私の神よ、いつまで、ああいつまで続くのですか?
不幸があまりにも多すぎます。
私には終わりが見えません。この痛み、この不安は!
あなたの甘い恵みのまなざしは、夜の闇と雲で隠れ、
その愛の御手はすっかり引っ込んでしまい、
慰めを求める私は、とても不安になっています。

バッハ カンタータ「私の神よ、いつまで、ああ いつまで続くのですか」より

悲しみ、拒絶、危機、喪失、苦難に襲われる時、信仰者の口から、様々な叫びが生まれます。「主よ。いつまでですか。」もその一つです。人の生涯に痛みはつきものです。家族との離別また死別から来る孤独、家族内の不和、交通事故の後遺症、病との戦い、ガンなどの化学治療の苦しみ、古くからの隣人とのいさかい、職場での孤立、経済的問題、神さまのための働きの停滞、喜びを感じられないモノトーンの毎日が続く等。憂い、うめき、涙とともに、「主よ。いつまでですか。」という嘆きが生まれます。
私たちは、沈痛な思いに襲われた時、それを無視して自分を偽り、笑顔でつくろうこともできますし、憂うつ感に襲われた時、陳腐なこの世の知恵で消し去ろうとしたり、適当な憂さ晴らしでごまかすこともできるでしょう。また悲しみの感情をギュッと押し殺し、仕事に没頭してやり過ごすこともできるでしょう。しかし真の解決策は、自分の心と素直に向き合い、主なる神と対話するところから始まります。
詩編13篇の著者のダビデは苦難に直面していたようです。そして、その時の感情を、大胆に、正直に告げています。「主よ。いつまでですか」。神さまは沈黙しているように感じる、神さまに見捨てられたように感じる、それが正直な思いでした。ダビデは四回、「いつまでですか」と問いかけています。では、四つの「いつまでですか」を順次見ていきたいと思います。
第一、「主よ。いつまでですか。あなたは私を永久にお忘れになるのですか」(1節前半)。「私は神さまから捨てられたのだろうか。永久に顧みられないのだろうか。私はなおざりにされているように感じる。出口が見えない、死の足音が近づいている」。彼はそう思わざるをえないような死の恐怖と戦っていたようです。「永久に」とは、「完全に」とも訳せることばです。神さまが遠く感じられ、いつまで経っても光が見えてこない現状が「永久にお忘れになるのですか」ということばを生み出しました。
第二、「いつまで御顔を私からお隠しになるのですか」(1節後半)。彼は単に、いつになったら神さまは私のことを思い出してくれるのだろうか、と言っているのではないことがわかります。旧約聖書において、「御顔を照らす」といった表現が良く見られますが、それは、神さまの愛、いつくしみ、祝福が注がれることを意味しています。しかし、ここで、それが全く感じられないと訴えています。神さまの愛を、祝福を、全く感じることのできない状況が続いているということです。「神さまは、私からご自身の愛を手控えているみたいだ。神さまが私を本当に愛してくださっているなら、この悲しみ、苦しみを止めてくださってもいいはずなのに、終わりが見えない」。人は神の祝福を感じることができず沈痛な思いにさせられている時、多くの場合、内省的になります。自分は何か間違っていたのか。これは神の裁きなのか。人は自然と苦難の中でへりくだることになります。ダビデの書いた詩編全体を読むと、苦難や敵からの救いを祈る文脈の中で罪を告白している詩編が多くあることに気づきます。けれども罪を告白しても、必ずしも、状況がすぐに好転するわけではありません。神は沈黙しているように感じ、状況は動かないことを経験します。
第三、「いつまで私は自分のたましいのうちで思い計らなければならないのでしょう。私の心には、一日中、悲しみがあります」(2節前半)。「思い計る」は新改訳2017では「思い悩む」と訳されています。ダビデは周囲の状況が思わしくないので思い悩んでいるだけではありません。神さまからの愛と祝福を感じることができないために、心に喜びはなく、思い悩み、悲しみの感情に捕らわれているのです。ダビデは「一日中、悲しみがあります」と言っていますが、「一日中」と訳されているヘブル語は「日々、日毎」とも訳せることばで、悲しみが止まない様を伝えています。
第四、「いつまで敵が私の上に、勝ちおごるのでしょう」(2節後半)。彼を落胆の泥沼にはめた一つの大きな要因は「敵」の存在でした。ダビデの敵は彼の計画を狂わせ、彼を悩ませ、彼を死の淵にまで追い込みました。彼の敵とは誰であったのでしょうか。サウル王、ペリシテ人、息子のアブシャロムなどでしょうか。彼らはダビデの命を獲ろうとしましたが、現代の敵は、ふつう、剣をもって私たちを追い回すことはしないでしょう。現代の敵は、私たちの仕事に陰口をたたく人たち、思いやりのない隣人、ねたみにかられて中傷や意地悪の手段に出る人たち、私たちの善意を捻じ曲げてうわさをばらまく人たち、私たちの苦しみを誇張して話す人たち、私たちの失敗を必要以上にとがめだてする人たち、私たちの信仰を全然理解しようとせず非難してくる人たち、そうした人たちが挙げられるかもしれません。預言者エリヤはイゼベルにいのちをねらわれて追われている時、自分の死を願ってこう言いました。「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。私は先祖にまさっていませんから」(第一列王19章4節)。彼はバアルの預言者たちとの戦いに疲れ果て、イゼベルとの戦いに疲れ果て、苦しみに耐えられなくなってしまいました。ダビデも同様なことを経験したでしょう。
ある人にとっては、敵とは人間というよりも、現状が八方塞がりから来る将来への恐れかもしれませんし、過去に受けた心の傷かもしれません。日中は仕事や趣味に没頭し、また友人たちとのおしゃべりで気が紛れても、夜、布団にもぐると、これからどうなるのだろうという不安、思い煩い、恐れに襲われたり、痛みを経験した過去の記憶などに襲われることになります。恐怖心は高まり、傷心はうずきます。不快な気持ちは夜ごとにぶり返します。悪夢に襲われることもあるでしょう。神経質タイプ、憂うつ気質の人はなおさらです。どうしたら、どうしたらと焦燥感は高まりつつ、どうすることもできず、思考はどうどう巡りで、憔悴を深めることになります。3節に「私の神、主よ。私の目を輝かせてください」という訴えがありますが、ダビデはその反対の状態にあり、憔悴しきっていたものと思われます。彼は病のうちにあったと推論する学者もいますが、病のうちにあると、より感情はナイーブになるものです。
私たちは様々な敵を想定できますが、私たちに共通するたましいの敵がいます。それは悪魔です。悪魔はすべての敵の黒幕です。悪魔は私たちの気をくじき、萎えさせ、失望、落胆の感情で私たちを縛ろうとします。悪魔は、お前の罪は赦されないと言うかもしれません。お前は天の門をくぐれないと言うかもしれません。お前は神に愛されていないと言うかもしれません。お前は橋の下のこじきになると言うかもしれません。お前の奉仕は意味がないというかもしれません。さらには死んだほうがましだと言うかもしれません。悪魔がヨブの信仰をくじこうと、あの手この手で迫ったように、あらゆる手段を用いて私たちを攻撃してくるでしょう。
さて、この後、信じられないような展開を見ます。これまで、「いつまでですか」を四回も続けて落胆を表していたダビデでしたが、突然、調子が変わります。音楽で言えば、暗い短調から明るい長調の曲に変わってしまったようなものです。「私はあなたの恵みに拠り頼みました。私の心はあなたの救いを喜びます。私は主に歌を歌います。主が私を豊かにあしらわれたゆえ」(5,6節)。このように、希望と勝利の調べが奏でられます。これはいったいどうしたのでしょうか。敵が消え去ったのでしょうか。病気が治ったのでしょうか。生活に問題が何もなくなってしまったのでしょうか。そのようなことは書かれていません。5,6節は、苦難の中で神の恵みに拠り頼み、喜びと賛美にあふれる信仰者の心の中に起こった変化について言われている、とも考えられています。状況の変化ではなく心の中の変化ということです。「いつまでですか」と問いかけていたダビデの心に、このような変化をもたらしたものは何でしょうか。それは「神の恵み」です。「恵み」がキーワードです。「恵み」(ヘブル語:ヘセド)は、「いつくしみ」とも訳されていますが、それは「尽きることのない愛」であり、旧約聖書では「契約の愛」として理解されています。契約の愛とは、神はご自身と契約を結んだ者を決して見捨てることはないという確かな愛です。神はご自身の民を忘れるということはありませんし、愛を手控えるということはありません。目に見えるところの状況はそう映らなくとも、神さまは約束に対して真実なお方ですから、恵みを取り去ることはありません。どんなに強い敵も、嵐も、この恵みを吹き飛ばすことはできません。嵐の中にも恵みは変わりません。ですから、「私はあなたの恵みに拠り頼みました」と、苦難の中にあって主の恵みに信仰の錨を下ろす人は幸いです。神はいつも私たちとともにあります。神の恵みはいつも私たちとともにあり、私たちのためにあります。神の恵みは尽きることがありません。神の恵みのまなざしは、いつもその人に注がれています。神は深い愛と知恵をもってつらく苦しいことも益と変えてくださるでしょう。ご自身の時に最善のみわざを成してくださるでしょう。私たちの人生を最後までアシストし、天の御国に救い入れてくださるでしょう。もし、私たちが自分の知恵と力にだけ拠り頼み、周囲の状況だけを見ているなら、深い苦悩と悲しみだけがつきまとうことになります。ですが、神の恵みを再発見し、神の恵みに拠り頼むときに、神のご計画の中にいる自分を発見し、喜びが生まれます。
現状の自分が苦しい時は、過去に神さまが自分にしてくださった恵みと導きを振り返ってみることは有益です。「私は主に歌います。主が私を豊かにあしらわれたゆえ」(6節)。私の子ども時代、青年時代はどうだっただろうか。私はどのようにして救われ、信仰に導かれたのだろうか。信仰を持ってからどのようなところを通らせられ、どのような助けをいただいたのだろうか。神さまは私を苦境から救うために、どのような人を、また出来事を備えてくださったのだろうか。神さまが最近くださった恵みで見落としているものはないだろうか。このようにして、過去の恵みを振り返る時に、神さまはこれからも恵みを備えてくださるという確信が与えられ、信仰が強められることになります。この振り返り作業の中で忘れてならないことは、信仰の原点であるキリストの十字架を仰ぐことです。この十字架に神の恵みは完全に啓示されています。キリストは私たちが滅びることを願わず、ご自身のいのちを献げ、贖いのみわざを全うしてくださいました。このお方が私たちを捨てることはあるでしょうか。必要な恵みをくださらないことがあるでしょうか。十字架は、私たちを打ちのめす感情から私たちを解き放ち、神の恵みを確信させ、平安を与え、感謝と喜びを与えてくれます。
「私の心はあなたの救いを喜びます」(5節後半)にも注目しましょう。「救い」ということばは、神の子に与えられるすべての幸せを意味しますが、それは、苦境からの救い、逆境からの救い、敵からの救いというだけではなく、たましいの救い、天の御国に入れられる救い、キリストの再臨によってもたらされる救いを想定できるでしょう。それはいまだ未経験の救いも入るわけです。「喜びます」という動詞ですが、ヘブル語の動詞に、過去、現在、未来という時制はありません。単純に、完了した行動を示す「完了」と、完了してない行動を示す「未完了」があるだけです。「喜びます」と訳されている動詞は「未完了」です。この未完了の動詞は、今、喜びは始まっていて、その喜びは継続し、将来において大きな喜びが与えられるという予感を抱かせます。神の恵みに失敗はなく、将来の救いが確実ならば、今、その救いを体験していなくとも、今、逆境の中にあっても、その救いを喜ぶことができます。信仰による喜びです。そして後の日に、待ち望んでいた救いが訪れた日には、以前にも増して、大きな喜びを体験することになるでしょう。「喜びます」は、「喜び踊ります」また「喜び踊るでしょう」と訳すことができます。憂い、悲しみはやがて払拭されるのです。
最後に、バッハのカンタータ「私には多くの憂いがありました」から、ソプラノとバスの二重唱の一部をご紹介してメッセージを閉じたいと思います。バスがイエス役です。お聞きください。

ソプラノ ああ、ああ、私は見捨てられました!
バス     いや、いや、あなたは選ばれている!
ソプラノ いいえ、いいえ、あなたは私を憎んでいます!
バス     いや、いや、わたしはあなたを愛している!
ソプラノ ああ、イエスよ、私のたましいと心を甘くしてください。
バス     逃れ去れ、不安よ、消え去れ、痛みよ!
ソプラノ 来てください、私のイエスよ、元気づけてください。
バス     そう、わたしは行って、元気づける。
ソプラノ あなたの恵みのまなざしで!
バス     あなたをわたしの恵みのまなざしで!

神の恵みは契約の愛です。神の恵みは真実です。神の恵みは尽きることがありません。あなたは神の恵みのまなざしを信じていますか?神の恵みに拠り頼む者は幸いです。神の恵みは多くの憂いに打ち勝つ力です。