今日は、ダビデの計算違いの物語である。ダビデはサウル王の追っ手から逃れるために、逃亡生活を続けていた。逃亡生活の中で、これまで親友ヨナタンの助けがあった。妻ミカルの助けがあった。預言者サムエルのもとで救いを得た。20章では再びヨナタンの助けが記されていた。しかし、もう彼らのもとに身を寄せるわけにはいかない。これからどこへ行けばいいのか。何をすればいいのか。逃亡に疲れていく中で、ダビデは「偽り」という要素を生活の中に混ぜ入れて、自己救済を図ろうとする。また一か八かの掛けに出て失敗する。それが今日の物語である。ダビデはこうした失敗を通して、主に信頼することを学んでいく。

ダビデが次の避難所にしようとしたのは祭司アヒメレクのところである(1節前半)。「ノブ」はエルサレムの北東わずか行ったところにある町である。ダビデにとってアヒメレクは信頼できる存在だった。22章15節にはアヒメレクのことばとして、「私が彼のために神に伺うのは今日に始まったことでしょうか」とあるが、彼はダビデのために神のみこころを伺う役目を担っていた。ダビデが彼のところに向かうのは自然である。アヒメレクはダビデを見て、何かおかしいと気づく。供の者がいない。それで「なぜ、お一人で、だれもお供がいないのですか」(1節後半)と質問する。ダビデは答える(2節)。「これは国のトップシークレットで、王の大事な政策上のことなのだ。若い者たちとはあとで、別の場所で落ち合うのだ」と。こうしてダビデは真実を話さないで、アヒメレクの質問をかわしてしまう。アヒメレクはこの答えで納得したかどうかはわからない。王の秘密の命令と言っても、ダビデは食料も武器も持っていない(3,8節)。

それにしても、なぜダビデは真実を話さなかったのだろうか。「私は王にいのちを狙われていて逃亡しているのだ」と。ダビデが真実を話さなかった理由は、よく解釈すれば、アヒメレクにいのちの危険が及ばないためであったかもしれない。もしアヒメレクがダビデの逃亡の事実を知って手助けをしたとなれば、まちがいなくアヒメレクのいのちはない。アヒメレクには逃亡の事実は伝えられない。アヒレクの認識は、サウル王の使いとしてのダビデを助けたということである。しかし結果はどうなっただろうか。アヒメレクは後日、処刑となる。アヒメレクどころか彼の一族、祭司たち、ノブの住民までもが殺害されてしまう結果となる(22章18,19節)。ダビデの見通しは甘かったと言えるだろう。サウルは予想以上に残虐であった。祭司たちに手を下すなどというのは前代未聞の悪事である。こうしたことが起きるのは想定外であったのではないだろうか。

7節では、サウルのしもべドエグについて言われている。彼が近くにいた。不気味な存在である。ダビデもそれはわかっていた(22章22節)。しかし、まさかアヒメレクに手出しはしないと思っていたのではないだろうか。アヒメレクに危害が及ばないだろうという予想は外れることになる。残念で残忍な結果となる。このような結果を引き起こした責任はダビデにもある。だが神はダビデにあわれみを見せている。それはダビデに日用の糧を備えてくださったということである。アヒメレクはダビデに対して、普段は祭司しか食べることが許されていない特別なパンを与える(6節)(レビ24章5~9節参照)。ここで覚えておきたいことは、主がアヒメレクを通して、ダビデに日々の糧を備えてくださったということである。ダビデが空腹だったことは疑い得ない。主はダビデが荒野で力尽きて、骨と皮だけになって死ぬのを許さなかった。また、丸腰であったダビデだが、ゴリヤテの剣の帯刀を許されることになる(8,9節)。

ダビデはこの後、どこに逃げただろうか。もはや、サムエルのところにも、ヨナタンのところにも身を寄せることはできない。アヒメレクのところにも居ることはできない。サウルのしもべドエグがサウルに報告するのは目に見えている。では、どうしたらいいのか。消去法で考えていったときに、今、自分が行動できる範囲で安全な場所は思い浮かんで来なかった。だが捕まってもいられない。ダビデはダビデなりに、安全な場所はどこかと考えた。そしてとうとう、イスラエルの宿敵であるペリシテの地に逃げ込むという選択をしてしまう。「ダビデはその日、ただちにサウルから逃れ、ガデの王アキシュのところに来た」(10節)。敵国に逃げ込むというのは、精神的にかなり追い詰められていた状況ということである。ダビデは、敵国ならば追っ手は来ないと判断したのだろう。そこにはイスラエル人もいないから通報する者もいないだろうと。

さて、この選択は何を招くだろうか。「ガテ」はペリシテの代表戦士ゴリヤテの出身地である(17章4節)。また、かつてペリシテ人との戦いで神の箱が奪われた時、一時的に神の箱がこの町に置かれた(5章9,10節)。ダビデはなんと曰く付きのガテに逃げ込んだ。ガテの正確な場所はわかっていないが、ダビデはペリシテの地の中でも、なぜここを選んだのだろうか。距離的なこともあったと思うが、割と自分を受け入れてくれる町と判断したことはまちがいない。ダビデは、自分の名を明かしたのだろうか。洞穴に身を潜めるのではなく、王のところに行ったのだから、自分の身を隠し通せるはずもなく、「自分はダビデです」と名乗ったのではないだろうか。ダビデは、アキシュ王は自分がサウル王に解雇された身だと知っているだろうから、受け入れてくれると思ったのではないだろうか。ところがこの計算は外れてしまう。注目していただきたいのは、アキシュ王の家来たちが、ダビデについて言ったことばである。「この人は、かの地の王ダビデではありませんか」(11節)。「かの地の王」と、イスラエルの王扱いにされている。ダビデは昔の武家社会で言えば、破門された浪人であるとか、出奔して敵国に逃げ込んだ家臣にすぎない。そういう者を他国の主君が召し抱えることもあったわけである。けれどもダビデは一国の大名扱い、主君扱いである。敵国の殿様扱いである。飛んで火にいる夏の虫とされてしまう。ダビデはあせったわけである。これでは受け入れられてもらえるどころか殺される!彼は一気に恐怖に襲われただろう。身の氷るような恐怖が全身を駆け抜けたはずである。

ダビデは捕らえられ、監禁されるが、その前後にとった策は、きちがいを装うということ、狂人を演じるということであった。「偽りを言う」の次は、「ばかばかしい演技」である。もちろん、本人にとってはなりふり構わずの必死の演技であったわけだが。「ダビデは彼らの前でおかしくなったかのようにふるまい、捕らえられて気が変になったふりをした。彼は門の扉に傷をつけたり、ひげによだれを垂らしたりした」(13節)。演技であるとはバレなかったようである。迫真の演技である。そこにはかつてのゴリヤテを倒した時のような凛々しい姿、勇士の姿はない。卑しい獣のような姿である。まるで別人である。恥の姿である。どうやら彼は、ペリシテ人の手から解放されたようである。

ダビデはこの愚かな行為を通して何を学んだのだろうか。俺の演技も捨てたもんじゃない、で終わっただろうか。いや、そうではない。詩篇34篇を開こう。表題ではアキシュが「アビメレク」となっているが、こちらは王の称号であろう。彼は自分の愚かしい行為の最中に、主に助けを叫んでいた(4,6節)。彼は自分の愚かな行為を持ち上げているのではない。自分の愚かさの中で主にすがり、主の助けを体験したゆえに、主の救いに感謝し、主を賛美する(1~3節)。主を恐れるという表現も繰り返される。彼は今回の体験を通して、反省を踏まえて詩を書き、主を恐れるように、主の前を正しく歩むように、主は正しい者を救ってくださるのだと訴える。

私たちは今日の物語から何を学べるだろうか。仕事上のプレッシャー、環境のプレッシャー、四面楚歌でどうにもならない。そうした中で強度のストレスがかかり、あせって、主にロクに相談もせずに行動に移す。計算違いが生まれてしまい、人に迷惑をかけたり、自分の首を絞めるような羽目になって慌てふためく。そうした中で、主に叫ぶことになり、あわれみを体験し、生活の糧をいただいたり、窮地から救い出されるという助けをいただく。ダビデが実際そうであったわけだが、ダビデはこれらのことを通し、主が自分にとってより大きな現実となり、主を恐れ、主に拠り頼む信仰が成長しただろう。また主を賛美する精神が増し加わったであろう。私たちもそのような過程の中に置かれているのだ。ただし、主のみこころと関係ないことをしておきながら、どうせ主は助けてくださるといった、主を試みる姿勢はいけない。

また私たちは今日の物語を教訓として、行き詰まりを覚えたとき、安易に判断しないで、またやけっぱちの行動に出たりしないで、落ち着いて主に祈りつつ主とともに考え、主が備えてくださる脱出の道に足を向けなければならないということを教えられる。パウロのことばを聞いて終わろう。「あなたがたの経験した試練はみな、人の知らないようなものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます」(第一コリント10章13節)。主は真実な方だから、死の陰の谷であっても必ず通り抜ける道を備えてくださる。そのことを信じて、今、自分が置かれている状況の中で、主が備えてくださる小道を見い出そう。