ヨナ書は、ヨナがアッシリヤの首都であるニネベに行って宣教する物語である。これまでの流れを簡単に復習しておきたい。1章1~2節をお開きください。イスラエルの預言者ヨナにニネベに行くように主のことばがあった。しかし、敵国の首都に行きたくはなかった。それで反対方向のタルシシュに逃れようとした。3節をご覧ください。「主の御顔を避けて」と二回言及されている。皆さんも、その人の顔を見れない、見たくない、ということがあるだろう。交わりの拒否である。実は、「主の御顔を避けて」という表現は、アダムとエバに適用されている。「それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した」(創世記3章8節)。ヨナも神との交わりを拒否し、逃避行の旅に出た。神さまは反対方向のタルシシュ行きの船に乗ったヨナをそのままほおっておかれなかった。大風を起こして難船の危機に追い込み、結果、その原因をつくったヨナを海に投げ込むようにされる。「おぼれる者はわらをもつかむ」ということわざがあるが、神さまは、ヨナがご自身に助けを叫び求めざるをえない状況に追い込まれる。「主の御顔を避けて」という状況の継続を許されなかった。神さまが海底でヨナのために用意されたのが大魚。彼は三日三晩、この魚の腹の中で過ごす。そこは孤独で外界と遮断された環境であったので、神との交わりを回復するためには絶好の場所となった。神によっていのちを救われたヨナは、心低くされ、魚の腹の中で、神に感謝をささげ、神に従う備えができた。

2章10節をご覧ください。ヨナは神のお取扱いによってパレスチナ沿岸に連れ戻されたようである。その時、再びヨナに主のことばがあった。3章1~3節を読もう。ヨナが吐き出された地点からニネベの町まで約1300キロの距離があったが、「主のことばのとおり」とあるように、素直に従った。主のことばに背くヨナの姿は消えていた。約1300キロをどのようにして旅したのかは記されていないが、大切なのは、「主のことばのとおりに、立ってニネベに行った」という従順である。

ここから、今日の本題に入る。ヨナ書3章には一つの町が徹底して悔い改めたことが記されている。リバイバル(霊的覚醒)の歴史を調べると、共通することは深い悔い改めが必ず伴うということ。ヨナの宣教によってニネベの町は徹底して悔い改めることになる。三つのポイントで見ていこう。

①    滅びを宣告するヨナ(4節)

ヨナのメッセージは単純であった。「もう40日するとニネベは滅ぼされる」。ヨナはただこのことばを繰り返しただけではなく、何か説明を付け加えたかもしれない。しかし多くは語らなかっただろう。彼のメッセージの内容は、滅びの宣告であり、罪の指摘。前にお話したように、アッシリヤは残虐な国として有名だった。同時代の預言者アモスによって「彼らは正しいことを行うことを知らない。彼らは自分たちの宮殿で、暴虐と暴行を重ねている」と非難されている(3:10)。考古学によっては、彼らは7つの神を拝んでいたことが判明しているが、その中でも女神アシュタロテが有名。この女神はギリシャではアフロディト、ローマではヴィーナスとなった。性道徳の乱れを引き起こした女神として知られている。この町にヨナは乗り込んだ。そして、はっきりと罪と滅びを宣告した。

以前、大地震が起きる可能性が大と言われるカリフォルニアでのインタビュー番組を見た。カリフォルニアはいつマグネチュード6~8クラスの地震が起きても不思議ではないと言われている。その地震の断層の真上に、良い事ばかりうたって住宅を建設している業者にニュース記者がインタビューした。その業者は何を言われても、安全だとしか言わなかった。しかも入居した人に対して、断層の真上に建物があることを知らせない。しかも安全だとしか言わない。また、地震が起きたら被害が最も大きいだろうと予想される地域の市町に、やはりニュース記者がインタビューした。「大地震が起きたらこの地域は被害が大きいと言われているのに、なぜ警告を与えないのか。事実を伝えないのか」。「地震は起きません。うそです。地震があるなんて信じません」。「しかし起きるのは周知の事実です」。そこで本音が・・・「大地震が起きるのは本当だとしても私は伝えません。もし伝えたら住民は減るし、混乱が起きるだけ」。

私たちキリスト者も真実を伝える責任を担っていることを覚えたい。人の罪を指摘しなければならない。また、その結果が永遠の滅びであることも伝えなければならない。それは、ちょうど患者が死から救われ、いやされることを願って、医者が病気を宣告するのと同じである。もし医者が重病患者に対して、風邪程度だと偽るなら、それは真実ではない。預言者エレミヤは、こうした偽りを見抜き、こう言っている。「彼らは、わたしの民の傷を手軽にいやし、平安がないのに、『平安だ、平安だ』と言っている」(エレミヤ6章14節参照)。私たちは恵みの安売りはいけないだろう。確かな罪の自覚と悔い改めを持っていただくことが、福音を福音たらしめることである。

②    悔い改める王と住民(5~9節)

ここに罪の自覚が与えられ、徹底して悔い改めた姿を見る。ニネベの町のリバイバルである。王様自ら徹底して悔い改めた。6節を見てみよう。ニネベの王の悔い改めには四つの段階を見ることができる。第一、神のことばに対して聞く耳をもった。「このことが王の耳に入ると」。第二、王座から立ち上がった。それは自分が思い続けてきたところから離れる決心。意志の転換である。第三、王服を脱いだ。これは自分のプライドを脱ぎ捨てるということではないか。第四、荒布をまとい、灰の中に座った。「荒布」は罪の自覚(認罪)のシンボル、また悲しみのシンボルである。「あなたがたは、苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます」(ヤコブ4章8~9節)。「灰の中に」というのは悔い改めを表わしている。王は悔い改め、そして民たちにも悔い改めを呼びかけた(7~9節)。徹底した悔い改めの呼びかけであるというのが、獣も牛も羊にも断食を呼びかけ、家畜にも荒布をまとわせようとしていることからわかる。9節の「もしかすると、神が思い直してあわれみ」の「もしかすると」ということばに注目してほしい。これは、「私たちは当然滅びなければならない者だ。私はそれを知っている。でも悔い改めるならば、もしかすると、こんな私でも赦してもらえるかもしえない」というへりくだりと神のあわれみにすがる思いが表されている。「神ならオレを救ってみろ」ではない。「こんな私でも悔い改めるなら、もしかすると赦してもらえるかもしれない」である。

リバイバルには二つのビジョンが伴う。一つは罪のビジョン。深い認罪に導かれるということである。自分の罪にはっきりと目が開かれるということである。聖霊の働きである。もう一つは神の聖さのビジョン。預言者イザヤはイザヤ書6章を見ると、聖なる神の御座に引き上げられ、「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ」という叫び声を聞いた時、神の聖さに触れ、「ああ、わたしはもうだめだ」と滅びを自覚したことが記されている。リバイバルの記録には同じようなことが記されている。アメリカでの例を幾つか挙げよう。19世紀半ばに活躍した方にチャールズ・フィニーがいる。チャールズ・フィニーのところに一人の老人が来て、近くの学校で説教してほしと依頼があった。彼は会場に入り、聴衆が不敬虔であることを指摘し強調し始めた。たちまち彼らは認罪によって心打たれ、一人一人ひざまづいたり、あるいは床の上に伏してあわれみを求めて叫んだ。しばらく彼らは倒れ伏したままで、あちらこちらで苦悶の声が上がり、説教を中断しなければならなかったと言われている。皆が罪に悶え苦しんだのである。18世紀のこと、ジョナサン・エドワーズが「怒れる神の御手にある罪人」という題で説教した。その時に起こった出来事は有名な逸話として残っている。人々は認罪に導かれ、神の裁きを思い、床に伏して、苦悶の声を上げた。教会の長老たちは教会の柱にしがみつき、「主よ。私たちをお救いください。私たちは地獄に落ちてしまいます」と叫んだとも伝えられている。神が聖さと威厳に満ちて臨在されたのである。それで、神の裁きの恐ろしさを意識して悶え苦しんだのである。ジョナサン・エドワーズの友で、インディアン伝道に携わったデビッド・ブレイナードがいる。彼が語り出すと、インディアンたちが罪の意識に打たれ、めいめい自分の罪に泣き叫んだ。自分はたいへんな罪人だ、自分の罪は赦されないのではないかと。ある者たちは弱って、地面に横にならざるをえない者たちもいた。すべての人が、あたかも誰にも見られない暗い森に一人でいるかのように泣き崩れたと言われている。

私たちは聖なる神を意識させられ、自分の罪を意識させられる時、その重大さを思い、また、これが赦されるためにどうしたらいいかと苦悶する。その罪は拭いきれないし、どんなに償っても償いきれない。一つ一つの罪の事実は実体として残る。その罪を一生負って生きていかなければならない。やがて神の裁きに遭遇することになる。どうしたらいいのか。もはや、私たちは神にあわれんでもらうほかはない。私たちはキリストがゴルゴダの丘の上で十字架につき、私たちの身代わりに神の御怒りと罪の裁きを受けてくださったことを教えられている。この十字架にすがるほか救いはない。多少の罪滅ぼしの行いなど、何の助けにもならない。ただ救いは十字架にある。そこで、すべての罪が精算される。

たましいの救い、リバイバルには聖徒たちの祈りが欠かせない。リバイバルと言えば必ず引き合いに出されるのが、1904年に起こったイギリスのウェールズのリバイバルである。26歳の青年エヴァン・ロバーツが用いられ、教会で青年たちを集めて説教していた時に、青年たちが悔い改めと回心に導かれリバイバルが起き、ウェールズの10万人が救われたと言われている。しかし、これは自動的に起きたことではない。ロバーツ自身、十代の頃から10~11年間、聖霊が下ってリバイバルが起きるように祈り続けてきた。彼がある朝の集会に出席した時のこと、説教者が「主が私たちを低くしてくださるように」と嘆願した。ロバーツはそれが神の求めだと受け取った。そして、彼は涙を流しながら、「おお、主よ!私を低くしてください!私を低くしてください!」と叫び続けた。それがリバイバルの発端となったのである。「私が低くされた後、平安の波が押し寄せてきた。会衆が歌っている間に、私は罪人たちが審判の時に砕かれることを思い巡らした。そしてその日、御前にて砕かれる人々のことを思い、同情を禁じ得ず泣いてしまった。それ以来、救霊ということが私の重荷となった」。リバイバルという霊的覚醒は、へりくだった一人の聖徒から始まっている。リバイバルの歴史を見るときに、名もなき一人の信徒の祈りから始まったこともしばしばである。

チャールズ・フィニーはこう伝えている。「長年の間、ある町に全くリバイバルが起こらなかった。その教会はほとんど火の消えたような状態で、青年たちは皆不信仰であり、霊的荒廃は長い間、その町を覆っていた。その町はずれに鍛冶屋を生業とする老人がいた。彼はひどいどもりでその話を聞くにはずいぶん骨が折れた。ある金曜日、彼が一人で仕事場で働いていると、彼はどうした事か教会の状態や悔い改めない人々の事が気になってどうにもならなかった。心の苦痛があまりにも激しくなったので、彼は仕事を止め、店を閉めて、その午後を祈りに費やしたのであった。・・・彼は勝利を得た。そして土曜日に牧師を訪ね、特別集会を開くよう要求した。それを聞いた牧師はしばらくためらったが同意した。彼はその夜、大きな自宅で集会を開くように定めた。さて夜が来ると収容しきれないほどの人々がその家に集まってきた。しばらくの間は誰もかれもが静かにしていたが、ついに一人の罪人が堰を切ったように涙を流して、誰か自分のために祈ってくれるように懇願した。続いて一人、また一人、さらに一人というふうに、ついには町のあらゆる隅々から来た人々が深い認罪の下に押しつぶされたのである。驚くべきことは、彼らが各々の罪を自覚した日時は、この老人が仕事場で祈っていた時刻と同じであったということである。これに続いてリバイバルが起こった。このようにして、このどもりの老人は、かのヤコブのごとく神と争って勝ちを得たのである」。私たちも、神の御手の下にへりくだって、たましいの救いのために祈っていこう。

③    思い直される神(9,10節)

9節に神が「思い直して」とある。罪を悔い改めるならば、神は裁きを思い直してくださる。「思い直す」の原語は、以外にも10節また8節で「立ち返る」と訳されている原語と同じである。そこでは人に用いられている。新改訳第二版は、8節の「立ち返る」が「悔い改める」と訳されている。「思い直す」ということばは、人間に対して使用される場合は「立ち返る」「悔い改める」という訳になる。しかし、神の場合は悔い改める罪はない。よって神が「悔い改める」という表現はおかしいので、神に対しては「思い直して」が適訳となる。知っていただきたいことは、人間の側で罪の悔い改めというかたちで心の転換をはかるならば、神の側でも心の転換をして、裁きを思い直してくださるということである。神さまは私たちの悔い改めを待っている。そして裁きを思い直してくださる。もし、神さまが思い直してくださらなかったならば、私たち人間には滅びが待ち受けているのみである。けれども、私たちが悔い改めるならば、神は思い直してくださる。

「思い直す」という表現は10節にもある。「神は彼らに下すと言っておられたわざわいを<思い直し>、そうされなかった」。この10節での「思い直す」は9節の「思い直す」と原語が違う。こちらは「あわれむ」「慰める」という意味のことばである。思い直す面の積極的意味が強調されていることばである。他でこの原語が使用されている箇所を一箇所開こう。「『<慰めよ。><慰めよ。>わたしの民を』とあなたがたの神は仰せられる。『エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主の手から受けたと。』」(イザヤ書40章1,2節)。神は裁きを思い直し、慰めてくださるお方。その慰めはことばだけに終わらず、具体的なかたちとなる。「そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主の手から受けたと」。倍返しの表現であるが、私たちの救いに関して言えば、それ以上と言っていいだろう。神は私たちを滅びの穴から救ってくださり、罪に汚れた衣に替えて義の衣をまとわせてくださる。あの放蕩息子の父親のように大歓迎して祝ってくださり、分不相応の慰めを与えてくださる。それは御国で完全に実現する。永遠の御国での慰めは、この地上での罪の呪いをすべて払拭してくれる。この慰めをいただくために、罪の自覚と悔い改め、すなわち自分の罪を悲しむことが先行する。キリストは言われた。「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから」(マタイ5章4節)。私たちはこの神からの慰めを、家族に、町の人々にと願うだろう。ならば、私たちは家族と自分が置かれた町の人々の救いを祈り続けよう。また自分が証し人としてさらにふさわしい器に造りかえられるように心低くし祈ろう。私たちは、家族に、町の人々に御国の福音を伝える責任が与えられている。滅びゆくたましいのために、彼らが神に立ち返り、神の慰めを受けることができるように、切に祈り求めていこう。