今日の記事は、「わたしは世の光です」というキリストの有名な宣言で始まっている。キリストは、ご自身を光にたとえたというよりも、キリストは文字通り光なのである。これまで同様、この宣言も、この時開催されていた仮庵の祭りに関係する(7章2節)。仮庵の祭りはエジプトで奴隷であったイスラエルの民がそこから解放され、荒野でテントを張り張り約束の地に向かったことを記念する祭りである。荒野の旅において、神はマナと呼ばれることになったパンを天から降らせた。キリストはこれを念頭に、過越の祭りが近づいていた頃、「わたしがいのちのパンです」(6章35節)で宣言された。荒野の旅において、神は岩から水を湧き出せた。これを記念して仮庵の祭りの期間、泉から水を汲む儀式も行われていたが、キリストは仮庵の祭りの終わりの大いなる日に、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」(7章37節)と招かれた。キリストはいのちの水の泉なのである。そして、今日の「わたしは世の光です」という宣言も、仮庵の祭りと関係する。

キリストはこの時、神殿の婦人の庭という中庭にいたようである(20節)。この「献金箱」があるのが婦人の庭で、この献金箱がある婦人の庭に背の高い燭台が設けられていた。仮庵の祭りの最初の日の夜、神殿の婦人の庭に高々と築き上げられた四本の黄金の燭台に火が灯された。燭台の光は祭りの期間、神殿全体を照らし出し、町全体も照らしたと言われている。キリストは燭台に火が灯されていた時間帯、この燭台の火を意識しながら教えを説き、「わたしは世の光です」と人々に宣言されたのである。

燭台の光そのものは、荒野の旅のあるものを連想させるものであった。イスラエルの民がエジプトを脱出して、40年間の間彼らを導いたのは、昼は雲の柱、夜は火の柱であった。「主は、昼は、途上の彼らを導くため、雲の柱の中に、夜は、彼らを照らすため、火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んでいくためであった。昼はこの雲の柱、夜はこの火の柱が民の前から離れなかった」(出エジプト13章21,22節)。雲の柱、火の柱に近いものには、昔の灯台を挙げることができる。昔の灯台は、石で作った塔の上で、煙を上げたり、焚火をしたりして、船の目印となった。日本では、今から約1300年の昔、天皇の使の舟が唐の国(今の中国)に渡った帰りに行方不明になることがあったので、舟の帰り道にあたる九州地方の岬や島で、昼は煙をあげ、夜は火を燃やして船の目じるしにしという逸話が伝えられている。

雲の柱、火の柱の中に神は臨在しておられたわけだが、闇夜の時間帯、彼らを照らし導いたのは火の柱であった。そのシンボルが燭台の光であった。この燭台の光を見ながら、エジプトから救ってくださった神の救いのみわざに感謝し、夜通し歌い、また踊る習慣があったことも伝えられている。

私たちは他の宗教でも光をシンボルとして用いることを知っているが、大切なことは、聖書ではこの光で何を表そうとしているのかということである。三つ挙げることができるだろう。

第一に、神の臨在である。神の臨在ということは、先ほど述べた、火の柱の中に神がおられたということからもわかる。ヨハネはヨハネの手紙第一1章7節で「神は光の中におられる」と述べている。私たちは誰しもが、夜道を歩いて家路を急ぐということを経験してきたと思う。家の近くに来て、家の灯りを見てほっとするわけである。それは、そこに待ってくれている親がいるという証だった。キリストは、私が光である、と宣言しておられる。キリストという光は、私たちに限りない安心を与え、そして霊的な闇を消し去ってくださる。この世界には、不安、恐れ、孤独の暗やみがある。また、罪の暗やみがある。キリストは私たちが暗やみの中で一生を終わることを願っておられない。次のような寓話がある。洞窟と太陽の会話である。昔、洞窟が一つあった。その洞窟はいつもやみの中であった。ある日の事、洞窟は自分に語りかける一つの声を聞いた。「光のあるところに出て来なさい。こちらに来て太陽を見なさい」。洞窟は困惑した。「あなたが何を言っているのか理解できない。この世には暗やみしか存在しないのに」。しかし洞窟は、しばらくしてから勇気を出して前に出て行った。するとそこは、驚くべきことに、辺り全体が光で満ち溢れていた。洞窟は太陽に向かって話しかけた。「私といっしょに暗やみを見に行かないか」。太陽は聞き返した。「暗やみって何?」洞窟は言った。「こっちへ来ればわかるよ」。そこで太陽は暗やみを見る招待を受けて、洞窟のほうへ向かった。「さあ、暗やみを見せて」。ところが暗やみはどこを捜してもなかった。太陽の光が洞窟の暗やみを消し去ってしまったのである。やみを消し去る方法は光を招くことしかない。人の力でやみを吸い取るとか、追い出すとか、そういうことはできない。朝、部屋に光を入れるためにカーテンを開けるだろう。そのようにして心にキリストを迎え入れるわけである。もし、まだキリストをお招きしていない心の部屋があれば、屋根裏部屋か地下室かもしれないが、そこにもお招きするのである。そうするならば、キリストという神の臨在の光が行きわたるのである。

第二に、神の導きである。つまり、導きの光である。詩編119篇105節に「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」という有名なことばがある。光は行く道を照らす、導く。火の柱がまさしくそうであった。私たちは真っ暗闇の中で、どっちに行ったらよいかわからず右往左往した経験が少なからずあると思う。神不在の暗やみの中では、知性も鈍り、右往左往することだけが続く。人の道も、天の御国に至る道も、よくわからない。先ほど述べたように、神殿の中庭に設置した燭台は、イスラエルの先祖たちが荒野の旅をする時に、神は夜、火の柱の中にいて、進むべき方向を指し示し、ガイドとなってくださったという故事に由来している。この世界はやみ夜であるならば、ガイドは必要である。次のような話がある。ある旅人が一人砂漠を旅していた。彼は日が暮れる前に村に到着するか、それとも飲み水のあるオアシスに到着するか、どちらかを願って歩いていた。命の危険を感じていた。その旅人は不安と恐れにとらわれながら足を早めた。その時、旅人は人の足跡を発見したので、安堵に胸をなでおろした。「もう大丈夫だ。この足跡について行けば村に着ける」。旅人はその足跡を熱心にたどった。しかし、どんなに歩いても、村はおろか、オアシスの影も見えない。とうとう夜になってしまった。旅人はもう一度じっくり足跡を確かめてみた。なんてこった!彼は今まで、自分の足跡に沿ってぐるぐると同じところを回っていたことがわかった。人生も同じようなものである。ある人は同じ過ちを繰り返しながら人生を空しく費やしてしまう。それに気づいた時は手遅れになりかねない。キリストこそが人生の道案内人なのである。キリストは、「わたしに従う者は、やみの中を決して歩むことがありません」と明言しておられる。「わたしに従う者は」と言われていることに心を留めていただきたい。信じるとは従うことなのである。だが人は自分の愚かさに従おうとする。

次のような話もある。一人の老婆が行商のために田舎の村へと出かけた。歩いていると道しるべのない分かれ道に出た。その老婆は持っていた杖を空中に投げて、落ちて来た杖の先が示す方向に進んだ。ある日、老婆はいつものようにどちらに行くかを決めるために、杖を投げた。ところが彼女は何度も杖を投げるのである。たまたま通りかかった人が、何をしているのかと不思議がって訊ねた。「どうしてそのように何度も杖を投げているのですか」。老婆は答えた。「この杖は何度投げても右の道ばかり指してしまう。ほんとは左に行きたいのに」。結局この老婆は、杖の先が自分の行きたい道を指し示すまで続けて杖を投げていた。こんな人が多いのではないだろうか。真のガイド、キリストに従うことを知らない人は、当てずっぽに生きて行くか、自分の愚かさに従ってしまうことになる。

また別の場合、誤った教えや人についていってしまうことがある。よく大人は子どもに、知らない人について行ってはいけませんよ、と忠告するが、そういう大人も、怪しい教えや人についていってしまうことが多い。キリストとキリストのみことばに従うことが確かな生き方である。

第三に、神のいのちである。「・・・いのちの光を持つのです」。「いのちの光」とは「いのちという光」ということである。神との交わりが断たれていることが死なので、この「いのち」で、いのちそのものである神との関係回復、救いということを意味している。次の参照個所はぜひ開いていただきたい。イザヤ書から三箇所開こう。イザヤ8章22節~9章2節「地を見ると、見よ、苦難とやみ、苦悩の暗やみ、暗黒、追放された者・・・やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った」。この光とはキリストのことである。キリストは死からいのちに導く光である。イザヤ49章6節「わたしはあなたを諸国の民の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする」。キリストはイスラエルだけの光ではなく諸国の民の光である。まさしく世の光なのである。そして地の果てにまで救いをもたらすと預言されている。イザヤ60章1~3節「・・・見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現れる。・・・」。2節にあるように、「見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国をおおっている」という認識を私たちも持っているだろうか。霊的やみが世界をおおっている。つまり私たちは暗黒時代に生きている。キリストはこの認識をしっかり持っておられ、「わたしは世の光です」と宣言されている。キリストは、この令和の時代を見ても、闇を深く覚えておられるだろう。

仮庵の祭りにおいて、人々はイスラエルの民族的解放を喜び祝った。けれども、キリストはこの時、民族的解放ではなく、霊的な解放、罪からの解放、暗やみから光へ、死からいのちへという救いを念頭においている。かつてエジプトから解放されたイスラエルの民は、今は、ローマの支配下にあってローマからの解放を望んでいた。ローマから解放してくれる民族的メシヤを待ち望んでいた。けれどもキリストは、そのような意味におけるメシヤとなるつもりはない。キリストの関心は政治的自由ではなく、霊的暗やみからの自由である。人々のたましいは罪の獄舎に、暗やみの地下牢に閉じ込められている。暗やみの圧制下にある。悪魔の支配下にある。たましいは神との交わりを失い、死んでいる。いのちの光ではなく、あるのは死の暗やみである。このビジョンがキリストにはあったのである。

キリストの宣言をユダヤ人たちは、まともに受けとめてはいない。(13~20節)。不遜なことばだという受け止めだったようである。私たちは、キリストのことばをそのまま受け止めたい。ヨハネの福音書は、イエス・キリストの神性(神であること)を冒頭から強調し、またキリストが光であること、いのちであることを強調している。私たちは、死が近づいた時、いのちの灯が消えそうだ、という表現をとることがある。そのいのちは肉体のいのちのことであるが、キリストは死んでも消えない「いのちの光」を与えてくださる。この光を持たなければ、死の暗やみの中にとどまってしまう。それは停電で真っ暗になった部屋にいることより悪い。神との関係が断ち切られた状態で、霊的闇の中に放置されるわけだから。しかし、人は自分の闇を深く認識できなければ、光を求めることはしないだろう。

「闇」と聞くと、昭和生まれの私は、鶴田浩二のヒット曲「傷だらけの人生」のセリフを思い起こす。極道のつぶやきとなっている。「今の世の中、右も左も、真っ暗闇じゃござんせんか」が有名なセリフ。最後は「なんだかんだとお説教じみたことを申して参りましたが、そういう私も日陰育ちのひねくれ者、お天道様に背中を向けて歩く、馬鹿な人間でございます」で終わる。これまで読んだ聖書からすれば、私たちも「日陰育ちのひねくれ者、お天道様ならぬ神さまに背を向けて歩く、馬鹿な人間でございます」ということになるだろうか。太陽に背を向けて歩くと影ができるように、神さまに背を向けていれば影ができ、闇の中を歩くことになる。人は自分のうちに闇を感じることがあるだろう。他人を見ていてもそう思うことがある。神さまに反する性質は闇である。私たちはその闇を直視し、キリストに従うことによって、光のうちを歩みたいと思う。