現代は蛇口をひねれば水が出るという時代だが、古代はそうではなかった。井戸があるところ、また川や泉まで水を汲みにいかなければならなかった。水は人間のいのちなので、水が枯れるということは切実な問題であった。聖書の舞台はパレスチナである。日本以上に水が枯渇しやすい環境である。キリストは今日の個所で、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」と大胆な宣言をされている。
キリストが意識されているのは、霊的な渇き、神への渇きである。キリストは山上説教において、「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。」(マタイ5章6節)と話された。私たちの体は水を求めて渇く。人間が一日に必要な水分は2000から2500ミリリットルだと言われている。そして私たちは単に肉体的な存在ではなく霊的な存在なので、霊的な渇きをも持つ。
キリストは祭りの終わりの大いなる日に、渇いているすべての者を招かれた。キリストが言われた「祭りの終わりの大いなる日」(37節前半)とは、エルサレムの仮庵の祭りの時だった(7章2節)。この仮庵の祭りの時、パレスチナのあらゆる地方から、そしてローマ帝国のあらゆる町から、ユダヤ人たちが上って来ていた。さらに異邦人たちも上って来ていた。
さて、なぜキリストは、この仮庵の祭りの時に、水のメッセージをされたのだろうか。この仮庵の祭りは、エジプトを脱出したユダヤ民族が、テントを張り張り荒野の旅をする中で、神さまに守られたことを感謝する祭りであった。また秋の収感謝祭でもあった。そして、もう一つ、水の祭りでもあった。祭りの間の七日間、祭司たちは行列を組み、水を汲むためにシロアムの池に向かった。シロアムの池に着くと、黄金の水差しでその水を汲み取る。この時、イザヤ12章3節が唱えられたと言う。「あなたがたは喜びながら、救いの泉から水を汲む」。それから水の門をくぐり抜けて神殿に上って行く。その間、聖歌隊は詩編113~118篇を歌う。そして神殿に着くと、祭司を先頭にした行列は祭壇の回りを一周してから、先ほど汲んできた水を、献げものとして祭壇に注いだ。この儀式はキリストの来臨によって、もう繰り返される必要はない。なぜなら先ほど述べたイザヤ12章3節の「救いの泉」とはキリストご自身だからである。キリストが私たちの渇きをいやし、永遠のいのちを与える泉だからである。
「祭りの終わりの大いなる日」とは、具体的に、仮庵の祭りの7日目のことだと考えられる。この日だけは、水を注ぐ前に祭壇のまわりを七周した。まわっている間、「ホサナ、主よ、われらをお救いください。どうかわれらを栄えさせてください」と歌い続けたと言う。この日は「大いなるホサナ」とも言われている。この日にキリストは、「だれでも、渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」と言われたのである。
なぜ仮庵の祭りの時に水の祭りを行うのかというのなら、それは明白である。イスラエルの民は荒野の旅の中で、飢えた時には天からのパンであるマナで養われ、渇いた時には神が岩を裂いて水を注いでくださったからである。ユダヤ人たちは荒野での奇跡的な水注ぎを覚えて、祭りにこの故事を織り込んでいった。キリストはこの祭りの前に、この荒野の故事を意識してこう言われている。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません」(ヨハネ6章35節)。
神なるキリストが救いの泉であり、いのちの泉であることは、エレミヤ書においても暗示されている。エレミヤ書を二箇所開こう。「わたしの民は二つの悪を行った。湧き水の泉であるわたしを捨てて、多くの水ためを、水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘ったのだ」(エレミヤ2章13節)。ここで神は「湧き水の泉」と言われている。「わたしから離れ去る者は、地にその名がしるされる。いのちの水の泉、主を捨てたからだ」(エレミヤ17章13節)。「いのちの水の泉」とは、こんこんと湧き出る「湧き水の泉」のことである。キリストは、「湧き水の泉」「いのちの水の泉」とはわたしなのだ!と訴えておられる。
以上のことを覚えながら、37~39節のキリストの招きのことばを見ていこう。キリストは招かれるとき、立って、大声で言われている(37節前半)。聖書はわざわざ「イエスは立って」と記している。当時の学者たちは座って教えたものだが、これから話すことをぜひ聞いてもらいたいという思いから、立って、大声でアピールされた。
「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」(37節後半)。人間である限り、心の渇き、たましいの渇きを経験する。その渇きは本質的には神への渇きである。次の詩編は有名である。「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています」(詩編42編1~2節)。ダビデもこう述べている。「神よ。あなたは私の神。私はあなたを切に求めます。水のない、砂漠の衰え果てた地で、私のたましいは、あなたに渇き、私の身も、あなたを慕って気を失うばかりです」(詩編63篇1節)。私たちは今、荒野や砂漠に住んでいるわけではない。けれども、自分のたましいの荒野性、砂漠性に気づきたいと思う。殺伐とした心象風景がそこにはある。いや、私の心はジャングルのように訳の分からないことになっている、という人がいるかもしれない。それは自分のたましいの渇きを、お酒や、恋愛や、子どもの教育や、仕事や富で満たそうとした結果なのかもしれない。けれども、本当の満たしは経験できない。「私は幸せに飢え渇いている。しかし、それは私にとってキリストのもとに行くことではない」という人は多いかもしれない。しかし真に満足を与え、いつまでも続く幸せは、キリストのうちにしか見い出すことはできない。それだから、キリストの招きに応えよう。
「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」という招きの後半は二つに分けられる。原文では「わたしのもとに来なさい。そして飲みなさい」である。最初の招きは、「わたしのもとに来なさい」である。私たちがキリストのもとに行くのは長い長い巡礼の旅をする必要はない。また天に昇る必要もない。なぜなら、キリストは天から下り、私たちの近くにおられるので。キリストは本来ならば私たちが辿らなければならなかった旅の工程の大部分を歩んでくださり、私たちのそばまで来てくださっている。キリストは私たちがしなければならないことの大半をしてくださった。それはどういうことかと言うと、私たちにはできない罪のない生涯を送ってくださったということ。そして、あの恐ろしい十字架について罪の裁きを受けてくださったということ。本来ならば私たちが十字架につくべきだった。そしてよみがえり、信じる者とともにいると約束してくださった。私たちの側で為すことは、キリストの前に一歩進み出て、心の口を開くだけである。
キリストの招きの二つ目は、「飲みなさい」である。キリストは砂漠の時代のオアシスのようなものである。今、健康な水は買って手に入れる時代になったが、キリストが与える水は全くの恵みで、ただである。「ああ、渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金のない者も」(イザヤ55章1節)。これはキリストの招きでもある。私たちはこの世の何かで渇きをいやそうとして、結局は空しさ、苦さを味わい、それを繰り返してしまう。ヨハネ4章で学んだ、「あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです」(18節)とキリストに指摘されたサマリヤの女がまさしくそうであった。キリストは彼女に約束している。「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」(14節)。キリストは何も難しいことは言っておられない。色々な方向に向いてしまう自分の迷いやすい心が問題なだけである。我が家がどこにあるのか知っていてもそこに帰ろうとしない。どこが一番安全なのかを知っていてもあえて危険な場所を選ぶ。新鮮な湧き水がどこで湧いているのか知っているのに汚いたまり水を飲もうとする。こうしたことを笑えない現状が人間にはある。キリストの招きに素直に応える人は幸いである。
次に招きに応じる者に対するキリストの約束を見よう。「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」(38節)。これと似た約束は先ほどお伝えしたヨハネ4章14節の「わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」である。7章38節では、この約束は「聖書が言っているとおりに」と旧約聖書ですでに約束されていると言われる。これは、具体的にどこかの個所を指すというのではなく、旧約聖書全体が総合的に、このことを証言している。旧約聖書は信仰者への祝福を水で表すことが非常に多い。この水とは3章のニコデモとの対話で学んだように、また39節で言われているように、「御霊」、聖霊のことを意味する。このことを心に置きながら、キリストを信じる者に与えられる祝福、「その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」について見てみたい。
生ける水の川が「心の奥底」から流れ出ると言われている。直訳は「腹」である。古代の人は心を腹ということばで表した。このニュアンスを良く伝えようとすると、新改訳のように「心の奥底から」となる。「心の内奥から」としても良いだろう。私は、ストレスで心の状態もお腹の状態も悪くなってしまったとき、「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」、このみことばを繰り返し、心で念じたことがある。
さて、ここで心に留めたい表現は「流れ出る」である。キリストは、「わたしのもとに来て飲むならば、その人は満たされる、渇きはいやされる」と言っておられない。もちろん、満たされるだろう。渇きはいやされるだろう。キリストはそれよりも、もっと積極的な表現をとっておられる。「流れ出る」、つまり私たちは自分が満たされて終わりなのではなくて、生ける水を他者にも与えていく者たちとなるということである。私たちはキリストを信じることによって自分のうちにも泉を持つ。その泉は他者に流れ、他者を潤していく。
皆さんはパレスチナにある死海をご存じだろう。死海は別名「塩の海」と言い、塩分濃度が普通の海の6倍もある。生き物は生息できない。この湖の不思議なところは、川からの流入はあるが、どこにも流れていかないということである。受けるだけで終わる。もし死海のような心であったらどうだろうか。それはいのちのない心で、苦い心である。イライラ、ぶつぶつ、ガツガツ、誰も潤さない。喜びがない、平安がない、苦々しい思い、憤り、赦せない思い、自己中心的思い、そこに人に与える恵みはない。
キリストはこうした心と反対の心を私たちに与えようとしている。トルストイの民話に次のようなものがある。ある地方で日照りが続き、草木は枯れ、動物も人間も渇きを覚えていた。一少女が病気の母親のために、ひしゃくを持って水探しに出かける。しかしどうしても見つからなくて、彼女は疲れて眠ってしまう。ふと目を覚ますと、ひしゃくの中にきれいな水がいっぱい入っていた。びっくりである。家路を急ぐ彼女の前に現れたのは一匹の子犬。水を飲みたそうにしていた子犬に、手のひらで水をすくい、飲ませてやる。そしてまたすくって飲ませてやろうとした時、木でできたひしゃくは、銀に変わっていた。そして子犬に飲ませてやった。彼女は夕方、家に着き、さっそくお母さんに、ひしゃくから水を飲ませてやろうとした。すると、母親は、「ありがとう。でも、おまえものどが渇いているでしょう。わたしより先に、おまえがお飲み。わたしはあとでいいから」。そう言ってひしゃくを娘の手に返した時、銀のひしゃくは金に変わった。そうしているうちに、疲れた旅人が玄関に来て水を求めた。「お願いです。水を飲ませてください。のどが渇いて死にそうです」。少女が、「どうぞお飲みください」とひしゃくを旅人に差し出すと、ひしゃくからきれいな水がこんこんと湧き出て、ひしゃくから湧き出した水は、いつまでも枯れることがなかった。
少女と母親の心は「流れ出る」ということを思い起こさせる。キリストを信じる者に与えられる御霊によるものは、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」(ガラテヤ5章22,23節)と言われている。私たちの生まれながらの性質にこれはない。そのような意味においても、私たちはキリストのもとに行って、飲むことが欠かせない。
最後に、37節の、キリストの後半の招きの文章を今一度心に留めよう。「わたしのもとに来て飲みなさい」。欄外註をご覧ください。詳訳が記されている。「いつもわたしのもとに来て、いつも飲んでいなさい」。原文は継続を求める命令文である。私たちは枯れてしまわないために、そして流れ出て行き、他者の祝福となるために、キリストのところにいつも行き、いつも飲んでいることが必要である。キリストは「救いの泉」「湧き水の泉」「いのちの水の泉」である。このキリストから離れたら終わりである。渇いて死んでしまう。他者を潤すこともできない。「だれでも渇いているなら、いつもわたしのもとに来て、いつも飲んでいなさい」。アーメン。