義」という項目があり、高校女子と教師との対話で、目について語られていることが印象的だった。「ねえ、先生。人間の体の中で、一番罪深いところはどこかしら」。「あたしは目だと思うのよ」。「あたし時々、自分の目から、もし何かが飛び出すとしたら、それで人をじゅうぶん殺せると思うことがあるの。よく突き刺すような視線というのがあるでしょう?」人間は目でも罪を犯す不自由な存在というわけである。ほんとうにそうだと思った。目だけでも罪を犯すのだ。自分が罪人であることを納得した。私はメッセージテープを聞いて、そして本を読んで、自分のたましいは神から離れていて、闇の牢獄にいるという感覚になった。そして、たましいを闇から光へ解き放ちたいという感覚になった。たましいの自由を求めた。それで32節の「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」、このみことばを受け入れ、キリストを信じる決心をした。

罪の奴隷とは、主人が罪であって神さまではない状態。罪の力に抗することができず、習慣的に罪を犯せざるを得ない状態。万年、罪に敗北の人生。やらなければならないと思うことができず、やってはいけないと思うことをやってしまう。手、足、目、耳、口で罪を犯す。つまりは、たましいが罪に縛られている。そして言いしれない閉塞感、束縛感が年中付きまとう。本当の平安も喜びも解放感もない。私はクリスチャンになった時、身内から「どうして信じたの?」と尋ねられた時、「自分の罪がわかって自由になりたいと思ったんだ」と話した。すると、「あんた、何悪いことをしたの?」と言われたが、私が認識したのは犯罪とかそういうたぐいの罪ではない。神から離れて生きてしまうことのすべてというか、そういう感覚だった。もちろん、聖書が語る一つ一つの個々の罪を罪として認識したが、それらを減らしていけばいいんだという感覚ではなくて、それらの罪の大元である、神を信ぜず、認めず、神に背を向けているというこの状態から救われなければ自分は終わりだとわかった。メッセージテープを聞いて、本を読んだその日は、東京の狛江市のアパートにいたわけだけれども、アパートのベランダに出て、キリストを救い主として信じる祈りをした。その日が、私の救いの日だった。

では、今日の文脈から自由を与える真理を二つ見よう。自由を与える真理とは第一に、キリストのことばである。32節で「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら」とあったが、キリストのことばこそ真理である。キリストは、ご自身が真理を話していることを繰り返し語っている(40,45,46節)。キリストのことばの一言二言だけ格言のようにして受け止める人はいるかもしれない。また知識として受け止める人はいるかもしれない。けれどもそれらを心に受け入れて聞き従わないなら意味はない。キリストは37節で、「わたしのことばが、あなたがたのうちに入っていないからです」と言われた。つまり、彼らはキリストのことばをどうしても受け入れられなかったということである。ユダヤ人たちには、神の律法が自由を与えるという教えもあったようである。それならば、キリストが語ることばは神のことばそのものなのだから、キリストのことばを受け入れなければ自由への旅立ちはないのである。

自由を与える真理とは第二に、キリストご自身である。ヨハネによる福音書1章の冒頭によれば、キリストは「はじめにあったことば」として紹介されている。「はじめにことばがあった。ことば神とともにあった。ことばは神であった」(ヨハネ1章1節)。キリストは永遠のはじめにおられた永遠の実在で、キリストは神のことばそのものであるということである。そしてキリストの有名な宣言に、「わたしが道であり、真理であり。いのちなのです」(ヨハネ14章6節)がある。このキリストはどのような公生涯を送られたのかご存じだろう。神のことばをイスラエルの各地で語られた後、ねたみと敵意から捕縛されてしまう。牢獄に入れられてしまう。不自由の身となる。しかし、それは私たちに真の自由を与えるためであった。捕らえられたキリストは、死刑が確定し、鞭打たれ、十字架にかけられることになる。この十字架は私たちの罪の身代わりで、そのさばきの本質は、私たちの罪のためのさばきであった。こうして私たちの罪は処罰されたので、キリストを信じる者は罪のさばきから自由とされる。キリストはご自身を信じる者に対して、地獄の扉を閉ざし、天の御国の扉を開いてくださるのである。そして、キリストを信じる者に与えられるのは罪のさばきからの自由だけではない。もう一つ、罪の力からの自由が与えられる。キリストは十字架にかけられた後、死からよみがえり、罪の力を滅ぼしてくださった。キリストは罪に対する勝利者である。それはもはや、私たちが罪の奴隷として生きる必要はない。私たちはキリストにある勝利を経験して生きていくことができる。キリストを私の主人として心に受け入れ、そしてこのお方にとどまり生きていくならば、キリストのいのちの力が内側から働き、罪の力に屈しないという自由を体験できる。

この世の人たちは自由を勘違いしている。ある人はお金で自由が買えると思っている。お金があれば好きなことはできるかもしれない。お金で欲望も買えるかもしれない。だがお金で本当の自由は買えない。むしろ、お金を愛して罪の奴隷になっておられる方々は大勢いる。空しさも消えない。けれども、キリストにある自由をもっているならば、この世が民主主義か、社会主義か、共産主義か、どこで暮らしているか、などというのも、ある意味、関係なくなる。キリストにある自由は社会制度、環境、場所に左右されることはない。牢獄にいても、病床にあっても、この自由を経験できるだろう。罪からの自由を経験できる。人を憎むことからも、空しさからも自由にされる。そして神とともにある平安で包まれる。

ある本に、これぞ自由と思える事例が載っていた。37キロ位しかない病気の婦人の家に下宿した話があった。その婦人は二年間、三階の部屋に寝たまま、窓から見える青空と下に見える小さな草原のほかには何も見ることができなかった。一見すると、不自由な女性である。けれども彼女のひとみは星のように輝き、彼女の顔にはどのような苦難も揺るがすことのできない静かなほほえみが浮かび、顔が輝いていたという。またある実業家がガンのために死にそうになっていた話があった。友人たちがその人を慰めに出かけた。友人たちはその人に会った時、天国の扉のところまで連れて来られたような気持ちにさせられたという。この人たちは、真の自由を持っていたのである。

最後に、真の自由にとどまることをお勧めして終わりたい。ある父親が子どもにこんな寓話を語って聞かせた。利口な狐が海辺で魚たちにこうささやきかけた。「海の中は危険だから陸に上がってきて、私たちといっしょに暮らしましょう。漁師たちが網をはって皆さんを捕えようとしていますから」。狐のことばを聞いて、魚たちは会議を開いた。その後、魚の代表は狐にこう返答した。「あなたの助言はありがたいが、私たちはこのまま水の中で暮らすことにしました」。この話を終えた父親は子どもにこう質問した。「魚が陸の上に上がってきたらどうなる?」子どもは答えた。「死んでしまうよ」。「そうだよ。魚が水から離れると死んでしまうように、私たちも神さまから離れると何もできないのだ。だからおまえも神さまに仕え、その真理の中で生きていかなければならないのだよ」。魚の自由は水の中。私たちの自由は神の中、真理の中にある。キリストの中に自由がある。真理が、キリストが私たちを自由にする。