今年度の教会のテーマは「キリストを知る」であるが、知りそこなうと起きる一つのことが「つまずく」ということである。今日の記事は、バプテスマのヨハネが主イエスにつまずきそうになったことを告げる記録で始まる。主イエスは23節で「わたしにつまずかない者は幸いです」と語る。「つまずく」ということばは、罠や障害物を想定してのことばであるが、皆さまは、イエスさまにつまずきそうになったということはあるだろうか。ヨハネは、主イエスが自分のイメージどおりの救い主ではなかったので、この方は本当に救い主なのかという疑いが生じてしまった。バプテスマのヨハネにかぎってそんなことがあるはずはないという反応を時おり耳にする。しかし、事実だったのである。
バプテスマのヨハネは、旧約時代と新約時代をつなぐ預言者で、キリストの先駆者となった。人々に悔い改めを説き、主イエスを指さし、この方こそ待ち望んでいたキリスト(救い主)です、と民衆に教えた人物である。だが、彼の心は揺らぐようになる。この時、バプテスマのヨハネはどこにいたのだろうか。平行記事のマタイ11章2節では牢獄にいたことを告げている。彼は権力者の目の上のたん瘤的存在だった。悪名高きガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスは、ローマにいる弟を訪問中、弟の妻と不倫の関係に陥り、帰国後、正妻と離縁し、弟の妻と結婚してしまった。ヨハネはこの不倫を公衆の面前で厳しく非難した。結果、ヘロデはヨハネに復讐を試み、死海中央部の東にあるマルケス要塞の石牢に幽閉してしまった。この要塞は谷底も覗けないほど深い谷に囲まれていて、死海海面から1200メートルもそびえる山の頂にある天然のとりでである。今も敷き詰められた岩畳が残っており、そこに二つの牢獄の跡が認められるという。年およそ30歳になるヨハネは捕らわれの身となって、この深い谷に囲まれた、ユダの町々を見下ろす要塞の、薄暗い石牢の中に入れられてしまった。
ヨハネは石牢の中に入れられて何か月も経過していた。絶望感深まる時もあったと思う。幸いにも弟子たちとのコンタクトは許されていたようである。彼らは、弟子たちから、主イエスについての行動の情報はもらっていた。そうしているうちに、深く考え込むようになっていった。イエスはイスラエルでまだ革命的な行動は起こしていない。悪はのさばり、私もここに幽閉されたままだ。イエスとは本当に何者なのか。本当に救い主なのか。ヨハネは弟子たちを主イエスのもとに遣わした。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待つべきでしょうか」(20節)。「おいでになるはずの方」は、ユダヤ人にとって救い主の呼称、メシアの別称であった。「来るべきお方」と訳して良いだろう。キリスト時代のすべてのユダヤ人が、この呼び名がメシア、すなわち救い主を意味することを知っていた。「キリスト」の意味も救い主で、救い主の呼称である。ヨハネは今、イエスが来るべき救い主であるという確信を持てずにいる。疑いの病にかかっている。その理由を四つにまとめてみよう。
疑う要因の第一は、自分が獄中に入れられたままであるということ。今、彼は石牢の中に捨て置かれている。「主よ。なぜ、あなたは、いつまでもわたしを助けてくださらないのですか」。人は悲劇を味わう中で、救い主の性格を疑う。例えば、次のようなことによって私たちも同じ思いになることがあるだろう。戦争の災禍の中で明日が見えない。迫害によって惨めな様を味わっている。四面楚歌の環境が続いていて助けはどこからも来ない。灰色の日々ばかりが続く。立ち直れないような事故に遭った。繰り返される病に打ちひしがれている。箴言13章12節に「期待が長引くと、心は病む」ということばがある。特に、独房に入れられたままであると、気持ちはうつ気味になっていって、悪い事ばかり考えるようになっても不思議ではない。
疑う要因の第二は、情報処理がうまくできていないということ。ヨハネは約1年近く牢獄に入れられていて、外部とは遮断された環境。ネットももちろんつながっていない。主イエスに関する情報はすべて又聞きで、その回数も少なかっただろう。弟子たちは伝えるにしても否定的口調で伝えたかもしれない。何が何なのか詳しいことがわからない。だから、今回、弟子たちを送り、主イエスに直接質問し、その返答を聞くということは有益なことであった。
疑う要因の第三は、時代のメシア観の枠組みの中でもがいていた可能性があるということ。ユダヤ人たちは旧約聖書に従って、メシアの到来を待ち望んでいた。けれども彼らのメシア像というものは、狭く、政治的なものであった。メシアとはローマの圧政から救い出してくださるお方。そのお方が「おいでになるはずの方(来るべきお方)」であった。奇跡的力と権威をもってローマから解放し、王様として、我々に幸せをもたらしてくれる。しかし、キリストは彼らが望むような王様になる気配はないようである。ヨハネは今まさしく、ローマの支配のもとにある歪んだ政治体制のもとで囚われている。キリストはそうした政治体制を変えてくれる気配はない。
疑う要因の第四は、メシアのわざである悪に対する力あるさばきが全く見られないということ。これが、一番大きな要因だろう。ヨハネは人々にメシアの働きについてこう語っていた。「その方は聖霊と火で、あなたがたにバプテスマを授けられます。また手に箕を持って、ご自分の脱穀場を隅々まで掃ききよめ、麦を集めて倉に納められます。そして、殻を消えない火で焼き尽くされます」(3章16節後半、17節)。ヨハネはメシアは悪をさばくために来られると、メシアのさばく働きに強調を置いている。確かにそれは、詩篇や預言書に記されている。ヨハネはまちがいなく正義感の強い人物であった。この力あるさばきを期待していた。ところが、主イエスはいっこうにさばく様子がない。悪がのさばっているままにされている。そしてヨハネは悪人の手によって石牢に閉じ込められたまま。ヨハネは「主よ。なぜ、さばきを行わないのですか。いつまでですか。あなたの正義はどうなっているのですか」と焦燥にかられていただろう。さばきの日はある。全世界規模のさばきがある。しかし、それには時がある。パウロが言うように、今は「恵みの日、救いの日」であって、さばきは引き延ばされている。それは、神は誰一人として滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるからである。この神のあわれみと忍耐を考えないでしまうと、まだか、まだか、昔から何も変わっていないではないか、さばきはいつ執行されるのか、と気持ちが切れそうになってしまう。ヨハネは、牢の小さな小窓から荒漠たる荒野を眺める日々を過ごしていた。期待していた変化は全く起きない。ヨハネは、主イエスが獅子のような力と主権をもって邪悪な体制を根絶やしにして、悪を滅ぼして下さることを期待しただろう。しかし、ヨハネにとって、主イエスは余りにもつつましやかな人物に見えてしまった。期待したニュースは飛び込んで来ない。現代も多くのクリスチャンがヨハネと同じような疑問を持つかもしれない。「もし神が正義ならば、なぜ世界の悪をほおっておかれるのか。なぜ多くの善人が苦しい目に会い、悪人が楽をしているのか。もし救い主が愛であるならば、なぜ信じている自分はこんな不当な目に会わなければならないのか。世は悪が横行し、何も変わっていない。救い主を信じていることに何の意味があるのか。失望だ」と。主イエスはやがて、こう言われる。「まして神は、昼も夜も神に叫び求めている、選ばれた者たちのためにさばきを行わないで、いつまでも放っておかれることがあるでしょうか。あなたがたに言いますが、神は彼らのため、速やかにさばきを行ってくださいます。だが、人の子が来るとき(再臨の時)、はたして地上に信仰が見られるでしょうか」(ルカ18章7,8節)。さばきの日は、キリストの初臨の日に来るのではなく、再臨の日に来る。その日が来るのが遅いと感じる私たちだが、神にあっては千年は一日のごとし、である。事実、旧約聖書を読むと、キリストの初臨と再臨のインターバルはないものであるかのように記されている。
バプテスマのヨハネの弟子たちに対する主イエスの返答は簡単なものだった。それは、メシア預言と一致した行動をとっていることを示すことであった(22節)(欄外脚注参照~イザヤ29:18 35:5,6 61:1)。主イエスは、「わたしはメシア預言どおりのメシアなのだ」と示し、こうして、彼の混乱した心を鎮めようとされた。「だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです」ということばも付けて。ヨハネは弟子たちの報告を受けて、預言どおりのメシアなのだと、心の迷いを消したのではないだろうか。
さて、主イエスにつまずきたくなる最大の事件は、この後の十字架刑である。ヨハネは主イエスの十字架刑の前に世を去るが、その後の人々にとってつまずきとなったのが十字架である。主イエスは、ご自身が宣べ伝えられていた福音が福音となるために、十字架につくことに決めておられた。主イエスは悪をさばくどころか、悪人たちの手によって自らさばかれ十字架につくことになる。メシアが十字架につけられる?これをすんなり受け入れられる者は、当時、そういなかったはずである。十字架はつまずきになったことは間違いない。だが、23節のみことばいつでも真実である。「だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです」。
24~28節は、今度は、バプテスマのヨハネに対する主イエスの評価である。主イエスに対するバプテスマのヨハネの評価はモヤモヤしていてはっきりしていなかった。良くも悪くもなく、及第点を与えるところまではいかないような、とにかくあいまいな評価である。ところが主イエスは、自分に対してモヤモヤした評価をしたヨハネに対して、高評価を与える。先ず、「預言者よりもすぐれた者」(26節後半)と言われる。主イエスはその前に24~26節前半で「何を見に行ったのですか」という表現を三回くりかえし、ヨハネがすぐれた者であることを強調する手法をとっている。次に、「女から生まれた者の中で、ヨハネよりも偉大な者はいません」(28節前半)と言われる。これ以上の評価はない。ユダヤ人にとって偉大な預言者と言えば、モーセやエリヤとなる。ところが、主イエスはバプテスマのヨハネを彼ら以上に引き上げる。ヨハネは27節で言われているとおり(マラキ書3章1節引用)、メシアの道備えする大切な役目を担った人物である。バプテスマのヨハネは、モーセやエリヤのように奇跡を行った記録はない。全くない。だが彼は偉大なのである。母親の胎内にいる時から聖霊に満たされ、そしてメシアの道備えをした唯一の預言者である。彼はその務めを果たして、今、幽閉されている。
28節後半もコメントしておこう。「しかし、神の国で一番小さい者でさえ、彼より偉大です」。主イエスはヨハネを高く引き上げたと思ったら、それ以上の人たちがいるのだと付け加えている。それは主イエスが伝える神の国の福音を信じた者たちのことである。ルカ16章16節に「律法と預言者はヨハネまでです。それ以来、神の国の福音が宣べ伝えられ」とある。旧約時代はヨハネまでである。その後、主イエスが神の国の福音を宣べ伝え、新約時代が到来した。今や、キリストを信じる者は誰でも、神の国の民とされる。それは、皇太子、天皇、将軍、女王どころではない。もっと上の格付けである。私でいいんですか?と言いたくなる驚くべき格付け。この特権的格付けのことが「偉大」という表現で言い表されている。「偉大」というのは品性、品格の問題ではない。新約時代の驚くばかりの救いの恵み、天の御国の身分を告げているのである。それは、昨日まで家僕をしていたと思ったら、一夜にして殿様になったといった格上げ以上のことである。
さて、これまで、一番最初に、主イエスに対するバプテスマのヨハネの評価を見た。次に、バプテスマのヨハネに対する主イエスの評価を見た。それにくっついて、神の国の民に対する主イエスの評価を見た。今日のテーマの一つは「評価」である。最後の区分の29~35節も評価であるが、バプテスマのヨハネと主イエスに対するパリサイ人を中心とする人たちの評価である。それは良くなかった。けちょんけちょんである。32節では、パリサイ人を中心とするこの時代の人々の反応の悪さをたとえている。「笛を吹いてあげたのに君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってあげたのに、泣かなかった」とは、この時代の人々の神の啓示に対する反応の悪さ、喜んでいいはずなのに喜ばない、悲しむべきなのに悲しまない、という皮肉である。神の国の福音というグッドニュースを聞いても喜ばない。悔い改めを説かれても悲しまない。そんな状態である。
33,34節では、彼らの非難のことばを取り上げる。まずバプテスマのヨハネに対してである。「バプテスマのヨハネが来て、パンも食べず、ぶどう酒も飲まずにいると、あなたがたは『あれは悪霊につかれている』と言い」(33節)。バプテスマのヨハネはらくだの毛の衣を着て、荒野に住んで、いなごと野蜜を食べる生活をしていた(マルコ1章6節)。非常に原始的で禁欲的。俗人からかけ離れていて、悪霊につかれているとまで映った。では、主イエスに対してはどうだろうか。「人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『見ろ、大食いの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ』と言います」(34節)。主イエスはバプテスマのヨハネのように、荒野で生活はしない。町中で、しかも低俗とみなされていた連中とも食事をした。非常に世俗的に見えた。罪すれすれか罪を犯しているように見えた。注目していただきことは、バプテスマのヨハネとイエスさまとでは、ライフスタイルが正反対であるということ。けれども、両人とも最高の人格者。ヨハネは母の胎にいる時より聖霊に満たされ、女から生まれた者の中で最高の人。かたやイエスさまは、まことの神がまことの人となられた方で、神の聖者、罪のないお方。生きた時代も同じ。年齢の差はたった6カ月。けれどもライフスタイルがまるで違う。こうしたライフスタイルについて、すぐに白か黒かで判断したがる人がいる。どちらが正しいかと。ヨハネとイエスさまのライフスタイルの場合、どっちもありで、どっちも神さまが認めていた。神さまが認めないのは罪を犯すことだけである。そして自己中心に生きることである。これは、クリスチャンのライフスタイルの参考になる。バプテスマのヨハネもイエスさまも、どっちも神さまの栄光のために生きていた。この霊的背骨が通っていれば、とやかく人がどうのこうの言うことではない。
主イエスの最後のことばは、「しかし、知恵が正しいことは、すべての知恵の子らが証明します」(35節)。主は何を言われたいのだろうか。箴言8章などでは「知恵」が擬人化されている。知恵とは神であり、メシアである。今、知恵は非難されていた。主イエスを、またバプテスマのヨハネを非難する人たちがいた。しかし、主イエスやバプテスマのヨハネが正しいことは、「すべての知恵の子ら」、すなわち、この時代では、バプテスマのヨハネのメッセージを聞いて悔い改め、主イエスを信じる信仰者たちが証明するのである。「すべての知恵の子ら」とは、いわば正真正銘のクリスチャンたちのことである。
今日のポイントは、救い主イエス・キリストにつまずかないでついていこう、ということである。一度イエスさまを信じる告白をした人の、おそらく半数以上は離脱していると言われる。その理由は色々言われるが、それはつまるところ、その人とイエスさまの関係である。バプテスマのヨハネでさえ、つまずきそうになったという事実があるわけだが、私たちは自分のメシア像というものを、イエスさまに押し付けていてはきりがなくなる。そうではなく、バプテスマのヨハネも求められたように、私たちも聖書を通して、イエスさまのお姿、お働きということを知る者たちとされたいのである。そうして、イエスさまのそば近くを歩む知恵の子らでありたいと思う。

