聖書には、私たち人間がつまずくことばが書いてある。今日の記事を読むと、ユダヤ人たちと弟子たちはキリストのことばにつぶやき、そしてキリストにつまずいたことが書いてある。キリストのことばが人々をふるいにかけた。キリストはあえてそのことを意図されていたような感がある。

キリストのことばは、私たち日本人にとっても、けっこう衝撃的かもしれない。日本人は気遣いの民族と言われるくらい、空気を読んで、相手の心を敏感に察知しながら会話をすると言われている。日本語の単純な返事には「はい」「いいえ」がある。これは英語の「イエス」「ノー」と似ているが、若干違う。「イエス」「ノー」は肯定か否定かだけだが、日本語の「はい」「いいえ」は相手の意を酌んで使われる。たとえば、「コーヒーいかがですか」と聞かれた場合、「いいえ、けっこうです」もありだが、何か相手を否定したように受け取られてしまう。そこで、「はい、ありがとうございます」と言ってから、「カフェインで夜眠れなくなるたちなので・・・」と言って断る。「いいえ」をはっきり使うのは二つの場合くらいしかないと言われている。一つはへりくだる場合。「あなたはお料理が上手ですね」。「いいえ、とんでもない。私なんか・・・」。もう一つは、相手を励ます場合に「いいえ」を使う。「私は何をやってもだめで・・・」「いいえ、あなたはお掃除が得意ですよね」。こうして相手を気遣う。

また日本語は恩に着て感謝する表現が多い。たとえば、「本日をもって閉店とさせていただきます」。こういうとき、「させていただける」という表現を使うのもおもしろい。閉店を許していただけるのはありがたいことだ、という相手への気遣いのことばである。お店でトイレに入ると、「いつもきれいにご利用いただきありがとうございます」と感謝のことばである。よくお店の前に掲示されている「準備中」の看板もおもしろい。休業日なのだけれども、準備していますからお待ちくださいという気遣いを表している。

また日本人は感謝する以上に、あやまるのが好きである。「すみません」ということばを良く使う。電車に乗っていて前の人が席をゆずってくれるとき、「ありがとうございます」でもよさそうなところ、「どうもすみません」とあやまって座る。あなたを立たせてしまって申し訳ないというあやまりである。とりあえず、「すみません」を使っていれば、日本では一日過ごせる。日本人が他人の家に入るときのあいさつのことば、「ごめんください」もあやまりのことばである。帰る時も、「お邪魔しました」とあやまって帰る。

日本語はあいまいである、と良く言われる。言い切らないでぼかしてしまえる表現が多い。主語なしで文章ができるし、「かもしれない」「と思うけど」という風に、語尾でぼかせるものも多い。こうしたことで自分の責任も回避できるが、相手に意思が良く伝わらないということも起きる。政治家の謎の答弁が話題になったりもする。

さてキリストのことばを読むと、何の衒いもないというか、ズバッと単刀直入に言われたり、そんなことを言ったら誰でも不審に思うでしょうと思うようなことを言ってしまわれることがある。そして怒りまで買ってしまう。今日の個所を読むと、キリストのことばにユダヤ人たちも弟子たちも、苛立ち、つまずいたことが書いてある。

最初はユダヤ人たちである。「ユダヤ人たちは、イエスが『わたしは天から下って来たパンである』と言われたので、イエスについてつぶやいた」(41節)。「パン」のことを口にされたのは6章冒頭からの五千人の給食が念頭にあってのことである。当時、パンは唯一の主食だった。貧しい時代にあって、パンを食べないことは死を意味した。五千人の給食において、キリストはパンを豊かに与えた。その後、ユダヤ人たちはキリストの追っかけとなった。それはキリストご自身を求めたというよりも、キリストが麦のパンを豊かに与えてくれるということで追っていった。だから、彼らはキリストを求めたというよりも、麦のパンを求めたに過ぎない。キリストという永遠のいのちのパンを求めたわけではない。キリストは彼らをふるいにかける。あなたがたが本当に求めなければならないのは、麦のパンでなく、わたしといういのちのパンなのだと。

ユダヤ人がキリストにつぶやいた理由は、「天から下って来た」という表現である(41,42,50,51、58節)。ユダヤ人にとって「天から下って来た」という表現は、「神の救い主」を意味する。それをユダヤ人たちは受け入れられない。「この人はガリラヤの田舎大工の息子だろう」(42節)。キリストは彼らの偏見を解くために彼らと論争しようとはなさらずに、彼らをつまずかせた主張を繰り返していく。「わたしは天から下って来たいのちのパンである」と。「わたしを信じる者は永遠に生きる」と。この主張を聞いて、私たちは、ペテン師のことばか、神の救い主のことばなのか、どちらなのかを判断しなければならない。ユダヤ人たちはペテン師と判断したのだろうか。誇大妄想家と思ったのだろうか。私たちも判断しなければならない。

次につまずいたのは弟子たちである。「そこで、弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言った。『これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。』しかし、イエスは、弟子たちがこうつぶやいているのを、知っておられ、彼らに言われた。『このことであなたがたはつまずくのか』」(60,61節)。私も同じことを言われたらつまずいたのではないかと思う。キリストはあえて、つまずきの材料を与えて、弟子たちをふるわれている。彼らをつまずかせたのは、ユダヤ人たちをもつまずかせたと思われる53~56節で言われた、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲め」ということばである。人間を食べることをカニバリズムと呼ぶが、それは野蛮な行為。54節以下で「食べる」と訳されていることばは、「動物が野菜果物などをバリバリ音を立てて貪り食う」といった意味のことばが使用されている。キリストはわたしを丸ごと食べよ、骨の髄までしゃぶれ、と言いたかったのだろうか。そうではないだろう。キリストはこの絵画的な表現を用いて、食べるようにしてわたしをあなたのうちに受け入れよと言いたかったわけである。私たちにいのちを与えるのはキリストである。キリストは51節からわかるように、いのちのパン、いのちの肉なのである。「わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です」(51節)。キリストを食べるようにして私たちの内側に受け入れる人は幸いなのである。

「血を飲む」ということも言われたが、これも怒りを買う表現。旧約聖書からユダヤ人たちは、血は絶対に飲んではならないと教えられていた。それは他民族にそういった野蛮な習慣があったからというだけではなく、いのちとして贖いをするのは血だからである。「・・・どんな血でも食べるなら、わたしはその血を食べる者から、わたしの顔をそむけ、その者は民の間から断つ。なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。・・・いのちとして贖いをするのは血である」(レビ17章10,11節)。ご存じのようにキリストが十字架の上で血を流されたのは、私たちを罪から贖うためだった。よって、キリストは、ご自身がやがて人類を贖うために十字架にかかることを心に置きながら、この教えをされている。キリストが十字架の上で肉を裂き、血を流されたのは、私たちを罪から贖い、永遠のいのちを与えるためだった。

このキリストは、ご自身を食べ続けることを願っておられる。54節前半を直訳的訳すと、「わたしの肉をいつも食べて、わたしの血をいつも飲んでいる人は永遠のいのちを持っています」となる。いのちそのものであられるキリストと絶えざる交わりをしていきたいと思う。血と肉の講話全体から見えてくることは、キリストを信じ、キリストと交わり続けることの大切さ。キリストは神のいのちそのものであるから。

私たちは、みことばを通してキリストと交わるわけだが、人々につまずきを与えたごキリストのことばは、63節を見ると、御霊のことばであり、いのちのことばなのだということがわかる。「いのちを与えるのを御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです」。今日の個所に限らず、聖書のことばは、受け止めるのが難しい個所、理解が困難な個所がある。でも、すべてを御霊のことば、いのちのことばとして読んでいきたい。

こうして多くの者がキリストのことばによってふるわれて、最終的に残ったのは十二弟子のみ(66節)。キリストは、人受けすることばをたくさん並べて人を集めようとする政治家や宗教家とはまったく違うタイプだった。全く反対の印象を受ける。

キリストは十二弟子を前にして、最後のふるいわけのことばを語る。「そこで、イエスは十二弟子に言われた。『まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう。』」(67節)。これは、他の人たちはどうであってもあなたたちは離れないと答えてくれるはずだ、という期待が込められている。ペテロがその期待に応える答えを述べる。「すると、シモン・ペテロが答えた。『主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます』(68節)。ペテロは63節で言われた「わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです」を受け止めている。ペテロたちは、キリストが十字架の贖いのみわざを念頭に、肉や血の話をされたことを理解していたわけではない。理解は不十分である。けれども、キリストのことばは神からのものだ、それはいのちのことばだ、まことであり真実だ、と受け止めたのである。他の弟子たちが、「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いていられようか」と受け止めたのとは対照的である。

さらに、ペテロはりっぱな信仰告白をする。「私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています」(69節)。「神の聖者」とは、救い主の称号である。ペテロはイエスという人物がキリストであること、すなわち神の救い主であると信じ受け入れている。ゆえに、このお方から離れる理由はどこにもないと思っている。

だが、キリストはこの時、肉体的にはご自身と一緒にいることはいたが、心は離れていた弟子が一人いることを伝える(70,71節)。「キリストを売ろうとしていた(「裏切ろうとしていた」新改訳2017訳)」と、ただ離れるよりも悪い心をもっている者が一人いた。離れたいと思っているけれども、魂胆があって、とりあえず今は離れず一緒にいるだけ、という存在である。離れているようで、目に見えるところは離れていない存在という言い方もできよう。偽善者、異端に多い存在である。

今日のみことばで心に残るのは67節のみことばである。「まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう」。「はい、そうです」と答えることもできる。「検討中です」と答えることもできる。「いいえ、離れたくありません」と答えることもできる。最初は数えきれないほどの群衆がキリストの周りを取り巻いていた。だが去って行った。けれどもなお多くの弟子たちが取り巻いていた。だがそれらの者たちも去って行った。離れて行った。その者たちは本当の意味でキリストに結びついていなかった。自分のイメージに合うかどうかが問題だった。パンを豊かに与えてくれるような王様というイメージで見ていた者たちがいた。異邦人を征服してくれる王様というイメージを押し付けようとしていた者たちも多くいただろう。しるし・不思議連発のヒーローというイメージで見ようとした者たちもいただろう。偉大な律法学者というイメージで見ていた者たちもいただろう。自分たちのイメージから外れたと思うやいなや離れて行った。

私が牧師になってまだ一カ月も経っていない頃、町で一人の婦人と出会った。その方は私が牧師だと知ってこう言った。「私は以前、洗礼受けたけれども、期待が外れて何もいいことが起きなかったからやめました」。明るい表情でこう言った。私はその時、この人はキリストではなく、ただキリストが与えてくれるご利益を求めていただけなのだなと思った。我欲のために神を利用しようという霊性は一般的である。

ある神学校で、バプテスマを受けた後、教会から離れてしまった人たちにアンケートを取った。なぜ教会から離れたのか、というアンケートである。回答として一番多かったのは、「仕事が忙しくて」であった。忙しくしているうちに、キリストとの交わりから離れてしまう。良くあるパターンである。その他に多かったものは、クリスチャンの生活よりも普通の人の生活にあこがれてしまった。これも良くあるパターン。旧約時代から、神から離れる定番である。その他に、牧師や信徒たちのことばに対するつまずきというものもあった。こういう場合、責任の度合いはケースバイケース。いずれ一番の問題は、世の喧噪の中で、キリストの姿を見失い、キリストの御声を聞かなくなってしまい、キリストとの交わりから離れてしまうということにある。祈りとみことばというデボーションの習慣も失せ、気がついてみたら、ということである。私はキリストのもとにとどまっているという人も、奢ることなく、祈りとみことばを通してキリストとの交わりを尊んでいただきたいと思う。

最後に、ヘンリー・ナウエンの祈りのことばの一部を読んで終わりたいと思う。「日々の生活の多忙さの中で、予定と計画をこなしていく中で、親戚、知人、友人とつきあっていく中で、あまりにも多忙となり、あなたが私とともにおられること、他の誰よりも私に近いところにいてくださることに気づくことができなくなってしまわないようにお願いします。あなたの御手に表れる愛のしぐさが見えなくなってしまうことがないように、またあなたの口から出る優しいことばが聞こえなくなってしまうことがないように願います。あなたが私とともに歩いてくださる時、そのあなたを見たいと願います。また、あなたが私に語りかけられる時、あなたの御声を聞きたいと願います。イエスさま、私はあなたのみことばを聞きます。あなたのみことばが私の中で、血となり肉となって、あなたのための場所となるように、私の全身全霊を挙げて、あなたのみことばを聞きたいのです」。キリストは信じる者とともにいてくださる。キリストを見失うことがないようしよう。目に見えないキリストを見るように努めよう。キリストの御声を聞くように努めよう。キリストのみことばが、私たちのうちで、血となり肉となるように。キリストは永遠のいのちのことばを持っておられる。