ヨナ書は悪名高き町ニネベに宣教を命じられたヨナの物語である。今日が最終章だが、神はすべての人を惜しまないではいられないお方であることを学び取りたいと思う。神は、私たちの周りにいる一人一人のことも、私たちがお会いしたこともない一人一人のことも、遠い国の人々のことも、皆惜しんで救われてほしいと願っておられる。神は紀元前8世紀頃、イスラエルの敵国であるアッシリヤの首都、悪名高き町ニネベの人々を惜しんで、預言者ヨナを宣教に遣わされた。私たちも遣わされた者たちである。主キリストは祈られた。「あなたがわたしを世に遣わしたように、わたしも彼らを世に遣わしました」(ヨハネ17章18節)。私たちはこの世に、この地域に、それぞれの家庭に遣われた者たちである。

ヨナは、最初、快く神の命令に従ったかというと、そうではなかった。しぶしぶ従ったかというと、それもなかった。主の御顔を避けて、ニネベと反対方向のタルシシュへと逃亡を計った(1章1~3節)。その手段は船。しかし、神はこれをお許しにならなかった。海上に大風を吹きつけ、責任を回避しようとしているヨナに罪の自覚を与えようとされた。船は難破寸前となり、人命は危険にさらされることに。ヨナは自分のせいだから海に投げ込めばいいと告げたが、船員たちは船を陸に戻そうと漕ぎ続け、精一杯の人間的努力をする。しかしその努力も無駄に終わり、船員たちは最後の手段として、大風を引き起こした張本人のヨナを海に投げ込み、解決を図ろうとする。ヨナは神のことばに背いた罰だと感じながら海底に沈んでいっただろう。しかし、海中でもがき苦しみながら、主の御顔を求めることになる。神は大魚を備え、ヨナを飲み込ませる。ヨナは大魚の腹の中で神との交わりを回復し、神のことばに従う備えができた。2章10節を見ると「主は、魚に命じ、ヨナを陸地に吐き出させた」とある。

こうしてヨナは3章に入ると、ニネベの町中を行き巡り、「あなたがたのひどい悪のゆえに、神の裁きが下るぞ」と宣教して回った。王様をはじめ住民たちは、神の前にへりくだり、自らの罪を自覚し、悔い改めに導かれた。ニネベの町のリバイバルである。神は彼らに下そうと思っていたわざわいを思い直されたのである(3章10節)。

さて、これでめでたし、めでたしと思いきや、続きがあった。ヨナがへそを曲げてしまったのである。それが今日の4章である。4章のヨナの態度を見て、私たちは簡単に裁きそうになるが、ヨナも当時の預言者のアモスと並んで、高名な信仰者であったことは覚えておかなければならない。そのヨナでもこうなってしまった。神さまがわざわいを思い直された人々というのは、当時にあって本当に悪名高き町の人々であったし、イスラエルを滅ぼそうと狙っていた人々。神さまはヨナがへそを曲げる感情も理解している。だから、頭ごなしにヨナを叱りつけ、裁くことはされないで、「ヨナよ、わかってくれ」となだめ、諭している。では、三つのポイントで見て行こう。

 

①    ニネベの人々を惜しまないヨナ

神はニネベの人々が悔い改めたことを喜んだが、ヨナはそうではなかった。ヨナは神とともに少しも喜んでいない。その反対に、不機嫌、不愉快になって怒っている。みことばに「かえって、あなたがたに忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです」(Ⅱペテロ3章9節)とあるが、ここに、神の心とヨナの心に距離を覚える。神の願いは「ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むこと」である。この場合、ヨナは、まるでルカ15章の「放蕩息子のたとえ」のお兄さんのよう。旅に出て、父親から分けてもらった財産を使い果してしまった放蕩息子は、罪をはっきり自覚し、悔い改めて、雇人の一人にでもしてもらえばいいと、父親のもとに帰ってきた。父親は胸を熱くして大喜びで迎え入れ、パーティを始めた。それを見ていたお兄さんのほうはプンプン怒ってしまった。「すると、兄はおこって、家に入ろうともしなかった。それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた」(ルカ15章28節)。ヨナの態度とそっくりに見える。父親はなんとかなだめようとしたが、それもヨナに対する神の態度と似ている。お兄さんのほうは思っただろう。「なあんで、あそこまであわれんでやる必要があるんだ。どなりつけて冷遇しても当然じゃないか」。ヨナは同じような精神で、怒りの祈りを神にぶつけている(1~2節)。3節でヨナは「主よ。今、どうぞ、私のいのちを取ってください。私は生きているより死んだほうがましですから」と口に出しているが、でも本当に死にたいわけではない。ヨナはすねている。

4節で主は言われる。「あなたは当然のことのように怒るのか」。人間は勝手で、神さまは厳しすぎると怒ったり、あわれみ深すぎると怒ったり。人はおおよそ、自分に対してはあわれみ深さを求め、自分と利害の一致しない他人には厳しさを求める。人は、神という存在は自分に対しては情け深くあわれみ深くあってほしいと願う。けれども、憎々しい人たちに対してはそれを望まない。ヨナは神がニネベの人々にあわれみを与えられることはある程度想定していたと思うが、神がすんなり赦してしまうのには納得いかなかっただろうし、最低、一部分の邪悪な人たちのことは罰してほしいと願っていたのではないだろうか。ヨナの本音は、敵は裁かれ滅んでほしい、である。神の願いは「ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むこと」であることを忘れないようにしたい。

不愉快になったヨナは、町の外に出てしまって、ニネベで何が起きるのか、見ようとした(5節)。彼は本来ならば町の中にとどまって、彼らの助けになっているべきだったろう。しかし彼はニネベの町の外に出て、ニネベと距離を置いた。私たちは周囲の人々に対して、実際的には距離を置かなくても、心理的な距離を置いてしまうことがある。心においてその人たちを遠ざけてしまう。上から目線で愚かな人たちと裁いてしまう。私たちは神の人間観というものを、みことばを通して繰り返し繰り返し教えられなければならないと思う。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは、御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハネ3章16節)。神は私たちの周囲の人々、一人一人を、十字架の愛をもって愛しておられる。神はキリストを身代わりの犠牲とし、人間に対する罪の裁きを十字架の上で妥協なく執行されることにより、私たちへの裁きを免除しようとされた。この犠牲的愛はすべての人の上にある。

以前「バッドマン」という映画を観た。警察から政治家まで腐りきった、ある邪悪な町を巡っての物語である。さて、この町をどうしたら良いか。この邪悪な町を滅ぼすことが正義だとする、あるグループが動き出す。悪に染まった町中の人を殺戮してしまおうと策略が練られ、実行に移される。けれども、その町を愛する一人の男性は、そうした正義をかざした殺戮には断固反対する。町中の人を救おうと、変装して、体を張って、命をかけて、戦う。暗躍する悪人共を武器で殺してしまうという手っ取り早い方法を選択するのではなくて、法による裁きを大前提として戦おうとする。銃は握らない。町を救おうと頑張っているのに、警察からもお尋ね者になってしまう。町中の人に悪人呼ばわりされてしまう。割の合わない、犠牲の大きい戦いが続く。精神も肉体もボロボロになるのだけれども、なお命をかけて町の人々を救おうとする。やがてそれは報われ、町には平和が訪れるというもの。邪悪な町は滅べばいい、という冷淡さへの警告を感じる映画だったし、犠牲を払って町の住民を愛することの尊さも考えさせられた。

もう一つ、映画の話になるが、かなり昔、「バラバ」という古い映画を観た。キリストの処刑と引き換えに釈放された極悪人バラバが、長い年月を経て救われるという物語である。もちろん、フィクションであるが。映画の中で使徒ペテロがバラバと会話する場面がある。ペテロがバラバを諭すように、こんなことを言う。「神にとって、一人一人が全世界なのだ」。神が一人一人の人間をどれほど尊んでおられるか、愛しておられるかを考えさせられるセリフだった。

さて、ニネベの人々を惜しむ気持ちのなさそうなヨナに対して、神は実物教育を始める。

②    ニネベの人々を惜しまれる神

神は「一本のとうごま」を備え、ヨナの不機嫌を直そうとされた(6節)。このとうごまは「蓖麻子油」の原料となるものだが、とうごまの生い茂った葉は中近東の暑さをしのぐ、かっこうのものとなったであろう。

このヨナ書には神の備えが色々続く。続いての神の備えは「一匹の虫」である(7節)。神が虫をも備えるというのは誇張でもなんでもない。この者は20代前半、実家の福島の自室で、夜のこと、長男だけれどもこの家を出て牧師となる生涯を選んでもいいものだろうかと、祈っていた。すると、窓の隙間から一匹の蛾が侵入してきて、この者の祈りを中断させた。この蛾を捕まえるために、机の上から一枚の紙を取り上げた。それは一枚のキリスト教の機関紙であったが、そこに書いてあったみことばが目と心に飛び込んできた。「あなたは父の家を出て、わたしが示す地に行きなさい」(創世記12章1節)。これが決定的な召命のみことばとなった。一匹の虫でも神の支配のもとにある。さて、この一匹の虫によって、とうごまは一夜のうちに枯れてしまった。

神は今度は「焼けつくような東風」を備えられた(8節)。パレスチナ方面の熱風は相当熱いと聞いている。ヨナは照りつける太陽と熱風によって衰弱し、とうごまのことで怒り始める。彼は自分の思い通りにいかなくて泣き怒る幼児のよう。突然の境遇の変化や思わぬ事態は、自分の本当の姿を知らされる時。ヨナは海に投げ込まれ溺れずに済んだ時は感謝をささげたものの、その前後はむくれっぱなし。ヨナは今、自分に関する小さなことでイライラ、ムカムカしている。自分の喜びとなった一本のとうごまが枯れたことで感情を乱している。「どうして、このとうごまを~!怒るのは当然でしょ!」(9節)ところが彼は12万以上のニネベの人々に対しては極めて冷淡で惜しむ気持ちがほとんどない。滅んで当然と思っている。

この実物教育を通して、ヨナが惜しむものと、神が惜しむものとの相違がはっきりした。ヨナが惜しんでいるのは一夜で生え一夜で滅びた植物。虫によって枯れ、東風によってカラカラにひからびた一本の草。それに対して神が惜しまずにおれないのは、12万以上のたましい(10~11節)。私たちはこの記事を通し、自分が惜しむものと神が惜しむものとの相違を考えさせられるのではないだろうか。自分が惜しむものはたいてい自分中心的な動機に基づいている。それが自分に関係あるかどうか、自分を喜ばせてくれるかどうかで、惜しむ惜しまないが決まる。自分のことを考えてみると、食べそこなったご馳走、こわれてしまった時計、落とした財布、汚してしまった衣服、ぶつけた車、いくらでも出てくる。それは惜しんではいけないということではないが、それ以上に惜しむべきものがあるということである。ある男性は自分の家が火事になった時、一旦外に出たが、大事な書類が家の中にあるのを思い出して、それを惜しんで、また取りに入った。そのまま戻って来なかった。書類を惜しんで命を落としてしまった。キリストはどうだろうか。罪の炎の中にいる人間を惜しみ、救おうとされて、この世に飛び込み、ご自身のいのちを犠牲にして、尊い血を流してくださった。

私たちの周囲にいる人々は必ずしも好ましい人ばかりではないだろうし、むしろ不快な気持ちを与える人かもしれない。ヨナにとってニネベの人々は確かに好ましくない人々だっただろう。しかし神にとっては価値のあるたましい。ヨナが枯れてしまったとうごまを惜しむ以上に、神はニネベの人々を惜しむ気持ちでおられた。新約時代に生きる私たちは、特に、一人一人の人間に、御子イエス・キリストの値段が付けられていることを知っておきたい。

ヨナは「まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか」という神のことばにどう応答したかは、なぜか、何も書いてはいない。沈黙し、怒ったままであったのか。それとも何かを語ったのか。何も書いていない。ただ、何が当然で何が当然でないのか、私たちは何を惜しむべきなのか、重大な問いを私たちの心に残す手法で物語は閉じている。このみことばを今の自分の境遇に当てはめ、私たち一人一人が心に受けとめたいものである。私たちはただ単に人々をかたくなな者たちと見ているだけではいけない。惜しまれている人々と見なければならない。

③    神に惜しまれるヨナ

ヨナは船から海に投げ込まれた時、そのままでは死んでしまったわけだが、神に惜しまれて救われた。ヨナは神の奇跡的な備えである大魚によって今がある。惜しまれているヨナと言える。私たちはどうだろうか。キリストは滅びに向かっている私たちを救おうとして命を投げ出してくださった。そして私たちは「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです」というキリストの復活のいのちに与った。「惜しまれている私たち」である。惜しまれている私たちは、神の恵みと愛とあわれみとを覚え、周囲の惜しまれている人々のために、祈り、罪の赦しと永遠のいのちを与える福音を伝えなければならない。

神はニネベの人々に対して、11節後半において「そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人々と、数多くの家畜とがいるではないか」と言われたことに対して、一つのみことばを思い出す。「また、群衆を見て、羊飼いのいない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた」(マタイ9章36節)。私たちはヨナに欠けがあっても彼を尊敬しなければならないが、私たちが町の人々を見るまなざしは、ヨナのそれではなく、キリストのまなざしを選択しなければならない。その向こうには惜しまれている人々がいる。私たちは、その人たちがキリストという羊飼いのもとでいのちと安らぎを得ることを願い、今年も主に仕え、福音を伝えていきたい。