今日のタイトルは「ひとり子をお与えになったほどに」であるが、私たちは、人から与えられたもので助かったという経験があるはずである。今日の個所は、神は何を与えてくださったのかということに心を留めさせる。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(16節)。著者ヨハネの神学の中心にあるのは神の愛と言ってよい。まさに今日の個所は神の愛を伝えている。神に背を向けて歩んでいた人類は自らの罪ゆえに皆滅んでしまう。世界中の人が滅んでしまう。この危機から救ってくれるのは人が作ったワクチンでもなんでもなく、神が惜しまず与えてくださったいのちそのものである御子キリストである。神は永遠のいのちそのものである御子キリストを人類に惜しまず与えてくださった。ここに愛がある。
今日の個所は前回学んだ3章1節から始まるキリストとニコデモの対話の続きである。21節でニコデモのストーリーは終わるという構文となっている。15節までは明確にキリストのことばである。16節からの文章はキリストのことばなのか、それとも著者ヨハネのことばなのかということだが、キリストのことばは10節から始まり15節で終わっているようにも見える。15節の終わりに鍵かっこ閉じの記号(」)がある。けれども原文には鍵かっこ閉じの記号はない。キリストのことばはここで終わったと、推測で付けているだけである。15節の欄外註を見ていただくと、「キリストのみことばの引用をここまでとしないで、二一節の終わりまでとして訳すこともできる」となっている。15節でキリストのことばは終わったようにも見えるが、語り手が切り替わったというサインなしに文書が書き連ねられているものだから、読者は不思議な感覚にとらわれる。どこでキリストのことばが終わったのかと。16節以降はヨハネのことばという印象はあるわけだが、ヨハネは聖霊に導かれて書いているので、霊的には21節までがキリストのことばと受け取ってもまちがいではないだろう。
16節のみことばは13~15節のキリストのことばを受けている。キリストは天から下り、まことの人となってくださったまことの神である。天から下ったキリストは、モーセが荒野で蛇を木の上に上げたように、木の上に上げられることになる。前回もお話したが、モーセを指導者としてエジプトを脱出したイスラエルの民は、荒野の旅の後半、神さまに対してひどくつぶやきだした。神さまは裁きとして燃える蛇を送った。それは噛まれると火傷のように熱く痛む毒蛇であると思われる。神さまは救いの手段として青銅の蛇を木の上にかかげるように命じられた。その青銅の蛇を仰ぎ見る者は、噛まれても生きた。この木に上げられた蛇は、キリストによる救いの型であった。キリストは十字架に上げら、そして蛇のようにされた。木にかけられる者はすべてのろわれた者である」と律法で言われているからである(ガラテヤ3章13節)。律法(神の法)を遵守できない者に対するさばきは死である。キリストはさばきとしての死を私たちに代わって受けられた。呪われた蛇のようになって。キリストはこのようにしてご自身のいのちを差し出してくださった。そして、このキリストを信じる者に永遠のいのちが与えられることが15節で約束されていた。「永遠のいのちを持つ」とは、「神の国に入る」また「神の国を見る」ということの言い換えであることを前回ご説明した。
今日の個所では、神の国入る条件、永遠のいのちをもつ条件として、御子を信じるということが再び述べられていて強調されている。「御子を信じる」ということがニコデモへのチャレンジであり、私たちへのチャレンジでもある。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは、御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちをもつためである」(16節)。神さまの思いと私たちの思いとはかみ合わないことがある。私たちは、病気やケガに遭わなければそれでいいと思ってしまう。お金にも困らないで生活できれば、とりあえずそれでいいと思ってしまう。そして、神さま、そうしてくださいと願うわけである。けれども、もっと大切なことがある。私たちはそれに気づかなければならない。罪から救われて、永遠のいのちを持つということが大切なのである。それがない人生は滅びが待っているだけである。神さまは私たちがそれに気づく前に、一方的な恵みによって、御子による救いのみわざを成してくださった。それが十字架による救いのみわざである。十字架が人類に対する神の啓示の中心である。十字架は人間の罪がどれほど深刻なものであるかを示すとともに、神の愛をはっきりと示すものであり、ここに救いがあるのだと人類を招くものである。キリストが血まみれになって人々の罵声を浴びながら十字架についていた時、天空は真っ暗になった。神はご自身の義のさばきをキリストに下した。キリストは万民のいけにえ、最後のいけにえとなった。これは人類を愛するがゆえの神の決断であった。
キリストは「ひとり子」と言われている。以前もお伝えしたように、「ひとり子」ということばは、数が一人、二人の、という数のこと以上に、特別な、独自の、比類のない、といった意味が込められていることばである(欄外註参照)。父なる神にとって御子キリストは、特別な、ご自分の分身といっていい存在。唯一無二の存在。にもかかわらず、私たちを罪から救うために、この世に遣わし、私たちの罪を背負わせ、十字架の祭壇で犠牲とした。律法の要求である死の裁きに服させた。キリストも私たちのためにご自分のいのちを捨てることをよしとされた。十字架の上で私たちの罪を負い、いのちを捨てるというのはどれほど辛いことであったのだろうか。人類の罪の総数はどれほど重く、どれだけ汚れていたのだろうか。それに対するさばきはどれほど過酷なものであったのだろうか。肉体的にも霊的にも何の慰めもない峻厳で冷徹な裁きが父なる神から下った。だが、キリストは私たちへの愛ゆえに、この苦しみを忍ばれた。父なる神も私たちへの愛ゆえに、この痛ましい犠牲を忍んでつくられた。
神は愛なので、私たちが永遠の刑罰に服することを望んでいない。全世界のすべての人を救いたい。永遠のいのちを与えたい。それだから、十字架にかかられたキリストを信じるように招いている。キリストを信じるとはどういうことだろうか。もちろん、キリストという人物が存在したということを信じる、で終わりではない。まず、キリストは三位一体の第二位格の神であり、まことの人となられた救い主であることを信じなければならない。2節でニコデモはキリストのことを、「神のもとから来られた教師」と評しているが、そこからもう一歩進んで、ヨハネ20章28節で弟子のトマスが告白したように、「私の主。私の神」と告白できる人は幸いである。次に、キリストが私の罪のために十字架についてくださったことを信じなければならない。最後に、自分と自分の人生をキリストに明け渡す決断をすることである。「御子を信じる」は原文で、「御子の中へ信じる」という文体になっている。燃える炎を避けて永遠のいのちという泉の中に飛び込むことをイメージしてもいい。その泉があることや、その泉のすばらしさを知識として信じていることだけで十分ではない。信仰とは頭で信じるだけの世界ではない。滅びをもたらす自分の罪を認め、このお方を信じ切って、このお方に自分と自分の人生を明け渡す、おまかせする、そういう決断が大切である。
神がキリストをこの世界に遣わされた意図は、あくまでも私たちが救われるためである。神の願いはすべての人が救われることなのである。さばくことではない。ただ救われることだけを願っておられる。「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである」(17節)。にもかかわらず、さばきが起きる。なぜなのだろうか。その理由が18節以降に記されている。神はすべての人が救われることを望んでおられ、救いに招いておられるが、神を拒む人たちがいる。その人たちは自らにさばきを招いてしまう。自分で招いたさばきということになる。では、神を拒む拒まないは何でわかるのか?御子キリストへの態度でわかるというのである。「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている」(18節)。目に見える神となってくださったキリストが試金石となる。「さばく」ということば、「ふるいわける、分類する」という意味をもっている。たとえば、真っ赤なりんごを皆の前で見せて、「りんごが好きな人は集まってください」と言ったとする。りんごに拒絶反応がある人は集まらないだろう。味が嫌いだとか、アレルギーがあるとか。嫌いではないけれど好きでもないという人も行かないかもしれない。とにかく、りんご一つで、人々はふるい分けられることになる。
しかし、事は食べ物の好みの話ではない。また、この男性好きですか?この女性好きですか?といった人への好き嫌いの問題でもない。神さまに対する嗜好の問題。しかし、この世界に神さまと名のつくものは億単位である。だから、その人が神さまの名を口にしても、その人がほんとうの神さまを受け入れているとは限らない。まことの神はキリストと融合している。キリストは神を現す神なのである。キリストへの嗜好が問われている。
今日の個所では、キリストは「光」とも言われている。「そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行いが悪かったからである。悪いことをする者は光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。しかし、真理を行う者は、光のほうに来る。その行いが神にあってなされたことが明らかになるためである」(19~21節)。キリストを光と呼ぶのはここが初めてではない。1章の冒頭で著者は、キリストは永遠の昔から存在されていたことばなる神、創造主であることを伝えた後に、キリストを「人の光」(4節)、「まことの光」(9節)として示している。光と対峙するのは闇である。その中間はない。人はどちらかを選ぶことになる。闇を選ぶ者は、自らにさばきを招いているということになる。
注意して見てみたいことは19~21節において、行いの悪い者は光のほうに来ないが、真理を行う者は光のほうに来ることが語られていることである。「・・・悪いことをする者は光を憎み・・・光のほうに来ない。しかし、真理を行う者は、光のほうに来る。・・・」。一見すると、不道徳かどうかで光に対する反応が違うかのように見える。不道徳な者はキリストのもとに行かないかのような。しかし、聖書を見ると、自分を正しいとするパリサイ人たちの多くがキリストに寄りつかず、反対に、罪人、収税人と言われる者たちが喜んでキリストのもとに集まったことがわかる。ヨハネの福音書では、4章で超不道徳なサマリヤの女が登場し、8章では姦淫の現場で捕まえられた女が登場する。でも光であるキリストを嫌った様子はない。むしろその逆である。光にとどまった。私たちは19~21節をどう解釈したらいいのだろうか。ヨハネの福音書を読み進めていくと、この疑問が解けていく。
ヨハネの福音書にはユダヤ人たち(主にパリサイ人)とキリストの対立が描かれている。ユダヤ人たちは自らを神の子と主張していた。だが御子キリストを拒んでしまったわけである。このユダヤ人たちが光を拒む者として意識されていることはまちがいない(ヨハネ8章44~47節参照)。彼らは神を信じていると自負しており、見えるところ、道徳的には中立で、有徳的にさえ見える。けれども光のもとに来ない。一皮むけば悪であるからである。マタイの福音書等を見ると、キリストはパリサイ人たちを偽善者として責めている。偽善者の原意は「仮面をかぶる者」であった。仮面をはがせば、そこに神を愛する思いはない闇の顔がある。あるのは自己栄光、自己満足、自己利益を得ること。自分を良く見せるパフォーマンスは得意である。その霊性は闇である。彼らは人を欺き、自分をも欺いている。一見、正しいように見えても、キリストを嫌う彼らは闇を慕う者たちでしかない。彼らの行いは一見正しいもの見えても、神を通して行っているのではない。光が近づくとき、彼らの闇の本性が露呈される。光を嫌い、光を憎む。それはキリストへの殺意となって現わされることになる。それで彼らが神からの者でないことが暴露されることになる。彼ら自身としては自分たちが盲目で闇の中にいることを知らないだけである。
著者のヨハネは、福音書でユダヤ人の闇を暴いた後、今度は手紙において異端反駁に取り組む。ヨハネの手紙第一を読むと、ヨハネはキリストがまことの光であることを語っていることがわかる。そして、神を信じていることを語っても、イエスを神の救い主と信じない者たちは、光の中ではなく闇の中にいることを主張している。「偽り者とは、イエスがキリストであることを否定する者でなくてだれでしょう」(第一ヨハネ2章20節)。異端の人たちは、私たちとキリスト観が違う。イエスを神的人物と認めても、イエスを永遠の昔からおられることばなる神とは認めていない。十字架の贖いの絶対的効力も認めない。それは、十字架の犠牲を払ったキリストへの侮辱でしかない。今日の3章19~21節の意味は、ヨハネが書いた文書全体を読むときに納得できるようになる。キリストはまことの光である。この光のどのように反応するのか、それが問われている。
ゲーテの臨終に同席していた人は、ゲーテについてこう言っている。「光が彼の最後の要求であった。死の30分前、もっと光が入り込むように窓のよろい戸をあげるよう命じた」。光を求めたゲーテ。問題は太陽の光ではなく、キリストという光を求めるか否かである。天の御国には入りたいが、キリストは必要ないという人がいる。その人は死後、本能的にこの光を嫌って、真っ逆さまに闇の世界に自分を突き落とすことになりかねない。それが滅びである。
私たちは3章16節のみことばから、神が私たちの救いのために何をしてくださったかを知り、神の愛を受け止め、信実な応答をしよう。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」。神は誰も滅びることを願ってはおられない。それだから神は、キリストはひとり子であるのだけれども、断腸の思いで、この世に遣わし、十字架の祭壇に献げてくださった。キリストも世の罪を取り除く神の子羊として、この祭壇でご自身のいのちを献げてくださった。神が私たちに願っているのは「御子を信じる」こと。「信じる」とは、人間のたましいの根源的な態勢である。家族を信じる、誰かを信じる・・・。信じる、その信実な心の働きをキリストに向ける人は幸いである。キリストはその人にとって永遠のいのちとなり、永遠の同伴者となり、永遠の住み家となってくださる信実なお方である。