今日の物語はヨハネの福音書独自のものである。ところが良く見ると、7章53節の始まりと8章11節の終わりに括弧が付いていることに気づく。実は今日の物語は、初期のギリシャ語の写本には記されていない。また初期キリスト教の教父の註解書の中でもこの物語には触れられていない。ということで、牧師の中には、この物語を扱わない方々もおられる。それにしても、ではなぜ、この物語が挿入されるようになったのかということだが、先ず、良く知られていた有名な実話であったということが言えると思う。そうでなければ挿入されるはずはない。後代の写本では、必ずしもこの位置に挿入されていなかったが、この位置で安定したようである。そこには神学的意図があるようだ。

今日の物語を読み解くために、7章の37,38節のキリストのことばが一つの鍵となる。「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。『だれでも渇いているなら、わたしのもとにきて飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる』。キリストは「いのちの水の泉」であることを宣言された。それが「祭りの終わりの大いなる日」、すなわち、7日間続く仮庵の祭りの最終日の7日目。今日の物語は、仮庵の祭りの8日目の可能性がある。仮庵の祭りは7日間で終了するのだが、第8日目も聖会を開かなければならないとレビ記で規定されている(レビ記23章39節)。この8日目に、8章2節で「そして、朝早く、イエスはもう一度、宮に入られた」とあるように、早朝、神殿で民衆に神の教えを説いておられたようである。

この時、ユダヤ教の指導者たちが、キリストを罠にはめるために、姦淫の現場で捕らえられた女をひとり連れてやってきた(3節)。キリストは民衆に向かって説教していたので、この女は皆の面前でさらしものになる。また民衆が集まっていたので、キリストを罠にはめるには絶好の場所。民衆は良い宣伝マンにもなってくれる。しかし、3節の記述はどこか不自然である。姦淫が事実ならば男のほうも捕らえられることになるが、男はいない。それ以前に、姦淫罪を成立させるためには難しい要件があった。二人の証人がいて、二人が直接、姦淫の現場を目撃しなければ成立しなかった。男女が夜、部屋に入るのを見た程度では成立しない。ということで、キリストを訴える口実を作るために男を使って意図的に姦淫罪を成立させた可能性もある。それは考えすぎで、偶然、男と女が部屋に入っていくのを見たので、という流れの場合、もし律法の教師クラスの人たちだったら、姦淫の行為に進まないように警告して止めただろう。どういう経緯でこの姦淫罪が成立してしまったのかわからないが、はっきりしていることは、この女は今、キリストを罠にはめる格好の道具とされてしまっているということである。キリストは後に、彼女にあわれみを示すが、ユダヤ教の指導者たちは非情である。彼女が民衆の前で恥をさらすことになることを何とも思っていない。彼女のたましいに関心はない。あくまでも彼女はただの道具である。

彼らは、キリストに罠にかける質問を投げかける。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか」(3,4節)。彼らの質問は狡猾である。石打ちにすべきと答えても、石打ちにすべきではないと答えても、キリストを非難できた。もしキリストが石打にすべきと答えたらどうなるのか。訴えられることになる。確かに旧約聖書で姦淫罪は死刑と定められている(レビ20章10節 申命記22章22~24節)。石打ちとは死刑である。もし石打だ、死刑に値すると答えた場合、何が問題になるのかというと、当時ユダヤはローマ帝国の支配下にあった。人を死刑にする権限はローマ側にある。聖書の律法にはこう書いてあると言っても、死刑にする権限はユダヤ人側にはない。よって、石打ちだと答えた場合、ローマに対する反逆だと訴えることができた。反対に石打ちにすべきではないと答えれば、あなたは聖書の律法に背く者だ、ユダヤ議会の法廷で裁かれなければならないと訴えることができた。彼らの質問が罠であったことは6節前半ではっきり告げられている。「彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった」。

キリストの知恵はここで表される。「しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた」(6節後半)。この日が仮庵の祭りの8日目だとするならば、この日は安息日となる。この日は仕事をしてはならない日であった。この日は手紙二枚書くことさえ許されず、ただ地面に書くことは許されたという。ユダヤ人たちは「安息日は働いてはならない」という規定を独自に解釈し、手紙を書くことは仕事だけれども、地面に書くことはそうではないという陳腐な解釈をしていた。

なぜか、キリストの地面に書くという行為が彼らにとってボディブローになったようである。地面に書くという行為を読み解くために、エレミヤ17章13節を読もう。「イスラエルの望みである主よ。あなたを捨てる者は、みな恥を見ます。『わたしから離れ去る者は、地にその名がしるされる。いのちの水の泉、主を捨てたからだ。』」

まず、括弧内の後半に「いのちの水の泉、主を捨てたからだ」とある。これをしたのは、今日の物語に登場する律法学者、パリサイ人たちである。キリストは「いのちの水の泉」である。彼らは自分たちは義に熱心だと自称していたが、その義はうわべのものにすぎず、彼らはいのちから遠かった。主キリストに背く彼ら自身が死に値する者たちなのである。

括弧内の前半に「わたしから離れ去る者は、地にその名がしるされる」とある。このみことばが、「イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた」を解く鍵となる。地に名前が記されるのは、天に名前が記されることとの対比であると思われる。すなわち、地に名前が記される人とは、神さまから離れ去ってしまった人たちで、裁かれる人たちということになる。ユダヤ教の指導者たちはキリストを拒むことにおいていのちの水の泉から断たれ、神さまから離れてしまっていた。

さて、キリストは地面に何を書いておられたのだろうか。彼らを罪に定める何かを書いていたことにはまちがいないと思われる。「書いておられた」<カタグラフォー>ということばは、近年のギリシャ語の研究から、ただいたずら書きするときに使うことばではなく、罪状、告発文を記録するときに使用したことばであることが判明している(ゼノンパピルス59と言われるB.C256年作成のパピルス断片に、ある者に対する告発として、このことばが使用されており、近年、これが公表された)。ユダヤ人指導者はキリストを告発しようとしたが(6節)、反対に告発されてしまった可能性が高い。キリストは先ず、エレミヤ17章13節を書いたかもしれない。続いて彼ら一人ひとりの名前を地面に書いたかもしれない。「わたしから離れ去る者は、地にその名がしるされる」。その時、彼らの名前とともに、彼らの罪を書きだした可能性も十分にある。キリストが地面に書いた内容の詳細は分からないが、エレミヤ17章13節から考えるに、彼らを責めることになったものであったことはまちがいないと思う。

彼らはギクッとしながらも、なお問い続けるが、キリストはとどめの一言を彼らに投げかける。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」(7節)。キリストはそう言われると、また地面に書く行為をされる。彼らにプレッシャーがかかる行為でことばを挟んでいる。

「彼らはそれを聞くと、年長者たちから初めて、ひとりひとり出て行き、イエスひとりが残された」(9節前半)。彼らはキリストの地面に書く行為とことばによって、観念した。初めは非難の矛先を姦淫の女とキリストに向け、キリストを罪に定めようとしていたが、今、彼らは罪に定められ、自分を振り返り、自分たちの罪を認めざるをえなかった。女に石を投げる者はひとりもいない。皆、キリストの前から立ち去ってしまう。「年長者たちから始めて」とあるが、さすが年長者、人生経験が長く、自己理解がしっかりしているという風にもとれるが、年長者を立てて年長者に従うという慣習があったので、ただ、その慣習に従っただけという風にもとれなくはない。ボスに従うみたいな。

さて、ここからクローズアップされるのは姦淫の女である。「女はそのままそこにいた」(9節後半)。自分の罪を糾弾する律法学者、パリサイ人たちは立ち去った。彼女も逃げるようにして消えてもおかしくなかった。顔から火を噴くぐらい恥ずかしかったはずだから、民衆の前から消えるという意味でも立ち去っておかしくなかった。けれども彼女はキリストのもとにとどまった。すなわち、「いのちの水の泉」にとどまった。

そしてキリストは彼女に罪の赦しを宣言する(10,11節)。地面に書いておられたキリストは身を起こして、今度は女に質問を投げかける。「婦人よ。あの人たちは今、どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか」(10節)。彼女の答えは「だれもいません」(新改訳2017「はい、主よ。だれも」)。この物語で、彼女が発したことばはこれだけである。彼女を罪に定めた者は誰もいなかった。実は、罪に定める権威のある方はキリストだけである。7節でキリストは「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」と言われているが、キリストには罪はない。だから、キリストには石を投げる資格があり、そうすることができた。だが、キリストにはそうするつもりはない。それは11節後半のことばでわかる。「そこで、イエスは言われた。『わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはならない』」。罪に定める権威のある方が罪に定めない。これは赦免の宣言である。キリストは「あなたに罪を認めない」とは言っておられない。キリストは女の罪を認めている。だからこそ、最後に、「今からは決して罪を犯してはなりません」と諭している。キリストが言っておられることは「あなたに罪を認めない」ではなくて、「あなたを罪に定めない」、すなわち、「さばきをくださない」(新改訳2017)である。赦免である。キリストは人を罪に定め、また人の罪を赦す権威のある神の救い主である。キリストのこのことばは、彼女の心を開放し、自由にしたはずである。

それにしても、なぜキリストは彼女の罪を赦したのだろうか。ある人たちは今日の物語を罪を安心して犯すために利用する。何をしても赦されるんだと。「イエスはどんな罪でも結局は赦してくれる。だから私は自分のしたいことをする」と。しかし、これは誤解である。キリストの11節のことばは、悔い改めた者に対する赦しの宣言なのである。そこを誤解してはならない。彼女が悔い改めたしるしは、彼女がキリストのもとにとどまっているということである。先のユダヤ教の指導者たちはどうだったか。彼らは自分の罪を認めるも、しっぽを巻いて逃げ去ってしまった。悔い改めることはできなかった。光を恐れて地中にもぐる虫のように、清水を嫌う細菌のように、キリストのもとから離れ去った。キリストは悔い改めない者を赦すことはできない。

自分の義に熱心なユダヤ教の指導者たちも、姦淫の女も、等しく罪人である。悔い改めたのは姦淫の女のほうであった。両者とも自分の罪を認めるところまでは同じだった。けれどもユダヤ教の指導者たちは悔い改めることができない。それはキリストからすぐ離れてしまったことから明白である。彼らは光であるキリストから、いのちの水の泉であるキリストから離れた。彼らは自ら死のさばきを選んだのである。

姦淫の女のほうは、キリストにあわれみの性格を見たのだろう。「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである」(3章17節)。今日の物語は、このみことばの実現である。姦淫の女は裁かれず救われた。「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている」(同18節)。「信じない者」ということにおいて、これもユダヤ教の指導者たちによって実現してしまう。

悔い改めて、キリストを信じる者、キリストのもとにとどまる者は幸いなのである。キリストは「いのちの水の泉」、それはこんこんと湧き出る泉のことである。この泉から飲むと、その人の心の底から、生ける水の川が流れ出ると約束されていた。「いのちの水の泉」というのは、パレスチナにあっては荒れ果てた砂漠の中のオアシスである。姦淫の女もキリストにオアシスを感じ、キリストがオアシスを与えてくれると気づいたのだと思う。私たちもキリストのもとにとどまりたいと思う。