この書の主人公のルツは異邦人である。ルツはモアブ人である。モアブ人は偶像崇拝と性的堕落で知られていた民族である。過去、イスラエル人を罪に引き込んだ歴史がある。第一コリント10章7節に、「また、私たちは、彼らの中のある人たちが姦淫したのにならって姦淫することはないようにしましょう。彼らは姦淫のゆえに一日に二万二千人死にました」とある。イスラエル人がエジプトを出て荒野を旅していた時に、モアブ人の策略にはまった。モアブの女たちと姦淫の罪を犯し、偶像の神を拝み、神罰が下ったわけである(民数記25章)。モアブ人の先祖のモアブは、ロトとロトの娘の間に生まれた、いわゆる近親相姦の罪によって生まれた男子である(創世記19章30節以下)。モアブ人はケモシュその他の神々を拝み、これらには人身御供や性的堕落がつきものであった。モアブ人の歴史は罪に染まっている。このモアブ人ルツに信仰の良い感化を与えたのは、姑のナオミであった。ナオミはユダヤのベツレヘムに住んでいたが、ききんの際、夫と二人の息子とともに、異国の地モアブに移住した。移民としての生活は多難であったはず。モアブは偶像を拝む地であったのでイスラエルとはもともと反りあわない関係にあったし、モアブは決して肥沃な地でもなかった。それでもイスラエルよりはましであったわけである。ナオミの夫はその地で命を縮めて亡くなる。息子たちはそこでモアブの女性を娶るも、息子たちも生活の多難さ故か早死にしてしまう。ナオミは異国の地で夫と二人の息子に先立たれ、悲嘆に暮れることになる。ナオミは母国で生涯を終えようと、ベツレヘムに帰郷することを決断する。ナオミは嫁たちを連れだって旅立つが、途上で、嫁たちに帰るように説得する。ベツレヘムに来ても、あなたたちに再婚の望みはない、子どもを設ける望みはない、帰りなさい、と説得した。弟嫁は帰っていくが、兄嫁のルツはナオミに従っていく。「あなたの民は私の民、あなたの神は私の神・・・」(1章16~17節)という告白をもって。ルツは、天地を造られた創造主を信じる信仰者に生まれ変わっていた。ナオミが信仰継承の働きを遂げていたわけである。ナオミは一見すると、苦労続きで不幸なやもめにしか見えないが、モアブ人にもそのようにしか見えなかっただろうが、神の視点から見るならばそうではなく、永遠の祝福の中にあり、また、神の救いの歴史において、大切な役割を担っていた重要な存在である。

ナオミたちは女二人で帰郷したが、さっそくの問題は生活の糧を得ることであった。それなりに年を重ねたやもめと、異邦人のやもめの働き口など通常はない。前回見たように、帰郷の時期は「大麦の刈り入れの始まったころ」(1章22節)、時は4月頃であった。手っ取り早いのは落穂拾いをすることであった。落穂拾いと聞いて、ミレーの絵画を思い起こす人もいるだろう。私などは農家出身なので、稲の刈り入れの後に、母親に言われて落穂拾いをしていたことを思い出す。

イスラエルにあって落穂拾いというのは、貧しい者や異国人を救済する福祉策として、レビ記の律法に定められていたものであった。「あなたがたの土地の収穫を刈り入れるときは、畑の隅々まで刈ってはならない。あなたの収穫の落穂を集めてはならない。またあなたのぶどう畑の実を取り尽くしてはならない。貧しい者と在留異国人のために、それらを残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である」(レビ19章9~10節)。これは神が命じた定めであった。だから、どこの地主も、落穂拾いを認めてはいた。しかし、中には意地悪い地主もいただろう。雇い人たちの中にも意地悪い者たちがいただろう。モアブの女ルツは落穂拾いに出かけることに決める。しかし心細かっただろう。なにせ異国のやもめ、しかもイスラエル人に快く思われていないモアブ人である。意地悪、パワハラが心配された。勇気がいたであろう。ナオミも祈りをもって送り出したであろう。いじめられませんようにと(22節参照)。そして「はからずも」の運びとなる(3節)。落穂拾いをした畑は、ナオミの夫エリメレクの親戚の畑、しかも親切なボアズの畑であったのである。ルツは計画的に親戚ボアズの畑に行ったわけではない。刈り入れをしている畑を見つけ、ここならいいいかと、とりあえずそこで落穂拾いを始めただけである。しかし、そこに神の摂理の御手が働いていたのである。皆さんも、同じように「はからずも」の経験があるかもしれない。私たちの思い、考えをはるかに越えた神の備え、導きというものがある。はからずもの恵みである。

それにしてもボアズはえらく親切だった。ボアズは5節で「これはだれの娘か」と問うているが、6節の「モアブの娘です」ということばを聞いて、差別、いじめが起きやすいことを察したであろう。彼は、自分以外の他所の畑には行かないようにアドバイスする(8節)。そして彼は周囲の者たちにルツの邪魔をしないようにきつく命じておいたようである(9節前半)。それどころか、15節を見ると、「あの女には束の間でも穂を拾い集めさせなさい」と命じている。許されていたのは、刈り入れが終わった畑の落穂拾いである。しかし、刈り取っている最中に落穂拾いをさせよ、と命じたのである。さらに16節を見ると、「あの女のために、束からわざと穂を抜き落として、拾い集めさせなさい」と若者たちに演技まで命じている。律法の命令の上を行ってしまっている。彼女が一日で拾い集めた大麦は、17節で「一エパ」とあるが、23リットルの量である。それは常識外の量である。ありえない量であったので、ナオミは19節で、「きょう、どこで落穂を拾い集めたのですか。どこで働いたのですか」と驚きを隠せず聞いている。ボアズはルツの飲み水、食べものの配慮も怠っていない。好きなだけ水を飲んでもいいように取り計らっている(9節後半)。地主のボアズ自身がルツに食事をふるまう(14節)。獲りたての大麦を鍋で炒ったのが「炒り麦」であるが、国中の大好物であったそうである。それをボアズはパンとともに十分に食べさせた。

どうしてボアズはこんなに親切なのだろうか。ボアズのしっかりとした信仰、またボアズの人徳ということだけでは片づけられない気がする。もちろん、ルツが一生懸命働く姿に心打たれたということもあるだろう(7節)。ルツが一生懸命姑に仕え、見知らぬ地にやってきたいきさつも聞いていた(11節)。こんなに頑張っているルツをぞんざいに扱うことはできないという思いがあっただろう。けれども、それだけなのだろうか。

ボアズの親切について、もう少し掘り下げて考えてみよう。ルツは10節でボアズに対して、「私が外国人であることを知りながら、どうして親切にしてくださるのですか」と聞いている。実は、ボアズのお母さんも外国人で、イスラエル人によくしてもらったいきさつがある。救い主の系図にはこうある。マタイ1章5節を開いてみよう。「サルモンに、ラハブによってボアズが生まれ、ボアズに、ルツによってオベデが生まれ」。ラハブがボアズの母親である。ラハブはヨシュア記2章に登場する。長いが、ここも開いて読んでみよう。ラハブはエリコに住んでいた。エリコに住んでいた人たちはエモリ人といって、忌み嫌うべき偶像崇拝をしていた民族である(第一列王記21章26節)。それゆえに、神は彼らを一掃されようとした。ラハブはエモリ人というだけではなく、城壁の宿屋で売春婦をしていた。それはエモリ人の堕落の象徴だった。彼女は人の情欲に付け込み、自分の体を商売の武器にして、自分の身を売って生計を立てていた。彼女はその筋で有名な女性であったと思われる。けれども、ある時、イスラエル人の偵察隊が彼女の所に訪れる。彼女は偵察隊をかくまう。彼女にはイスラエルの神を恐れる心が宿っていた。この行為のゆえに彼女はエリコが陥落する時、救出され、イスラエルの民と同化することになる。ラハブは信仰心がしっかりしているイスラエル人男性と結婚したのだろう。その二人からボアズが生まれたのである。ボアズは信仰がしっかりしていただけでなく、お母さんの影響があって、外国人女性にあわれみを持つ心が育っていたと思われる。

後半は、前回に引き続き、信仰って素晴らしいという話をさせていただきたい。ルツにもボアズにも、忌み嫌うべき偶像を拝んでいた外国人の血が入っていた。ボアズの場合は、さらに母親が売春婦である。遊女である。しかし、ボアズにはしっかりした信仰が宿っていて、神を恐れる心、神に信頼する心、神の律法に従う心がしっかりしていた。信仰が二人の未来を変えた。先ほど見たように、ルツもボアズも、救い主の家系に名を連ねることになる。信仰って素晴らしい。血筋がどうで、家系がどうで、過去がどうであるかなんて関係ない。人には言えないような人生街道を歩んで来たなどということも関係ない。ルツの場合は偶像宗教の暗やみの中を過ごし、先に見たように生活も多難であった。けれども、いわゆる救い主イエス・キリストの恩恵に与るものとなり、永遠の祝福が約束されたのである。かつての荒野の人生なんて吹き飛んでしまう御国での生活が約束されたのである。

そのことに関係する一節を見たい。「その方は私たちの近親者で、しかも買い戻しの権利のある私たちの親類のひとりです」(2章20節)。「買戻しの権利のある私たちの親類のひとり」とはボアズのことである。当時、子どももなく、やもめになってしまった場合、亡き夫の家系が途絶えないようにと、亡き夫のもっとも近い親類がそのやもめと結婚し、亡き夫の子孫を残すように定められていた。それが買戻しである。実は、欄外註にあるように、「買戻しの権利のある私たちの親類のひとり」には<ゴエル>というヘブル語が使われている。参考まで3章9節をご覧ください。「買戻しの権利のある親類」と訳されていることばは<ゴエル>一語である(欄外註参照)。実は、この<ゴエル>がルツ記のカギとなることばである。度々、登場することばである。実は<ゴエル>には贖うという概念があり、ヨブ記19章25節では、神の救い主を指し示すことばとして用いられており、「贖う方」と訳されている。「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを」。ヨブは「贖う方」<ゴエル>と言うことにより、無意識のうちにもキリストの到来を預言している。<ゴエル>は「贖い主」と訳すこともできるだろう。ルツの贖い主がボアズとなった。ボアズはしばしイエス・キリストの予型と言われる。そのように言ってしまっていいかどうかわからないが、確かに、キリストと比較することができる。ルツは異邦人で、名もないモアブ人の女性に過ぎなかったが、ボアズに結びつけられ、イスラエルの王となるダビデの祖父を出産し、王家の家系に名を連ねることになる。しかし、霊的にはさらにすぐれていることを意味している。彼女は贖われ、贖い主自身の花嫁として高められ、救い主の家系に名を連ね、とこしえまで続く天の御国の構成員とされ、霊的富と特権を享受し、とこしえまでも神の国を相続する者とされた。彼女は私たちクリスチャンの象徴である。ルツはうらやましいなんて指を加えて見ているようなクリスチャンではいけない。私たちも同じ特権に与っている。

使徒ヨハネは言う。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである」(ヨハネ1章12,13節)。当時のイスラエル人たちは、神の子どもとは私たちイスラエル人だけだと言っていた。イスラエルの血を引く者たちだけだと言っていた。けれども、どこの民族かなんて関係ない。血筋なんてどうでもいい。呪われた血筋であってもかまわない。メチャクチャな過去を送ってきたとしても大丈夫。そういったものを償って余りある祝福へと招かれている。ただ、イエス・キリストを信じるだけで神の子どもとされる。キリストを私の贖い主、罪からの救い主として受け入れることによって、ただそれだけで、未来はバラ色に変わる。土の器にすぎず、罪人に過ぎず、天の御国とは無縁であった私たちが、信ずる信仰によって、キリストの花嫁とされ、神の子の身分を与えられ、王族の一員のようにされ、第一ペテロ1章4節で言われているように「朽ちることも汚れることも、消えていくこともない資産を受け継ぐように」され、天の御国の恩恵と祝福を限りなく享受する者とされる。信仰って素晴らしい。持つべきは信仰、有るべきは信仰である。私たちがキリストを信じたことによって贖われたことを喜び、またこのキリストを、人生を大逆転させてくださる方として伝えていこう。