前回は、キリストが街をも照らす大きな燭台のある神殿の中庭において「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです」(8章12節)と宣言された記事をご一緒に見た。キリストはこの世界を闇夜と認識している。キリストはこの闇夜にあって、まことの光であり、永遠のいのちの灯である。

キリストの話にパリサイ人たちが応答している(13節)。今日の記事はその続きである。パリサイ人たちはキリストを拒む者たちである。キリストはその彼らに対して、永遠のいのちと反対の死を警告するというのが、今日のお話である。

キリストは彼らに言われた。「わたしは去って行きます。あなたがたはわたしを捜すけれども、自分の罪の中で死にます。わたしが行く所に、あなたがたは来ることができません」(21節)。キリストはここで二つの死について言及している。一つはご自分の死である。「わたしは去って行きます」ということばがそれを表している。ユダヤ人たちは、このことばをイエスが死ぬこととして受け取った。しかも、それは、ただの死ではない。それは22節の彼らの反応、「自殺するつもりなのか」からわかる。「そこで、ユダヤ人たちは言った。『あの人は、わたしが行く所にあなたがたは来ることができない』と言うが、自殺するつもりなのか」。キリストはそのようなつもりで言ったのではないが、このように反応するには訳があった。彼らはキリストが言われた「わたしが行く所」(21節)を地獄と受け取ってしまったのだが、当時の人たちは、普通の人が行かない死後の場所とは陰府の深み、すなわち地獄であると考えていた。そして、この陰府の深み、地獄に行くのは自殺者たちであると考えていた。ユダヤ人の歴史家ヨセフスは次のように語っている。「神さまは、自分で自分に狂気の手を下して、自分を殺してしまう人たちのたましいを、陰府の中で最も暗い所に入れたもうた」。陰府自体、暗い所なのだが、その陰府でも最も光の届かない真っ暗な最下層の世界、そこに自殺者のたましいは追いやられると考えていた。

確かに、この後、キリストは死ぬ。十字架でいのちを捨てる。けれども、それは自殺ではない。私たちのいのちを救うための自発的な死であった。川で溺れている子どもを救った後、力尽きて沈んで行ったクリスチャンの話を読んだことがあるが、こうしたことはいのちを他者に与える名誉の死である。自分のいのちを粗末にする死とは異なる。そしてキリストが言われた「わたしが行く所」とは、真っ暗な最下層の世界とは対極の世界である。「わたしが行く所」については、すでに7章34節で学んだ。「あなたがたはわたしを捜すが、見つからないでしょう。また、わたしがいる所にあなたがたは来ることができません」。「わたしがいる所」とは天の御国を意味している。陰府の深みではない。キリストは十字架で死なれ、三日目によみがえり、40日後に天の御国に昇って行かれる。この天の御国に彼らは来ることができない。天の御国は罪も暗やみもなく、陰府の深みの世界とは対極の世界である。

キリストが21節で言われたもう一つの死は、罪の中で死ぬことである。「自分の罪の中で死にます」。同様の表現は24節にも2回登場する。「それでわたしは、あなたがたが自分の罪の中で死ぬと、あなたがたに言ったのです。もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです」。ヨハネの福音書は、キリストを罪からの救い主と信じる者に永遠のいのちが与えられることを繰り返し伝えてきた(ヨハネ3章16節、4章14節、6章51節、8章12節等)。キリストは今日の個所では、永遠のいのちとは正反対の死について語っている。それは霊的な死、いのちそのものである神から切り離された人が受ける、永遠の死について言われているようである。それは永遠のいのちの対極にある。この死をもたらすものは何だろうか。神と人間を切り離し、死をもたらすのが罪である。いのちを断ち切ってしまうのが罪である。罪が死をもたらす。死をもたらす根源的な罪は、神に背を向けること、神を拒むことである。ユダヤ人たちは、神は唯一であるという知識は持っていた。その知識は正しかったが、それで信仰があるとは言えない。彼らの信仰が真実であるのかは、まことの人となられたまことの神キリストが試金石となる。キリストへの態度で、その人の神への態度がわかる。キリストは、わたしを信じない者は神を拒む者なのであり、自分の罪の中で死ぬことになると諭している。

けれども、ユダヤ人たちは、キリストと神は一つであること、キリストは天から下って来た神であることを認めてはいない。それどころか人を惑わす罪人と見ている。それを意識して、キリストは23節のことばを語られる。「それでイエスは彼らに言われた。『あなたがたが来たのは下からであり、わたしが来たのは上からです。あなたがたはこの世の者であり、わたしはこの世の者ではありません』。「下から」「上から」について説明しておこう。「下から」とは「この世の者」ということばがヒントになるが、「罪によって堕落したこの世界から」、または「神に反抗するこの世界から」、さらにはヨハネの神学において「悪魔が支配するこの世界から」と言い換えることができよう。それに対して「上から」とは「天の御国から」と言えよう。「天の神のみもとから」と言い換えても良い。キリストは「上から」ということにより、ご自分が御父から遣わされた神であることを婉曲的に表現している。そして当然ながら、上から来たお方に罪はない。「上から」という表現はご自分を罪人扱いするユダヤ人を意識してのことばである。ユダヤ人たちはキリストを罪人扱いにして非難する前に、自分たちの暗やみの霊性を思い、「自分の罪の中で死ぬ」という現実と向き合う必要があった。

「それでわたしは、あなたがたが自分の罪の中で死ぬと、あなたがたに言ったのです。もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです」(24節)。「自分の罪の中で死ぬ」などということば耳に心地よくない。こんなことばを耳にして嬉しい人はいない。

このような話がある。牧師が罪を恐ろしいものとして語るものだから、それにクレームをつける者が現れた。「そんなことを語るので恐ろしい気持ちにさせられるじゃないですか。語らないでください」。そうしたらその牧師は薬の棚から「劇薬」というラベルが貼ってある薬の瓶を持ってきて、こう言った。「この薬のラベルを貼り替えて、‶ハチミツ″としたほうがいいですか。危険なものは危険だと伝えなければならないでしょう」。商品を買うとき、消費期限だけではなく、添加物等、確かめてから購入するだろう。薬も副作用等を調べてから使用するわけである。私たちは、安全、安心なものを口にしようとするわけである。体に悪いものを避けようとするわけである。命を縮めることになるのを恐れて。それで誠実な表記を望む。では、私たちの罪に対する意識のほうはどうだろうか。キリストは罪の危険を伝えることにおいて、一切、妥協はしなかった。実は、現在は、ますます罪の危険を言わない時代になってきている。罪を罪としないだけでなく、罪に対する裁きさえ言わなくなってきている。異端的なキリスト教のグループは、キリストを信じても信じなくても、最終的にはすべての人が救われると、堂々と主張している。けれども、それはまやかしである。キリストは罪ある者は「罪の中で死ぬ」と真実を語る。以前、底なし沼に落ちた人の話を読んだことがある。底なし沼に落ちた人は、その沼の中で、全身泥だらけになって、何の足がかりもなく、叫び、もがきながら沈んで行き、死んでしまう。底なし沼に落ちた人に対して、大丈夫、沈まないからと言ったところで、何になろうか。また、あなたは底なし沼にはいない、それは、あなたの心が作り出した幻だ、すべてはあなたの心の投影だ、と言ったところで何になるだろうか。現実は、人は悔い改めない限り、「罪の中で死ぬ」。罪の泥沼に沈んで死んでしまうということである。

救われる方法は「わたしのことを信じなければ」と、わたしキリストを信じる、という処方箋を与えている。キリストは26節以降、ご自身が父なる神と一つであることを語り、ご自分が信じるに値する存在であることを語られているが、この24節でも、ご自分が信じるに値する存在であることをほのめかしている。

24節の「わたしのことを信じなければ」の欄外註をご覧ください。直訳が記されている。「わたしがあるということを」。新改訳2017は、本文において、「わたしが『わたしはある』であることを信じなければ」と訳し、欄外注で、「わたしはある」のギリシャ語が<エゴー・エイミ>であることを記し、その後に「わたしはある」<エゴー・エイミ>は、出エジプト3章14節の「わたしは『わたしはある』という者である」という神の自己顕現の表現に由来している、と記している。参考に出エジプト3章13~14節をご覧ください。モーセが羊飼いをしていた時、神はホレブ山で、ご自身の名前を告げられた。それが「わたしはある」である。欄外註に、参照個所が「ヨハ八・二四」とある。「わたしはある」のギリシャ語訳が<エゴー・エイミ>である。「わたしはある」とは不思議な名前だが、この名前から二つのことを知ることができるだろう。一つは、何ものにも依存せず存在できるということ。空気も水もいらない、誰の助けも借りなくていい。何もなくてもご自分で存在できる。自立自存という存在。もう一つは、永遠の実在であるということ。すべてのものは消え去る時が来る。けれども、神さまだけは永遠に在る。実は、「わたしはある」<エゴー・エイミ>という表現はヨハネの福音書8章で四回登場する。8章12節をご覧ください。「わたしは世の光です」。原文は「エゴー・エイミ 世の光」。そして先ほど見た24節。続いて28節をご覧ください。「わたしが何であるか」。原文は「エゴー・エイミ」。新改訳2017では「わたしが『わたしはある』であること」と訳している。最後は58節。「アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです」。「わたしはいるのです」の原文が「エゴー・エイミ」。「アブラハムが生まれる前から エゴー・エイミ」。新改訳2017では「アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』なのです」と訳している。アブラハムは紀元前二千年頃の人物である。キリストが永遠の神であることを暗示させている。このお方を信じることを拒む場合、自分の罪の中で死ぬ。それは自らに招いてしまった裁きである。

けれども、はっきりさせておきたいことは、神は誰が死ぬことも望んでおられないということである。最後に、以前ご一緒に学んだヨハネ3章16~20節をもう一度読もう。神は誰が死ぬことも、誰が滅びることも、誰が裁かれることも望んでおられない。すべての人が悔い改めと信仰によって救われることを望んでおられる。だからこそ、愛するひとり子キリストをこの世に遣わし、私たちの罪のために十字架につけた。ローマ人の手紙6章23節に「罪から来る報酬は死です」とあるが、罪無きキリストが私たちの罪を負い、罪の結果を受け止めてくださった。キリストは万人のいけにえ、最後のいけにえ、究極のいけにえである。キリストを信じる者は罪を赦され、誰も裁かれない。永遠のいのちを持つのである。ただ、19~21節が告げているように、いのちであり光であるキリストを拒むことによって、自らに裁きを招いてしまうのである。「光よりもやみを愛した」「「光を憎み」「光のほうに来ない」は、直接的には、キリストを拒んだパリサイ人をはじめとするユダヤ人たちが意識されている。8章では光を拒む例証として、パリサイ人たちのことが取り上げられている。光であるキリストが現れた時、彼らは偽善の仮面の下にある闇の本性をむき出しにして、光であるキリストを憎み、殺そうとした。

私たち人間は、自分の罪の中で死ぬということに対して無頓着である。私たちは、自分の姿に目覚め、キリストを信じる者は幸いであると、今日も気づきたい。ある信徒が、神の裁きの座に立つ夢を見たそうである。「あなたはいつも善良だったのか」と神の御声が聞かれた。自分の過去を振り返った時、そうでなかったことを知っている彼は小声で答えた。「いいえ」。するとまた聞かれた。「あなたは正しかったか」。これもだめだった。「いいえ」。また詰問された。「あなたは清かったか」。彼は震える声で言った。「いいえ」。そしてどんな罪に定められるのかと息をひそめていた時、突然、明るい光が彼の全身を包んだ。驚いて目を上げると、彼のそばに世の光キリストが立っていた。キリストは彼を抱き上げ、目を御座に向けてこう言われた。「父なる神よ。この人は生きていた時、いつも良き者ではなかったですし、いつも正しく、清いということはありませんでした。しかし、いつもわたしに従ってきました。そして今、私がこの人の側にいます」。これは夢でしかなかったが、キリストにある救いを良く物語っている。キリストを信じる者は、自分の罪の中で死ぬことはない。キリストの中に移され、救いを得る。次回は、今日の続きから、罪からの自由をテーマに学ぼう。