著者のソロモン王は、伝道者の書2章において、快楽の空しさを告白しています。「私は心の中で言った。『さあ、快楽を味わってみるがよい。楽しんでみるがよい。』しかし、これもまた、なんとむなしいことか」(1節)。次に彼は自分が手にした快楽を順番にあげていきます。
 まずは「酒」です。「からだはぶどう酒によって元気づけよう」(3節)。この文章の流れでは健康のために酒を飲むというよりも、結局、空しさの穴埋めとして、逃避の手段として酒を飲むということです。「飲めよ。食えよ。どうせ明日は死ぬのだから」(イザヤ22:13)。空しさの穴埋めとして、飲めば飲むほど、憂鬱感は重くなっていきます。
 次は「富」です(4~8節前半)。彼の邸宅は今の貨幣価値に換算すると何百億、いや何兆円にも達するはずです。そして用いた備品も金と銀ばかり(Ⅰ列王10章21,27節を見よ)。おそらく現代の大富豪でもソロモンの足元にも及ばないでしょう。「富」の英語<ウエルス>は、「幸福、安寧」といった意味がもともとあり、財産や物の豊かさは幸福と表裏一体であると人々は考えています。
 その次は「女性」です(8節後半)。これも並みではありません(Ⅰ列王11章1~3節)。王妃とそばめの数を合わせると、その数1000人。古代の王様は正妻、側室を数多くもつのが決まりですが、しかし過去の記録で、ソロモンにまさって女性を数多く抱えた王様はいません。
 最後は「地位」「名誉」です(9節前半)。彼の名声は全世界にとどろきました。世界中から彼に接見するためにやってきたことが聖書には記されています。
  この者は、信仰をもつのにあたり、クリスチャン作家の三浦綾子さんの文章の影響が大きかったのですが、三浦さんの青春時代の会話にこのようなものがあります。友人「人生の楽しみ?」「わたしはね、したいことをしたいの。自分のしたいことがこの世になくなるまで、したいようにしてみたいの」。三浦さん「したいことって何なの?」友人「今のところは男の人と遊ぶことなの。でも旅行にも行きたいし、日本中で一番すてきな服も来てみたいわ」。・・・三年後に再会、三浦さんはカリエスでベッドに釘づけ。その手を取り、友人は言いました。「あなたの青春はしたいことを何ひとつすることのできない青春なのね」。しかし、三浦さんはすでに信仰をもち、神にすべてをゆだねており、不幸とは思っていませんでした。三浦さん「あなたはしたいことを全部したの?」友人「だめよ。したいことが次から次へと出てくるの。でも、したいことをするって、それほど幸せなことでも、楽しいことでもないわ。なんだか空しくなるばかりよ。男の人と交際してみても、ニューファッションを追ってみても、結局、どうということないわ」。三浦さん「じゃあ、何もしたいことなくなったんじゃないの?」と聞くと、友人は「今にわかる」と言いました。しばらくしてから、三浦さんの耳に、彼女が自分のいのちを絶ったという便りが入りました。
 ソロモンも「私は、私の目の欲するものは何でも拒まず、心のおもむくままに、あらゆる楽しみを手にした」(10節)と述べていますが、「むなしい」という結果に終わりました。こうした「空しさ」は、大小問わず、誰しもが経験するところではないでしょうか?
  著者が一貫して述べていることは、日の下にあるもの自体から、真の満足は得られないということ。だからといって、日の下に望みはないと、いのちを絶つこともありません。日の上に望みがあるからです。すべての偉大なものは日の上にあります。日の上には永遠の神、絶対者なる神がおられます。神は本来私たちのいのちであり、愛に満ちたお方です。このお方以外のもので私たちの心を満たそうとしても徒労に終わるでしょう。すべての人の心には神にしか満たしえない空洞があります。ですから、心を神に向けましょう。
 砂漠地帯を旅していたある人が、疲れ、喉の渇きを覚えました。丘の上に上がり水を探しました。遠くに湖を見て喜びました。「喉を潤せる!」その人は、それに向かって長いこと歩きましたが、いつまでたってもたどり着くことができませんでした。あとでそれは、蜃気楼にすぎないことを知りました。それは光の反射が織りなす幻影にすぎず、水は実在していませんでした。同じように人は、自分の渇きをいやす命の水を求めてこの世を歩き回ります。富、地位、名誉、その他の快楽は、先の湖に似ています。ですから、私たちは、この世の数々の蜃気楼から目を転じて、いのちの泉に目を向けたいのです。このいのちの泉とは、人となられた神、イエス・キリストです。彼は日の下の世界に降ってきてくだり、目に見える神となってくださいました。
キリストは言われました。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から生ける水の川が流れ出るようになる」(ヨハネ7章37~38節)。心の表面からではなく「心の奥底から」生ける水の川が流れ出るようになるというのです。その流れ出るものは、飲めばまた渇いてしまう水ではなく、淀んで濁った汚い水ではなく、新鮮な湧き水ようで、「いのちのましみず」です。それは心の渇きをいやす水です。キリストは「だれでも渇いているなら」と、空しさを覚えているすべての人に対して呼びかけておられます。この地上砂漠で蜃気楼のような幻影に惑わされているすべての人に対するものです。キリストにあって空しさと渇きの解決があります。キリストは私たちの渇きを満たされる方、永遠のいのちです。このお方の招きに応えたいと思います。