前回は、神さまは時の支配者であることをご一緒に学んだ。神さまは、過去・現在・未来、すべての時を支配しておられる。そして、これまでの歴史の中で、キリストが6節で言われた「わたしの時」が最も大切な時であったことを学んだ。「わたしの時」とは、十字架にかかることが強く意識された時のことであった。それは人類の歴史上、最も重大で心に留めるべき時である。キリストが十字架にかかって私たちの罪を負ってくださらなければ、私たちの救いはなかった。
今日は前回に続いて、仮庵の祭りでの記事だが、テーマは、「神の保護」ということにしたい。この7章は、キリストに対する敵意が前面に出されている。「イエスを殺そうとしたので」(1節)、「この人は、彼らが殺そうとしている人ではないか」(25節)、「そこで人々はイエスを捕えようとしたが」(30節)、「イエスを捕えようとして、役人たちを遣わした」(32節)。キリストへの憎しみ、敵意は、キリストを捕え、殺す計画に発展していった。そして、この計画が密かにではなく、表立って行われようとしていた。普通、自分のいのちが狙われているとわかっていたら、びくびくおどおどするのが普通である。他国に逃亡してもおかしくない。けれどもキリストには不思議なほどに落ち着きがある。そして敢然とした態度でふるまっておられる。なぜなのだろうか。今日は、その秘密を探りたい。
14節を見ると、キリストはエルサレムの神殿で、公然と神の教えを説いていたことがわかる。キリストの話を聞いていたのは様々な人たち。祭司長やパリサイ人といったユダヤ教の指導者たちがいた。彼らはイスラエルの立法府サンヘドリンという議会を構成していた。26節の「議員たち」とは、祭司長やパリサイ人からなるサンヘドリンのメンバーたち。彼らがキリストのいのちを狙っていた。また、イエスという男は良い人だの悪い人だの、色々なことを言いながら、議員たちの動向を見守っていた市民たちがいた。また、余りそういうことにかかわりなく、祭りに上ってきていた地方の巡礼者たちがいた。
25~27節は、エルサレム市民たちの発言である。彼らは、キリストのいのちを狙っている議員たちが、偉くおとなしく、何も手だししないで見ているものだから、26節で、「この人が、キリストであるとほんとうに知ったのだろうか」と言っている。「キリスト」の欄外註に、「すなわち『メシヤ』」とあるが、つまり、「お偉方は、この人を救い主と信じたのだろうか」と言ったということ。けれども27節を見てわかるように、市民たちも、この人はメシヤであると信じていたわけではないことがわかる。まず27節前半を見てみよう。「けれども、私たちはこの人がどこから来たのか知っている」。この発言の裏には、イエスという人物の出所はガリラヤだという知識がある。41,42節を見よ。「キリストはガリラヤから出ない」というのが一般常識だった。なぜかと言うと、預言の書ミカ5章2節で、キリストはガリラヤ地方ではなくユダヤ地方のベツレヘムから出ることが預言されていたからである。一般の人々はイエスさまがガリラヤの寒村ナザレの出であることを知っていた。けれども、生まれたのはユダヤのベツレヘムという知識に欠けていたわけである(マタイ1,2章、ルカ2章参照)。
また27節後半のことばも当時のメシヤ観を裏付けるものである。「しかし、キリストが来られるとき、それがどこからか知っている者はだれもいないのだ」。当時「隠れたメシヤ」という思想があった。メシヤは出現の日までどこかに隠れていて、その所在は誰にもわからず、ある日、忽然とうわ~っという感じで姿を現すというものである。ところが、「彼はガリラヤのナザレで大工の息子として育ち、生計を立ててきた。そしてガリラヤからユダヤに上ってきた。隠れたメシヤなんかじゃない」というわけである。隠れたメシヤとしての神秘性がないというわけである。
キリストはこういうことを耳にして、ご自分の出所を宣言される(28,29節)。28節でキリストは、「あなたがたはわたしを知っており、またわたしがどこから来たのかも知っています」と話し始められたが、これは市民たちの「この人がどこから来たのか知っている」という発言に対する風刺、アイロニーで、あなたがたはわたしがどこから来たのか実は知らないのだ、ということが本心としてある。それを裏付けるように、28節後半で、「あなたがたは、その方(わたしを遣わした方)を知らないのです」と語っておられる。
キリストは29節で、ご自分の真の出所を明らかにされる。「わたしはその方から出たのであり・・・」。それはガリラヤのナザレでも、ユダヤのベツレヘムでもない。地上のどこかという話ではない。天の出所について話しておられる。キリストのほんとうの出身は天であり、三位一体の第二位格として、父なる神から直接出ている。この天的出所の話はこれが初めてではない。6章のいのちのパンの講話では、繰り返し繰り返し、ご自身が天から下って来られたことを語っておられる。人々は、その時、何を言っているんだこの人は、とつぶやいたわけだが、今日の場面は神殿である。ご自分を神と等しいものとするこの発言を神殿でされて、お偉方は黙っておれなくなった。32節にあるように、ユダヤ教当局は役人まで遣わし、いわば警察を遣わし、イエスというふとどき者を捕えようとする。けれども、捕まえられなかった。逃げたわけでもない。
なぜ捕まえられないのか、そのヒントは30節にある。「そこで人々はイエスを捕えようとしたが、しかし、だれもイエスに手をかけた者はなかった。イエスの時が、まだ来ていなかったからである」。「イエスの時」、それは6節で学んだ「わたしの時」のことであり、十字架の時のことである。その時まで、神は敵の働き、悪魔の働きに制限をかける。ほしいままにさせない。神の計画を妨げんとする力に対して、絶対主権をもって抗する。
キリストは逃げるそぶりもなく、また謎めいた話をされる(33,34節)。「まだしばらくの間、わたしはあなたがたといっしょにいて」の「しばらくの間」(33節前半)とは、この時から十字架にかかるまでの約6カ月である。ルターのコメントは的を得ている。「キリストの守り手とは誰なのか。誰が彼の敵から守るのか。キリストを守るために数千の騎馬兵や三千の歩兵の存在についてなど、何も言われていない。完全な防護が十字架につくまでのしばらくの間、キリストに与えられた。十字架につくまでの間、キリストに対する敵のもくろみは無に帰した」。「しばらくの間」、6カ月間、殺意を抱いている者たちが殺そうと謀っても、どのような謀略を練ろうとも、何もすることができないということである。この間、天から遣わされ、みこころに沿って生きているキリストの働きを誰も止めることはできない。ことばに言い表せない不思議な守りが、キリストの上にあった。
キリストは33節後半で、「それから、わたしを遣わした方のもとに行きます」と言われているが、これは「昇天」のことを言っておられる。天から下って来られたキリストは天に戻られる。けれども、人々はキリストが天に帰ることなど思いに至らない。地上のどこかへ行くのだろうと、トンチンカンな推測をする(35節)。ギリシャ、ローマ、エジプトといった海外に移住しているユダヤ人を「ディアスポラ」と呼んでいた。「離散している人々」と訳されていることばがディアスポラ。彼らが何を言いたいかというと、本家本元のイスラエルで相手にされなくなって、イスラエルを出て行って、しかも異教徒を相手にするということなのか、といったことであると思われる。これが彼らが考えうる精一杯のことであった。だが、真実は天に行くということであった。そこはもはや敵の手が届く所ではない。
今日のテーマは「神の保護」「神の守り」ということであるが、まず、十字架の時まで、キリストは完全に守られたことを覚えたい。キリストは父なる神の守りを知っていたので、父なる神にゆだねる姿勢があった。自分のいのちは自分で守るしかないと、懐に剣を忍ばせていたわけではなかった。全くの無防備であった。キリストには、わたしのいのちを奪える者はいない、という確信があった。天意に沿って生きているなら、恐れは要らないという姿勢だった。神が定められた時まで、自分は絶対に守られるという確信があった。ダビデのことばとして、次のようなものがある。「私の時は、御手の中にあります。私を敵の手から、また追い迫る者の手から、救い出してください」(詩篇31編15節)。キリストも「私の時は御手の中にあります」と歩んでいかれたのではないだろうか。
やがて十字架の時が来て、キリストは捕らえられて、処刑されることになる。それは人類の罪を負って、罪の贖いを成し遂げるために必要なことであった。しかし、キリストに敵意を抱いていた者たちにとっては本望を遂げたということであった。やっと殺せたと。キリストは十字架の上で死体となる。ここで、「なんだ、結局は殺されるんじゃないか。最後は守られない」となるかもしれないが、それは早合点である。キリストは34節で何と言われただろうか。「あなたがたはわたしを捜すが、見つからないでしょう。また、わたしがいる所に、あなたがたは来ることができません」。キリストは敵たちに対して、「わたしがいる所に、あなたがたは来ることができません」と言明されている。最終的には、敵の手の届かない天に移され、永遠の保護がある。そこには、中傷する者も、いのちを狙う者もいない。
私たちは、このキリストが歩まれた道と自分を重ね合わせることができるだろう。それぞれに神さまが定めた、あなたはこれまでという人生がある。この地上世界はパラダイスではないので、様々な経験を通らせられる。ひどい試練に会う方もいる。でも守りはある。あのヨブ記を思い起こしてもいい。ヨブは人災、天災に見舞われ、最後は重度の皮膚病となる。神がヨブに許されたのは悪魔からの攻撃だった。悪魔は神に言った。「ヨブのあなたに対する信仰はご利益的なものですよ。私が彼の化けの皮をはがしてみせましょう」。しかし、神は言われた。「ヨブのいのちまで奪うことは許さない」。こうして悪魔の働きに制限を掛け、やりたい放題は許さなかった。友人たちは苦難の中にあるヨブを慰めようとやってきた。しかし、友人たちの言葉は慰めとならず、反対に非難されてしまい、ヨブは孤独に陥った。神はこうなることも読んでいただろう。神はこうしたことをすべてを益と変え、最後にはヨブの信仰に対して、それまでの二倍の祝福を与えた。ヨブはトータルすると神の守りを体験している。私たちも何があっても神の守りの御手にすがることができる。それにまた、神から何か使命を与えられているとしたならば、すべてのことから守り、神はそれを必ずやり遂げさせてくださるということ。妨げようとする働きがあっても、それらから神は守ってくださる。私たちはキリストがそうであったように、臆病になって生きる必要はない。
そして最終的に、私たちが行く世界は、永遠の保護がある世界であることを覚えよう。キリストは34節で「わたしがいる所」という安全な場所について語っているが、ご自身を信じない者たちに対して、「わたしがいる所に、あなたがたは来ることができません」と語っている。この反対の表現で、「わたしがいる所に、あなたがたをおらせる」と約束してくださっている個所がある。どこだろうか?ヨハネの福音書14章1~3節である。開いてみよう。
「・・・・わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。<わたしのいる所に>あなたがたをもおらせるためです」。これはペテロたちに対してだけではなく、キリストを救い主と信じるすべての人に対する約束である。天の御国への招きである。この約束に慰めを得つつ、残された地上の人生、しばらくの間、時が来るまで、不必要な心配は捨て、恐れは捨て、神の保護にゆだねて、みこころのうちを歩んで行こう。