人生はハプニングがつきものである。冠婚葬祭もしかり。笑えるハプニングならいいが、非難を浴びることになったり、迷惑をかけてしまうというのはできる限り避けたいわけである。
今日の記事は、キリストの公の活動(公生涯)が始まって間もない頃の物語である。公生涯七日目の可能性もある。2~12章は、実は「しるしの書」とも呼ばれていて、七つのしるしが記されている。しるしとは単なる奇跡のことではなく、起こった現象の背後に神を認めることができるというものであり、そしてそこには、神のメッセージが込められているというものである。特にヨハネの福音書において、しるしは、イエスがキリスト、すなわち神のメシヤであることを表すものなのである。今日の物語は最初のしるしである(11節)。
場面は婚礼の場面である。場所はガリラヤ地方のカナ(1節前半)。そこに、キリストの母マリヤとキリストとキリストの弟子たちも招かれた(1節後半、2節)。マリヤは婚礼の式を挙げた者たちと親戚関係だったか、親しい家族付き合いをしていたか、何かであっただろう。弟子たちは、この時点で6人いたことはまちがいないと思われる。アンデレ、ペテロ、ピリポ、ナタナエル、ヤコブ、ヨハネ。ナタナエルが弟子になる場面は直前の1章45節以降に記されているが、ナタナエルはカナ出身だった。ヨハネ21章2節にはこうある。「ガリラヤのカナのナタナエル」。もしかすると、ナタナエルとの関係で招待があったのかもしれない。
当時、婚礼の披露宴は一週間続いた。この披露宴の最終的責任は花婿である。披露宴の途中、料理や葡萄酒が尽きてしまうというのは、当時においてはたいへんな恥だった。もし尽きてしまったら、花婿は花嫁側の親類縁者から非難を浴びることは必定。ところが、ここでそれが現実的になりそうな雰囲気だった。
披露宴の舞台裏で不安が広がっていた時、マリヤは息子のイエスに助けを求めた(3節)。彼女はこの時すでにやもめになっていたと考えられる。イエスさまが12歳の時に祭りで行方不明になったエピソード以来、父ヨセフは福音書に登場していない。とすると、マリヤをはじめ他の子どもたちは、イエスを一家の大黒柱的な存在として頼っていただろう。なにしろ長男なので。この場面で母が長男の息子に向かって「ぶどう酒がありません」と吐露するのは自然なことである。
さて、キリストの返答はどうだっただろうか。「女の方」と呼びかけている(4節)
よそよそしい表現にも思えるが、これは目上の女性に対する尊敬を込めた丁寧な呼びかけの表現である。しかし、「あなたはわたしと何の関係がありましょう」はずいぶんじゃないか、と思われるかもしれない。これはキリストの職務から考えればわかる。キリストは2章から公の職務をスタートしている。その職務とは、神の救い主として、神のことばを伝え、神のみわざを行い、神の国の到来を告げるというものである。神の救い主という働きは、人間の意志に左右されるものではない。母子の結びつき、家族の結びつきというものは、キリストの職務の下に位置付けられなければならない。マリヤは母親の特権にしがみついてキリストを操作しようとするのではなく、他のすべての人間と同じように、一個の罪人として、罪からの救い主であり、神の救い主であるキリストの前に出なければならない。彼女は今や長男を単なる息子として見、また接するというのではなく、息子をメシヤと仰いで、一信仰者として接しなければならなかった。
キリストはここで不思議なことを述べている。「わたしの時はまだ来ていません」。「わたしの時」とはキリストの生涯にとって重要な時を暗示している。「わたしの時」とは、キリストがまことの人となって地上に来られた目的を遂行する時、「十字架の時」と言ってよい。それはまた、十字架、復活、昇天を通して栄光を受けられる時であった。ご存じのように、キリストはこの三年半後、十字架にかけられる。私たちの罪を負って。そして処罰される。それは私と皆さんのための犠牲である。キリストはこの十字架を通して栄光を受けられる。この十字架と栄光の時は、人間が操作して決めることではなく、神が主権をもって定める性質のものである。当たり前だが、私たちは、この十字架がなければ罪の赦しはなく、有罪判決の赦免はなく、天の御国に救い入れられるということもなかった。
それにしても、「ぶどう酒」ということばに反応して、なぜ、「わたしの時は・・・」などと話されるのか不思議に思われるかもしれない。実は、ぶどう酒はメシヤ時代の祝宴のシンボルなのである。旧約聖書では、メシヤ時代がぶどう酒が豊かに流れる時として性格づけられている。「見よ。その日が来る。-主の御告げー。その日には耕す者が刈る者に近寄り、ぶどうを踏む者が種蒔く者に近寄る。山々は甘いぶどう酒をしたたらせ、すべての丘もこれを流す。わたしは、わたしの民イスラエルの繁栄を元通りにする。彼らは荒れ果てた町々を建て直して住み、ぶどう畑を作って、そのぶどう酒を飲み、果樹園を作って、その実を食べる」(アモス9章13~14節)(エレミヤ31章12節、ホセア14章7節参照)。最後の晩餐の席ではキリストは杯を回しながら、やがて父の御国でぶどうの実で造ったものを飲む、とも語っておられる。「わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません」(マタイ26章29節)。ぶどう酒はメシヤ時代のシンボルなのである。さらに聖書では婚礼そのものもメシヤ時代のシンボルとされている。キリストは花婿と新しいぶどう酒のたとえを話している(マルコ2章19~22節)。そこで、キリストはご自分を花婿にたとえている。また婚礼のたとえも有名である(マタイ22章1~12節)。そのたとえは「天の御国は、王子のために結婚の披露宴を設けた王にたとえることができます」で始まっている。ヨハネの黙示録には天の御国の祝宴の描写が「子羊の婚宴」として描写されている。「・・・子羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。・・・子羊の婚宴に招かれた者は幸いだ・・・」(黙示録19章6~9節)。花婿はキリスト、花嫁は信者たちである。この喜びの祝宴をもたらすために、神の子羊キリストは、世の罪を取り除く神の子羊として十字架にかからなければならなかった。だが、まだその時は来ていなかった。
今、キリストは公生涯が始まって間もない時期に、ぶどう酒、婚礼というキーワドの場面におられる。キリストがこれから行わんとしていた奇跡はメシヤ時代の到来を告げるのにふさわしいものであった。これから行おうとしていたしるしは、わたしが皆が待ち望んでいたメシヤである、花婿である、ということを教えるにふさわしいものであった。メシヤ時代の幕開けにふさわしい奇跡だった。
今日の物語から、マリヤの反応にも教えられる。「母は手伝いの人たちに言った。『あの方が言われることを、何でもしてあげてください』」(5節)。マリヤは、キリストを信頼し、すべてをまかせる。「イエス、あれをすれば。これはどうなのよ。そんなことしないでこれをやりなさいよ」と口出しはしない。謙遜にすべてをゆだねている。こうした信仰姿勢は以前からあった。御使いの受胎告知の場面を思い起こしていただきたい。男を知らないマリヤに御使いは告げる。「ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい」。マリヤは戸惑いながらも次のように言う。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」(ルカ1章38節)。「あなたのおことばどおりに」と、マリヤは謙遜で信頼に満ちている。この後、見てわかるように、キリストが手伝いの者たちに命じたことは、やめさせたくなるような内容のものだった。水汲みをさせてどうなるの?と思いたくなるようなものであった。しかし、マリヤは思慮深く見ていたにちがいない。この後、どうなるかわからないけれど、このイエスを信頼し、ゆだねていようと。
六つの大きな水がめがあった(6節)。聖書の完全数は七。六という数字は七に一つ足りない。六は不完全であることを暗示しているのか。人間の力の不完全さを暗示しているのか。そして人を救う不完全な教えが完全なものにとって代わることを教えようとしているのか。それはわからないが、はっきりしていることは、このことを通して、キリストはご自身こそがメシヤであることを啓示されたということである。
「イエスは彼らに言われた。『水がめを水で満たしなさい。』彼らは水がめを縁いっぱいまで満たした」(7節)。彼らは、時間と労力の無駄と思われるような命令に従った。計480リットルもの水を汲んで、しかも縁いっぱいにまで満たす。なんていうことだろうか。けれども、彼らは従った。最初は躊躇したかもしれない。途中、少しぶつぶつ言ったか、ため息をついたかもしれない。そうでなかったかもしれない。とにかく従った。マリヤも心の中で従っていた。手伝いの人たちにも、最後までがんばるように励ましたかもしれない。その結果、すばらしいみわざが起きる(8~10節)。
こんな話がある。東大教授であった菅野博士は立派な科学者であったとともに、クリスチャンだった。ある時、学生がこう聞いてきた。「先生は科学者でありながら、イエス・キリストの奇跡を信じるんですか。たとえば、水をぶどう酒に変えたとか、水の上を歩いたとか、自然の理法に反していることではないですか」。この学生の質問に菅野博士はこう答えたそうである。「イエス・キリストは神だから何でもできるさ。ぼくは信じているよ」。
水から変化したこのぶどう酒は「良いぶどう酒」である。古代のぶどう酒は、水で1対3から1対10の割合で薄められていた。しかし余り薄いと悪いぶどう酒と言われてしまう。10節がそれを暗示。キリストは「良いぶどう酒」を、しかも、たっぷりと溢れるばかりに創造した。それはメシヤであるキリストの十分性、完全性、キリストがくださるいのちの恵みの豊かさを表し、そのキリストが出現したことを示し、また、やがての天の御国では、ご自身のいのちで満たし、喜びで満たし、祝宴に連ならせてくださることを約束しているようである。このことを思い巡らすと至福な気分になる。
今日のカナの婚礼の個所を繰り返し読むたびに、キリストの救い主としてのすばらしさを教えられる。また、今日のしるしは、質の変化を伴うものであったが、その変化が私たちの心に、また人生にも起きるのだという希望も持つ。有名なみことばにこうある。「だれも、キリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(第二コリント5章17節)。私たちという器にキリストを迎え入れる時、霊的変化が起きる。いのちの御霊の働きである。ある飲んだくれの労働者が救われてクリスチャンになった話もユニークである。同僚が彼をからかってこう言った。「水がぶどう酒になったなんていう馬鹿な話を信じているのかい」。すると、その労働者はこう答えたそうである。「ああ、信じているよ。僕の家へ来てごらん。うちではビールがたんすに変わったよ」。霊的に新しく生まれ変わる、心が新しくされる、生活が変わる、そうした奇跡をキリストにあって期待できる。人間の努力の限界時に、キリストに心を向ける時、キリストはみわざをなしてくださる。変化をもたらしてくださる。メシヤ時代の預言に次のようなものもある。「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける」(エゼキエル36章26節)。
今日の物語から、キリストが真の救い主であることを教えられ、またこのお方に質の変化のみわざを期待できることを教えられたが、マリヤの姿勢からも教えられた。 マリヤが信頼をもってキリストにゆだねる謙遜な姿勢をもったことである。ぶどう酒がないという危機に、いったいどんなことが起きるのかわからなかっただろう。でも、イエスは婚姻が辱められないようにしてくださるという信頼があった。だからこそ、「あの方が言われることを、何でもしてあげてください」と言うことができた(5節)。
人生には度々危機が訪れる。想定外のことに遭遇する。私たちの心はキリストに向かう。その時、「あなたのみこころに従います。どんなことでも従います。どのようにしたらよいか教えてください」という姿勢が必要だろう。一見、時間と労力の無駄と思われるようなことをさせられることになるかもしれない。それでも最後まで従う姿勢を持つわけである。その先に、主の栄光が待っている。ともにそれを拝したいと思う。主イエス・キリストはすばらしい救い主である。