聖書には求婚のストーリーも描かれている。それがルツ記である。やもめとなった姑のナオミと嫁のルツ。やもめ二人が生きていくには厳しい時代であった。2章では、ルツが落穂拾いをして当面の食糧を確保しようとしたことがわかる。だが落穂拾いができる期間も数週間と決まっている。この頃は、もうそれも終わっていた。これからどうしたらいいか。古代社会は今以上に女のやもめが生きていくのは大変なことである。ナオミはルツの将来を案じた。そして再婚を願った(1節)。お婿さん候補として親戚のボアズがクローズアップされることになる。彼は買戻しの権利がある親類である(2章20節)。前回お話したように「買戻し」とは、その家の家系が途絶えることのないための救済策である。当時、子どももなく、やもめになってしまった場合、亡き夫の家系が途絶えないようにと、亡き夫のもっとも近い親類がそのやもめと結婚し、亡き夫の子孫を残すように定められていた。それが買戻しである。その権利をボアズが持っていた。ボアズはその上、2章で見たように、信仰がしっかりしていて、親切な男性だった。申し分のない相手である。

それにしても、ボアズがこの時までなぜ独り身でいたのか不思議な気もする。ボアズは2章1節で「有力者」と言われている。社会的地位も経済的にも安定していて、名の知られている人物であった。3章2節では「若い女たちがいっしょにいた所のあのボアズは」と言われていて、女性と交流する機会の少ない現代の警察官のような立場にもない。10節を見ると、ボアズとルツの年齢が離れていたことを伺い知る。ボアズはルツのことを「娘さん」と呼んでいる。そして「若い男たちのあとを追わなかった」と言っている。ボアズはかなり年上という気がする。彼は若い少年ではない。これまで結婚する機会はたくさんあったはずである。周りにも勧められたのではないか。もしかするとボアズは再婚となるのかわからないが、とにかくボアズもこの時、独り身であった。

ナオミは求婚の知恵をルツに授ける(2~4節)。「大麦をふるい分ける」というのは、今は機械を使ったりするが、昔は手作業である。大麦を打った後、風が吹く中、箕を使ってそれを空中にほうり上げ、軽いもみ殻は風に飛ばされてしまい、重い実は下に落ちることになる。適度な風が吹く時間帯は夕方からだったので、ふるい分けは夕方頃から始めたと思われる。作業が終わり、収穫を感謝した夕食を済ませると、収穫で得た穀物とともにそのまま一夜の眠りをとるというのが当時の習わしだったと言われている。ナオミはこの機会を伺っていた。

「その足のところをまくって、そこに寝なさい」(4節)。これは当時認められていた求婚のアプローチの一つであったかもしれない。これが最善の選択であったかどうかはわからない。危険なまねのような気もする。けれども、その後のことば、「あの方はあなたのなすべきことを教えてあげましょう」から、ナオミはボアズに相当の人格的信頼を置いていたことは確かである。そして、それはルツも同じであったと思われる。ゆえに、ナオミの発案を断らなかった(5節)。「私におっしゃることはみないたします」。かつて、ユダの地ベツレヘムに戻るために帰途についた時、ナオミはモアブの地に帰るようにルツを説得した。モアブの地に帰って再婚しなさいという意図があったわけである。けれども、それを頑として聞かなかった。けれども、ここでは素直な態度を見せている。ルツはボアズに単に好意を寄せていただけではなく、彼の大人で誠実な人柄に信頼を寄せていたのである。別の表現を取れば、彼の信仰者としての姿に尊敬を覚えていたと思われる。

6節以降、ルツはナオミの言いつけどおり、求婚のアプローチをとる。9節のルツのことばが心に留まる。「あなたのおおいを広げて、このはしためをおおってください」。これが求婚のことばである。「おおい」とは衣のすそのことか、寝具のすそのことか、どちらかである。興味深いのは「おおい」の直訳が「翼」であるということである。すでにこのことばをボアズ自身が使用している。「あなたがその翼の下に避け所を求めて来たイスラエルの神、主から、豊かな報いがありますように」(2章12節)。ボアズは翼の下という表現によって、ルツに対する神の保護を願ったわけだが、ボアズ自らが実践していた。モアブの女がいじめられないように、他所の畑には行かないでここにいるように告げ、若い者たちにはじゃましないようにきつく命じ、飲食の配慮をしてあげ、束からわざと穂を抜き落とすことまでさせて、たくさんの落穂を家に持って帰ることができるようにしてあげた。今、ルツは、「あなたのおおいを広げて、このはしためをおおってください」と願うことによって、単に求婚したのではなく、神の律法に従って自分と姑の保護を求めている。それは続く「あなたは買戻しの権利のある親類ですから」ということばでわかる。ルツはただ自分の幸せのことだけを考えているのではなく、ナオミの夫であるエリメレク一族全体のことを考えている。この辺りがりっぱである。

ルツのことばに、ボアズはどう応答したのだろうか。三つに分けて見ることができる。一つ目は、ルツを高く評価していることである(10節)。「先の真実」とは、ルツがナオミに仕え続け、落穂拾いをしながらでもナオミを支えようとした心ある態度のことである。「真実」を新共同訳は「真心」と訳している。新改訳2017は「誠実さ」と訳している。このことばは「親切」とも訳しうることばである。「あとからの真実」とは、単に自分の色恋で、自分と年の近い若い男のあとを追ったりせず、エリメレク族の一員という自覚の中で、ナオミとエリメレク一族のことをおもんぱかり買戻しを願った心ある態度のことである。

ボアズの応答の二つ目は、ルツの求婚を前向きに受け止めたことである。「さあ、娘さん。恐れてはいけません。あなたの望むことはみな、してあげましょう」(11節前半)。ボアズは買戻しの権利がある親類として答えているだけではなく、ひとりの男性としても答えていることは、続く、「この町の人々はみな、あなたがしっかりした女であることを知っているからです」からもわかる。ルツは2章7節で見たように働き者であった。「ここに来て、朝から今まで家で休みもせず、ずっと立ち働いています」。そして姑に対する配慮も感心だった(2章14節後半)。「余りを残しておいた」のは、もちろん、姑のためである。そして先ほど見たように、若い男たちのあとを追い回すそぶりを見せることなく、皆の前での立ち振る舞いもそつがなかっただろう。「しっかりした女」という表現は、聖書の他の箇所で二箇所あるだけである(箴言12章4節、箴言31章10節)。箴言31章10節を開いてみよう。「しっかりした妻をだれが見つけることができよう。彼女の値打ちは真珠よりもはるかに尊い」。31章11節~31節まで、しっかりした女の特徴が並べられている。読んでみよう。働き者で、家族によく仕え、他の人にも親切で、主を恐れる女性であることがわかる。ルツも結婚してこのような女性になったことは想像にかたくない。

ボアズの応答の三つ目は、神の律法に従います、ということである(12,13節)。ボアズは自分には買い戻す権利があるけれども、自分よりも近い買戻しの権利のある親類がいるから、まずその人が引き受けるか辞退するか、そこを見て、手順をきちんと踏み、主のみこころなら買い戻します、ということである。彼は「主は生きておられる」と宣言して、自分の思い、感情を制して、主なる神にゆだねる意志を表わしている。自分の感情に身をまかせない。彼も主を恐れる者で、しっかりした男と言える。男の鏡である。

14節以降は、翌朝の出来事である。13節で「朝までおやすみなさい」と言われたルツであったが、眠れたのだろうか。ボアズも眠れたのだろうか。14節を見ると、ルツは夜が明けないうちに起きあがったことがわかる。当然、ボアズも起き上がる。ボアズの親切心はここでも表わされる。ボアズはルツの外套をふろしきにして、大麦六杯を入れ、背負わせ、帰らせる(15節)。大麦六杯がどの位の量なのかは不明確だが、この大麦はナオミのことも意識したプレゼントであったことは間違いない。それは帰宅後のルツとナオミの会話からもわかる(16~18節)。17節で「あなたのしゅうとめのところに素手で帰ってはならない」というボアズのことばが紹介されている。ナオミはこのプレゼントを、単に貧しい女やもめに対する心配りと受け取らなかっただろう。大麦六杯は、求婚の背後で心を砕いたナオミの気持ちを、前向きに受け止めたしるしであったである。ナオミはそのことが分かったはずである。ナオミは一部始終をルツから聞いて、事の成り行きを見守ることにする(18節)。ナオミには相当の期待があったことは間違いない。半ば確信していたかもしれない。

この時の気持ちと、ナオミがユダの地ベツレヘムの帰途につく時の気持ちを比較してみたい。1章10~14節を改めて読んでみよう。ナオミは二人の嫁に、帰りなさい、帰りなさいと言っている。私について来たところで何にもならないと。あなたたちに夫なんか迎えてやれないからと。私たちが思い描く未来は、神さまが思い描いていることとずれていることが多い。もし、この時、ルツもオルパとともに、ナオミの言うことを聞いて去っていたら、すべては終わっていた。ルツ記をルツ記たらしめているのは、1章16節の「あなたの民は私の民、あなたの神は私の神」と告白できたルツの信仰によることはまちがいない。だが、ナオミなくしてルツはなかったことは事実である。だから、ナオミの存在意義も見過ごしにしてはならない。ルツはナオミらの言動を通して、偶像の神々とまことの神の違いを見分ける霊性を宿した。モアブで広く崇拝されていたのはケモシュという神であった。モアブ人はケモシュの民と呼ばれるほどであった。だが、ルツからは、ケモシュをはじめとするモアブの神々を拝む気持ちは消え去っていた。ナオミらが彼女にまことの神を伝え、宣教師の役割を果たしたことになる。ナオミら家族が、ききんのためモアブの地に出かけたことも意味のないことではなかった。ナオミはベツレヘムに帰る途上では、さして夢たるものはなかった。夢を生み出す状態にもなかった。一時は、何もする気が起きず、極限まで落ち込んでいたと思われる。ほとほと憔悴していた。しかし今は、夢が芽生え始めている。

さて、ルツの信仰だが、ベツレヘムに向かう途上で、ナオミというか、神にすがりついたあの一途な姿勢が、大きな節目となったことはまちがいない。ルツは旧約聖書の難解な律法のことなど、まだよくわからなかっただろう。イスラエルの神を信じればご利益がある、なんて単純な考えもなかっただろう。事実、ナオミの家族は苦難を強いられていたわけだから。ほんとうの求道者は、どの神を信じればこの地上でどんなご利益があるのか、などというところから入ってはいかない。ルツはナオミら家族から、神の教理を聞き、神の天地創造から始まるドラマを聞き、私が探し求めていたまことの神はこのお方であると確信するに至ったのだろう。ルツにとって接触する時間が一番長かったのはナオミという信仰者であった。ナオミから多くのことを教えられ、またナオミの祈りやその人格から大きな影響を受けたはずである。

ベツレヘムに到着したルツは特別な動きを見せているわけではない。ボアズがルツに特段の配慮を見せたり、ナオミがルツに求婚の知恵を授けたりと、周囲が動いてくれている。ルツは一生懸命落穂拾いをし、一生懸命姑に仕えている、それだけである。もちろん、ナオミとともに、主なる神に感謝しつつ、助けを求める祈りをささげていたであろう。とにもかくにも、このモアブの地で信仰を持った一人の娘が、貧しい異邦人のやもめが、無意識のうちにも歴史を動かす役割を果たしていく。信仰って素晴らしい。持つべきは信仰、有るべきは信仰である。

ルツの身には、ボアズが述べた、「主があなたのしたことに報いてくださいますように。また、あなたがその翼の下に避け所を求めて来たイスラエルの神、主から、豊かな報いがあるように」(2章12節)のことばが実現してく。主の翼の下、そこが信仰者の居場所である。皆様も、主の翼の下を避け所として歩まれますように。