「摂理」ということばは、万物の創造者である神が、主権をもって全被造物を支配し、ご自身の目的達成のために導きかつ用いられることを指す。神の主権的な支配は当然ながら私たちの生涯にも及ぶ。神の摂理を信じる者にとって偶然ということばは無くなる。一つ一つの事柄に神の摂理の御手、導きというものを見ていくようになる。それを摂理信仰と呼んだりもする。

さて、ダビデは逃亡生活を続けていた。逃亡生活という苦境の中で信仰の学習を積み重ねていく。前回の後半の記事だが、ダビデはサウル王に追い詰められて、愚かな選択に走った(21章10節)。彼はかつて自分が勝利を治めたイスラエルの敵国ペリシテの地に逃げ込んでしまった。ここまでは追って来ないだろうと。彼はガテの王アキシュの保護に与ろうとした。だがそれは計算違いだった。彼はそこで捕らえられてしまい、きちがいを装って難を逃れた。彼の失敗の記録である。彼は愚かな失敗を繰り返すのだろうか。22章を見ると、彼の信仰が成長していく様を見ることができる。前半は1~5節、後半は6~23節である。

では前半の1~5節を学ぼう。彼が次に逃げ込んだ場所は「アドラムのほら穴」(1節前半)。アドラムはユダ部族の相続地である。そこにダビデの兄弟や家族もサウルの報復を恐れて集まった(1節後半)。そればかりか、イスラエルの下層民、不満分子も集った(2節)。その数約400人。この人数は「ダビデ家」として「サウル家」に対抗する勢力が出来上がりつつあったことを物語る。この姿は主イエスのもとに、下層民、虐げられている人々、見下げられていた人々、外れ者、不満分子が集まっていったのと似ている。主イエスのもとには取税人、罪人と言われる人々が集まった。

次に移動したのがモアブの地である(3,4節)。この地はイスラエルの領土ではない。モアブは死海の東側の地である。ダビデは神の導きがわかるまでモアブの王に両親を託すことに決めた。ダビデは自分のことだけではなく、両親の身を案じたわけである。では、なぜダビデは両親の身の安全のためにモアブの地を選んだのだろうか。彼はペリシテの地に逃げ込んだ時のような失敗を繰り返そうとしていたのだろうか。そうではない。モアブの王はダビデに非常に好意的であったと思われる。それには理由がある。ダビデの家系はモアブ人の血を受け継いでいた。ダビデの祖父の母親はモアブ人である。その名はルツである。ルツ記4章17~22節を読んで確認してみよう。モアブの王は、このルツ記の物語をある程度知っていたと思われる。モアブ人の女性ルツは姑ナオミとともに、亡き夫の故郷ベツレヘムに行く。ルツは若くして夫を失い、ふつうであれば、そのままモアブに留まるところであったが、姑ナオミに対して、「あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神」と言って、ナオミについていき、ベツレヘムに向かった。ベツレヘムで生活が大変な中、ルツは思いやりのあるボアズと出合い、助けられて、結婚するに至る。そしてオベデが生まれる。オベデの子がエッサイ、エッサイの子がダビデ。ダビデは当然ながら、ルツ記の物語を知っていただろう。ルツがボアズの畑で落穂ひろいをしたことがきっかけとなって、二人が結ばれ、今の自分があることを。かつて、貧困にあえいでいたモアブ人ルツをベツレヘムのボアズが助けたわけだが、今度はモアブ人がベツレヘムのダビデの両親を助ける番である。ダビデの両親とはエッサイ夫婦であり、エッサイにとってモアブ女性ルツは祖母となる。ルツは孫であるエッサイをその手に抱いたかもしれない。ルツの物語は一世紀を超えて、今、深い意味を持つようになる。ルツにしてみれば、後の子孫をこのようなかたちで助けることになろうとは夢にも思っていなかっただろう。ここに、神の摂理の御手が働いていた。神はダビデを助けるために一世紀も前から備えてくださっていたと言えるだろう。ダビデの逃げ場、助けの場がないような状況の中で、神はちゃんとダビデたちのために備えてくださっていた。

次のダビデの行動を見よう。次にダビデはユダの地ハレテの森に移った(5節)。ハレテの森はアドラムのほら穴から数キロ南東の場所にある。「預言者ガドはダビデに言った」とあるが、神は預言者ガドを通して導きを与えられたわけである。ダビデに神の導きを待つという姿勢がすでに生まれていたことは、3節の「神が私にどのようなことをされるか分かるまで」ということばから分かる。彼は21章後半で学んだように、半ばやけっぱちでペリシテの地に逃げ込んで痛い思いをした。ここはイスラエルより安全なはずだと。計算は見事に外れ、きちがいの演技までするはめになった。だが今は、神の導きを待つという姿勢がある。彼は苦難と失敗を通して、神の導きを待つ、神の導きに従う、という姿勢が形作られていった。私たちは、順調に物事が運んでいるときに、俺の人生は俺が決めるといった自己主張が強く、自己実現の姿勢で進んでいく。その姿勢のまま危機に直面したとき、やはり、自分の頭のコンピューターにまず頼り、計算し、グレーゾーンに足を突っ込むことになる。結果、後悔するはめになる。そして、ようやく、神は私に何をしてくださるのだろうかと待ち望む姿勢に至る。ダビデの場合、ぺリシテの地ガデの王アキシュのもとでの失敗が教訓になったものと思われる。彼はそれを教訓とすることができたから幸いである。ダビデの人生を見ると、決して完璧な生き方ができたわけではないことがわかる。だが、彼が信仰者として神に認められたのは、失敗を教訓とする姿勢、そして悔い改める姿勢があったからである。さあ、前半、神の摂理と導きということを見てきた。これを私たちの人生にも役立てよう。落ち着いて考えれば、皆様の数世代前のことが今に生かされていることがあるかもしれない。環境を見てはどうだろうか。そうした摂理にも思いを潜めつつ、今後の導きを主に求めていくのである。

後半は6~23節から、サウルの反キリスト的霊性を中心に見ることにしよう。ダビデ発見の報告がサウルの耳に入った(6節前半)。サウルはこの時、ベニヤミン族に属する側近の者たちとともにいた(6節後半)。彼らは一番身近な取り巻きの者たちであるのにもかかわらず、サウルにダビデの情報をまともに入れようとはしなかったようだ(7,8節)。サウルは「私の耳に入れない」と二度まで言って、不満たらたらである。王の側近たちの心はサウルから離れている。サウルと心一つにしているのは殺人鬼となるドエグのみである。側近たちの沈黙に反して、悪人ドエグが口を開いた。ダビデを見ましたと(9節)。それは21章1~9節に記されている、祭司アヒメレクのもとにダビデが身を寄せた日のことである。アヒメレクはダビデに食料とゴリヤテの剣を与えた。サウルはドエグの報告を聞くと、アヒメレクと彼の家の者を全部呼び寄せた(11,12節)。サウルは13節を見ると、謀反ということばを使って、おぬしはダビデとともに陰謀を計ったなと罪をなすりつける。アヒメレクは事の次第を何も知らなかった。ダビデはサウル王の使者として自分のところに来たのだとしか思っていなかった。アヒメレクは弁明する(14,15節)。ダビデは誰よりも忠臣と言える存在であるし、私はこの件については何も知らないと。だがサウルにどんな正論も通用しない。聞く耳持たず。そしてサウル王はアヒメレクのみならず、他の祭司たち85人を殺害してしまう(17,18節)。アヒメレクがダビデを受け入れ、ダビデに食料を与えたことはいけないことだったのだろうか。10節を注視していただきたい。「アヒメレクは主に伺って、彼に食料を与え」とある。アヒメレクは普段は祭司しか食べることが許されていないパンをダビデに与えたが、それは主に伺ってした行為であった。前回お話したように、主はアヒメレクを通して、ダビデが飢え死にしないように図ってくださったのである。だがそのようなことに心を向けるサウルではない。彼は祭司85人と、続いて祭司の町に住む者たちと家畜まで殺害してしまう(19節)。これは聖絶に等しい。だが対象は祭司と祭司の町である。これは狂気の沙汰である。実際に手を下したのはドエグであるが、命じたのはサウルである。そばに立っていた近衛兵たちは、いくら王の命令と言っても主の祭司たちに手を出せないと躊躇していた。そこでサウルはドエグに、おまえが討てと命じた。神の祭司を殺すというのは神に殺意を抱くことに等しい。サウルのこの事件の前後の言動を見れば、彼は神の祭りに形式的に与っているし、神が私にこうしてくれたとか、神の名を口にして語っている。その場面だけ切り取って見れば、一見、神の民の君主に見える。だが神はすでに彼から離れていて、サウルの精神は反キリストである。同じような歴史は繰り返される。マタイの福音書2章にはヘロデ大王が幼子キリストを殺そうと、ベツレヘムとその周辺の二歳以下の男の子を殺害した記事がある(2章16節)。ヘロデ大王は世界の建築史に名を残す壮麗な神殿をエルサレムに建てた(増改築した)王として非常に有名である。では、彼は信仰深かったのか。いや、そうではない。彼はユダヤ人の間で評判が悪く、ダビデの子と呼ばれるキリストを殺そうとまでした。自分の権力にしがみつこうとする姿はサウルと同じである。歴史は繰り返される。そして世の終わりには、一人の反キリストが自分こそ神であると宣伝して、神殿に座るとある(第二テサロニケ2章5節)。黙示録13章を見れば、彼は自分を拝まない者たちを殺そうとすることがわかる。

さて、すべての祭司が殺されたわけではない。アヒメレクの息子のエブヤタルが一人逃れて、ダビデのところに逃げて来た(20~23節)。迫害という中で、神の民全員が救い出されるのかというと、そうではない。けれども、「残された者」(レムナント)が起きる。出エジプト記を見れば、エジプトの王パロから幼児の虐殺命令が下ったとき、パピルス製の籠に入れられ、ナイル川に流されて、助かった男児がいる。モーセである(出エジプト2章)。悪王アハブによって預言者たちが虐殺されたとき、エリヤはひとりぼっちになってしまったと嘆いたが、神はバアルにひざをかがめなかった七千人を残しておいたと言われた(第一列王19章18節)。悪女アタリヤが王の家系の子どもたちを虐殺したとき、ヨアシュが救い出された(第二列王11章1~3節)。殺されてしまう者と生き残る者がいる。生き残ったエブヤタルはこの後、ダビデに仕える祭司となり、ダビデに神の意志を伝達する大切な役目を果たす。ダビデが全イスラエルの王となってからも、エブヤタルは祭司の長(おさ)としてダビデに忠誠を尽くすことになる。主の御旨を行いアヒメレクのように殉教する者、残されてエブヤタルのように主の御旨を行っていく者、シビアであるが、それぞれの召しがある。

最後に22節のダビデのことばを見よう。「ダビデはエブヤタルに言った。「私はあの日、エドム人ドエグがあそこにいたので、彼がきっとサウルに知らせると思っていた。私が、あなたの父の家の者全員の死を引き起こしたのだ」。ダビデは、エブヤタルの父であるアヒメレクと彼の家に、ここまでの災難が及ぶことを全く想像していなかったと思われる。想定外のことが起きてしまった。殺害の責任はサウルとドエグにある。ダビデは殺人犯ではない。けれども、責任を感じている。自分がアヒメレクのもとに赴いたからこのような悲劇が起きたのだと。同じように、私たちも思うことがある。「行かなければ良かった」「自分がもう10分早くついていれば、こんなことにはならなかった」「自分が用事を頼まなければ良かった」「行く先を変更しておけばよかった」「他に言い方はなかったのか」。重苦しい雰囲気の中で後悔が沸き起こることがある。眠れぬ夜を過ごしたりする。「あの時に戻りたい」「自分は愚かで人のために役立てなかった」「自分の罪、咎は多くて数えきれない」。ダビデも苦悶しただろう。ダビデは、この事件のあと、どうなっていくのだろうか。自暴自棄とはならなかった。主にあってリセットしたようである。この後、主なる神は彼をどう取り扱われるのだろうか。23章に入ると、ダビデが主の御旨を繰り返し伺う記述とともに、「主は言われた」「主は答えられた」「主は言われた」という記述が目立つ。これまでにない記述である。それは次回、詳しく見る。ダビデが主に拠り頼む者として成長していく様を思う。そして主はダビデを助け、守り、導き続けるのである。主はダビデを見捨てない。

私たちも過去において苦い経験がある。消したくても消せない過去がある。だが主にあって前を向こう。過去の教訓を生かして、明日を生きるのである。主は私たちのことをあわれみ、見捨てず、私たちの生涯を意味あるものとしてくださるだろう。