ヨハネは、「愛」ということばを多用しているが、「いのち」ということばも多用する。ヨハネは、いのちはイエス・キリストのうちにあるということを徹底して強調している。「その証しとは、神が私たちに永遠のいのちを与えてくださったということ、そして、そのいのちが御子のうちにあるということです」(11節)。ヨハネがここで告げているいのちは、肉体のいのちではない。肉体のいのちならば、虫も鳥も動物も持っている。ヨハネが告げているのは人間にしか持ちえないいのちのことである。それは神との交わりに生きるいのちである。人間は神のかたちに造られた。人間は神と交わり生きるように造られている。そして神は永遠のいのちである。神を持つことが永遠のいのちを持つことである。その神とは、肉体をとられたイエス・キリストのことである。だから、「御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのち持っていません」(12節)と言われている。ヨハネは手紙の冒頭から、いのちは御子のうちにあることを語っていた。「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。このいのちが現れました。御父とともにあり、私たちに現れたこの永遠のいのちを、私たちは見たので証しして、あなたがたに伝えます」(1章1,2節)。私たちはヨハネの手紙を読むときに、ヨハネは偽りの信仰者たちを強く意識して、異端反駁の書としてもこの手紙を執筆していることを忘れてはならない。彼らも「いのち」ということばを使い、たましいの不死とか、転生とかを主張していたようである。むろん彼らは、いのちを得るために、イエス・キリストを神の救い主、罪からの救い主として信じ受け入れなければならないとは説かない。だからヨハネは、いのちは御子のうちにあることを強調しなければならなかった。

では6節をご覧ください。「この方は、水と血によって来られた方、イエス・キリストです。水によるだけではなく、水と血によって来られました。御霊はこのことを証する方です。御霊は真理だからです」。この箇所は解釈が特に難しいと言われている。特に、「水」の解釈が様々にある。私が調べただけでも、6~7通りの解釈があった。それらを一つひとつ見ていっても構わないが、木を見て森を見ずになることを願わないので、要点に集中したいと思っている。ヨハネには読者を混乱させる意図はないだろうし、このような表現をとることによって、特定の人にしか分からない秘儀を教えようとしたのでもないだろう。この箇所の解釈の前提として、主イエスが肉体をとって来られたことを否定する異端が意識されていることを忘れてはならない。ヨハネは4章2節でどう語っていただろうか。「神からの霊は、このようにして分かります。人となって来られたイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです」。「人となって」の欄外註の別訳は「肉となって」、すなわち肉体をとって、ということである。偽りの信仰者たちは、イエス・キリストは肉体を持っているように見えただけであるとか、人間イエスにキリストの霊がのりうつっただけで、神が肉体の姿をとるなどという汚らわしいことをするはずはないとか、主張していた。彼らは物質・肉体は悪で、霊は善という二元論に立っていた。だから神と肉体を結びつけることは拒んでいた。ヨハネは先に、ヨハネの福音書でこう主張していた。「ことばは人となって(直訳「肉となって」、私たちの間に住まわれた)(ヨハネ1章14節)。何をお話したいかと言うならば、神が肉体をとって来られたということを言い換えると、「水と血によって来られた」と言い換えることができるということである。古代のユダヤ人の人間観にも、人間は水と血によって構成されているというものがあった。まさしくイエス・キリストはそうであった。ヨハネが「この方は、水と血によって来られた方、イエス・キリストです」と言うときに、イエス・キリストが肉体をとって来られたこと、まことの神は私たちと全く同じ人間となられたこと、この事実を強調したいのだろう。ヨハネの福音書19章34節も開こう。「しかし兵士の一人は、イエスの脇腹を槍で突き刺した。すると、すぐに血と水が出て来た」。「血も涙もない」ということわざををご存じだと思うが、この語源は人間と無生物の違いから来ている。血は人間を循環しているもので、人間であることの証拠である。イエス・キリストは血を持つ人間であった。まことの神はまことの人となり、十字架の上で血を流し、私たちの罪の身代わりに死んでくださったのである。

ヨハネという人物は一つひとつの単語に象徴的意味を持たせる方であるが、「水によるだけではなく、水と血によって来られたのです」と、何か「血」を強調して、「血」に意味をもたせたいことは確かなようである。さきほどのヨハネの福音書においてもそうだろう。旧約聖書において血は、人の罪を贖うもの、罪からきよめるもの、罪の赦しのために流されなければならないものである。新約聖書において血は、キリストの十字架の死の用語であり、キリストが私たちの罪の身代わりとなって流された血を意味している。「このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは、神の豊かな恵みによることです」(エペソ1章7節)、「また、雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました」(へブル9章12節)。ヨハネの手紙第一では、すでに血について言及されている。「もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを保ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめます」(1章7節)。主イエスは十字架について私たちの罪のための犠牲となり、血を流された。この血による贖いのためには人間性をとって、この世に来なければならなかった。私たち人間の身代わりになるのだから、身代わりになる方は人間でなければならない。しかし、その人間は罪のない、きよいお方でなければならない。旧約時代のささげ物が傷のない雄牛や子羊でなければならなかったように。では、罪のない人間などいるだろうか。すべての人は罪人で、「義人はいない。一人もいない」(ローマ3章10節)と言われているとおりである。だから、まことの神が肉体を持つまことの人となることが必要であった。身代わりの資格を持つ存在は、まことの人となられた神のイエスのみということになる。

ヨハネはイエス・キリストの正しい姿を示すにあたり、「御霊は真理だからです」と、御霊の証を付け加えている。イエス・キリストを正しく告白させる働きをするのが真理の御霊であることは、これまでも繰り返し述べてきた(2章20,27節、他)。ヨハネは7節において、御霊と水と血という「三つのものが証しをします」と語っているが、彼が三つの証言を重視するのは、証言というものは二人ないし三人の証言によって立証されなければならないという律法(申命記19章15節)が意識されてのものである。三つの証言は真実であり、それはこの場合、御子についての神の証言なのである(9,10節)。このようにして、ヨハネは永遠のいのちを持つイエス・キリストが受肉した神であることを人々に納得させようとしている。

後半は、いのちは御子のうちに、ということを改めて考えよう(11,12節)。ヨハネは、御子イエス・キリストがいのちを持っているということについて、20節後半では、「この方こそ、まことの神、永遠のいのちです」と述べて、イエス・キリストがまことの神であり、永遠のいのちを持つことを強調して筆を置こうとしている。いのち、永遠のいのちということば自体は、多くの宗教で(ほとんどの宗教かもしれないが)使われるものである。だがヨハネの教えは、いのちは御子のうちにということである。

他宗教のほんの一例を挙げよう。大乗仏教の阿弥陀如来である。阿弥陀如来は様々な仏の中で格上で、大日如来よりも格上で、どんなに罪の重い人でも無条件に救ってくれる仏と言われている。仏教の祖と言われる釈迦の教えは発展し、他宗教を吸収して、様々な宗派に分かれることになるが、大まかに小乗仏教と大乗仏教に分かれることになる。大乗仏教の経典は釈迦の死後、数百年後に成立するが、他力本願が特徴となる。日本の葬儀では「般若心経」のお経を聞く機会が多いだろう。その冒頭を飾るのが「観自在菩薩」。これは人々を救う観音菩薩で、阿弥陀如来のサポート役であるという。また「三世(さんぜい)諸仏」と出て来る。「三世」とは、過去、現在、未来の三つの時代のことで、この三つの時代に、それぞれ千の仏がいるとされ、合計三千の仏となる。たくさんの神々に願をかけて救われようという他力本願の教えである。この三千の仏にはバラモン教由来の仏様とか種々あるが、その仏の中には未来の仏として有名な弥勒菩薩がいる。弥勒菩薩は釈迦入滅後、56億7千万年後に現れ、六道輪廻の世界で苦しんでいるすべての人を救うとされている。一般には、56億7千万年も待たなければ救われないなんて待ちきれないということで、阿弥陀如来という救世主の慈悲にすがる信仰が流行した。念仏を唱え阿弥陀如来にすがれば、どんな罪人でも極楽浄土に行くことができる、阿弥陀如来のお慈悲によって、というわけである。この信仰は形態としてはキリスト教に近く、実際、キリスト教の影響を受けているとも言われている。キリスト教は1世紀にすでにインドに伝播している。それは大乗仏教が形成される時期と重なっている。日本の大乗仏教の伝道師である親鸞もキリスト教を勉強していて、親鸞が学んだ聖書のことばが記されているキリスト教の教典は、京都の西本願寺に保管されている。

阿弥陀如来ということばは、サンスクリット語のアミターバとアミターユスから来ている。アミターバは無量寿と訳され、無限の命という意味である。命に限りがないということである。すなわち、阿弥陀如来は永遠のいのちの持ち主ということである。アミターユスは無量光と訳され、無限の光という意味である。阿弥陀如来は光の存在として空間的に無限というわけである。ヨハネが神は光、キリストを光と呼んだことを思い起こす。ポイントは、阿弥陀如来は実在した救い主なのか架空の存在なのかということ。「無量寿経」という仏典によると、彼は648億年前に、ある一国の国王であったとされている。彼はその後、輪廻転生を繰り返しながら、216億年間修行を積んで成仏し、人々を救う仏となって、今も極楽浄土で説法していると言われている。これを聞いて、何百億年も前なんて地球すら存在していなかったのではないのと思ってしまうわけだが、信仰の対象の過去が歴史的事実であるかどうかを仏教は重視しない。経典に書かれていることの歴史性も重視しない。そういう立場である。

私たちは仏教の主張や、その他の宗教の主張は耳に入れつつ、聖書を神の唯一の啓示の書と信じ、主イエス・キリストがまことの神、永遠のいのちであることをしっかりと受け止めていよう。私たちは、「その証しとは、神が私たちに永遠のいのちを与えてくださったということ、そして、そのいのちが御子のうちにあるということです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません」(11,12節)にアーメンと言おう。