前回は「平地の説教」の27~36節の区分から敵を愛するという主イエスの命令を学んだ。ポイントは、敵を愛してこそ神の子どもなのだ、ということであった。主イエスは敵を愛するということを、ただ単にキリスト者の目標で終わらせない。敵を愛してこそ、晴れて神の子どもなのだと主張された。
では、今日の教えの愛する対象は誰だろうか。27~36節は、愛の対象として、キリスト者の共同体の外の人たちが意識されていた。世間の人たちと言って良いだろう。その中でも敵対してくる人たちが意識されていた。37節以降は、キリスト者の共同体の人たち、兄弟姉妹が意識されている。身内と言える信仰の家族が意識されているのである。そこで起こりやすい問題が、「さばく」ということである。主イエスはそれをご存じであられた。経験からもそうだと言える。教会内で、神学校で、クリスチャンの職場で。どうしても、さばき合う問題が発生しやすい。
今日の教えは、大きくは二つに区分できるが、では、まず最初に、37,38節から四つの命令を一つずつ見ていこう。「さばいてはいけません。そうすれば、あなたがたもさばかれません」(37節a)。「さばく」<クリノー>は、正しい評価をする、正しい判断を下す、と言った意味である。それ自体は大切なことである。悪を悪と判断を下すこと、罪を罪と判断を下すこと、もし教会がそういうことを見失ったら、大変なことになる。塩気を失った塩になってしまう。ここで「さばいてはいけません」と禁止されているのは、悪いさばきのことである。悪いさばきとは、まず、さばく精神が悪いということである。さばく精神が悪い人は、あわれみの思いがなく、相手を打ちのめすことで優越感にひたろうとする。そういう人は人のあら探しが得意で、悪く決めつけ、非難することが心の癖になっている。性癖のようになってしまっている。たとい言っていることは正しくとも精神が悪ければ終わりである。相手に対するあわれみはないものだから、相手がどうしてそうしようと思ってしまったんだろうと考えもしない。あわれみはなく、冷たい断罪で終わりである。実は今日の区分の橋渡しとなっているみことばが、36節の「あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたもあわれみ深くなりなさい」である。あわれみ深い人は敵に対してもあわれみ深く、敵を愛するだろうし、同じ信仰者に対しても、あわれみ深く、不用意なさばきはしないだろう。
さばく精神が悪いとさばく過程も悪くなる。自分の憶測を優先させ、自分の判断が百パーセント正しいと決めつける傾向が強い。良く考えもせず、調べもせず、偏見でさばいてしまう。あの人はこうに決まっていると。だから、的外れのさばきや、行き過ぎたさばきも起こりやすくなる。ライバル視している相手に対しては余計さばきやすいと言われる。また人は、自分と似たような性質の人を無意識のうちに嫌い、さばきやすいと良く言われる。相手が自分の鏡となり、自分の嫌なところを相手に見て、その人を批判し、非難する。いずれにしろ、人をさばくことに慣れてはいけない。主イエスは、さばかなければ、「あなたがたもさばかれません」と言っているが、これは、「神にさばかれません」と捉えて良いだろう。神のあわれみを受けるということである。
続いても禁止命令で、それは「さばいてはいけません」の言い換えである。「人を不義に定めてはいけません。そうすれば、あなたがたも不義に定められません」(37節b)。「不義に定める」<カタルティゾー>は、有罪判決を下す、罪に定める、という意味である。かつての新改訳第三版では「罪に定める」と訳されていた。「罪に定める」というのはさばく目的と言えるだろうし、さばいた結果と言えるだろう。なんとか罪に定めたい、罪に定めてしまいたい、そこにはあわれみというものはない。だが、私たちが人を不義に定めなければ、「そうすれば、あなたがたも不義に定められません」。これは、「神から不義に定められません、罪に定められません」という意味だろう。
続いては積極的命令で、さばかない、不義に定めない、ということを積極的に言い換えたものである。「赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦されます」(37節c)。「赦しなさい」と言われているということは、不快な思いにさせられた、ということが前提としてあるだろう。普通は感情が先走り、赦せなくなる。ただ、私たちは冷静に次の事実を心に留めておく必要がある。キリストの十字架の恵みによって、自分の多くの罪が赦されたということを。それを忘れて相手の罪を手厳しく責めるだけで赦さないなら、やがてその人には過酷な神のさばきが下ることになる。結局は、人を赦せない原因というのは、もとを正せば、自分の罪がまだわかっていないということ。自分の罪をまだまだ瑣末なものとしか考えていない。自分の罪がわかっていないから、神の赦しの恵みの大きさも良くわかっていない。神の赦しの恵みの大きさがわかっていないから、人のちょっとした態度も言葉も赦せなくなる。反対に、赦せる人というのは、自分の罪の大きさも、神の赦しの恵みの大きさもよくわかっている人である。赦す神の恵みは、その人を赦す人に変える。その人は世の終わりのさばきの時に、罪を赦す十字架の恵みが良くわかっている者として、太鼓判で赦される。
最後も、積極的命令である。赦す人は、神のあわれみを良く知っている人と言えるわけだが、あわれみは「与える」という積極的行動に至る。「与えなさい。そうすれば、あなたがたも与えられます。詰め込んだり、揺すって入れたり、盛り上げたりして、気前良く量って懐に入れてもらえます。あなたがたの量るその秤で、あなたがたも量り返してもらえるからです」(38節)。さばく、罪に定める、赦さない、そこに心の狭さを感じるわけだが、与えるということに、心の広さ、度量の大きさを感じる。それは親切な行動となって表れるだろう。この38節の描写はルカ独特である。ここで「秤」について言われているが、升を頭に置いていただければいい。「気前良く量って」とあるが、升いっぱいに麦を入れて縁を板でそいで量るのが正確な量り方である。しかし、いっぱい差し上げたいということで、ぎゅっと詰め込んだり、揺すって隙間をつくって、その隙間に入れたり、山盛りにしたりして、それを与えようとする気前の良さが言われている。「気前良く量って懐に入れてもらう」の「懐に入れてもらう」とは、当時の長い上着の裾を両手でつかんで持ち上げて、そこに入れてもらうことを意味している。この描写で、「あなたがたの量るその秤で、あなたがたも量り返してもらえるからです」と、人に対して気前良く量る人に対しては、神は人を介して、気前良く量り返すことを伝えている。反対に、ケチって、升の縁の「下まで」しか入れないという悪い量り方をするなら、神もその人に対してそうされるだろう。厳しい裁きの秤で量る人に対しては、神も厳しくされる。人に対して気前良く量る人は幸いである。
主イエスは続いて、盲目に関するたとえを39~42節で語っている。主が伝えたいことは霊的盲人に関してである。その最大の特徴は、41,42節で明らかなように、人のあら探しをするが、自分の罪が見えていないということである。このように、霊的に盲目で自分の罪が見えていない人に、人を導くことはできない。39節の「盲人が盲人を案内できるでしょうか」ということは、そういうことを伝えたい。あなたにはこんな欠点、こんな罪があると、人をさばくことに熱心で、自分の正しさをアピールするが、自分のことが全然見えていない人は、人を導く資格はないということである。
41,42節で、「兄弟の目」「兄弟に対して」とあるが、この「兄弟」とは、キリスト者の仲間のことである。その仲間に対して、あら探しをし、さばいている、ということが前提としてある。主イエスはそのような人を、42節で「偽善者」と呼んでいる。これは、元々は「役者」「俳優」ということばである。「他人の欠点を指摘することで、自分の正しさを演じているのです。彼の真の隠れた動機は、自分の正しさをアピールすることです。他の人に厳しく当たることで、彼は自分の有能さをアピールしたいのです。だからその人は演じている偽善者です」(鞭木由行氏)。
主イエスが私たちに命じているのは、他人をさばくことではなく自己吟味である。41,42節は「ちりと梁のたとえ」と言われている。改めて読んでみよう。「あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分自身の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか。あなた自身、自分の目にある梁が見えていないのに、兄弟に対して『兄弟、あなたの目のちりを取り除かせてください』と、どうして言えるのですか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、兄弟の目のちりがはっきり見えるようになって、取り除くことができます」。「ちり」とは欄外注にあるように「木屑」のことである。協会共同訳は「おが屑」と訳している。「梁」は欄外注で「丸太」とある。柱同士を水平につなぐ天井の丸太のことである。主イエスは41節において、兄弟の目の中にある木屑、おが屑程度のものに、年中神経を費やすのではなく、自分自身の目の中に太くて大きい丸太があることにまず気づきなさいと言われる。「あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分自身の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか」。ここで「気がつかない」ということが問題にされている。「あなたが相手に対して嫌だな~と思っているものを、実はあなたも持っている。いや、あなたにはもっとひどい罪がある。あなたはそれに気づいていない。だから、あなたはあわれみのないさばきをするのだ」。だから主イエスは42節中頃で、「まず自分の目から梁を取り除きなさい」と、自己吟味を勧めている。「神さま、私の丸太とはどういうものでしょうか。教えてください」という作業である。そして、それを悔い改めて取り除くという作業である。これは他人の欠点をあげつらっているのとは違って、気が向かない作業であり、ずいぶん勇気のいる作業である。だが、こちらに時間とエネルギーを使うということである。
紀元1世紀のユダヤ教のラビが伝えている面白い話があって、もし誰かが相手に向かって「あなたの目から木屑を取りなさい」と言ったとしたら、相手から「あなたの目から丸太を取りなさい」とやり返されると言っている。主イエスのたとえでは、「あなたの目から丸太を取りなさい」とやり返される前に、まず、自分の目の中の丸太を取り除くように教えている。「そうすれば、兄弟の目のちりがはっきり見えるようになり、取り除くことができます」(42節後半)。内省し、自己吟味を行うと、自分の罪や心無い思い、丸太の太さ、大きさが見えてくる。すると、木屑を持つ相手に対して心低くなり、あわれみの思いが生まれてくる。またこのような内省を通して、相手に対する自分のゆがんだ判断、足りない判断、せっかちな判断に気づく。正しい判断ができるので、すなわち、相手の木屑の状態がはっきり見えるので、その木屑に対処する方法も見えてくる。こうして、あわれみの心で相手の目の中から木屑を取り除くというデリケートな作業が完了することになる。この世では良く、対人関係のマニュアル本のようなものが出版されるが、対人関係の出発点として、自分の罪と徹底的に向き合わせようとするのは、主イエスぐらいのものである。私たちは他人をさばくエネルギーの10分の1でも自分に向ければ、大きな変化が生まれてくるのではないだろうか。
今日の主イエスの教えを、もちろん教会内で実践しなければならないわけだが、この世に対しても適用できるだろう。歴史小説に新庄藩の藩士を主人公とした物語で「武家草鞋」がある。新庄の藩士に宗像伝三郎という、清廉潔白を身上とする謹直な武士がいた。彼のその性格のゆえにか、周囲と折り合いが悪く、孤独になりがちだった。世間は彼を偏狭な男だとか、傲慢な独善家だとか、ののしった。彼は世間とはご都合主義で虚飾に満ちていて、正しいのは自分だという姿を曲げない。彼は、ある時、藩内のご都合主義に耐えきれなくなり、上役たちとぶつかり、退身し、浪人となって江戸に向かう。江戸でも世間の堕落を思い知らされる。世間は欺瞞と狡猾の抱き合わせで、利得を得ることばかりに腐心していると。彼は生きることがほとほと嫌になってしまう。そこで彼は、俗悪な世間に生きるよりは、人間の匂いのしない山で死のうと、江戸を旅立ち、東海道に足を踏み入れる。途中、彼は行き倒れになってしまうが、もと郷士の牧野というあわれみ深い老人に助けられ、この老人の自宅で養生させてもらうことになる。柔和な老人である。その老人宅は静かな山里にあり、伝三郎は、この汚れた世間から離れているこの山里こそ、自分の生きて行く場所だと思うようになる。よし、山里で生きよう!彼は老人宅で、新庄の名産である、丈夫な武家草鞋を造り始める。評判は良かった。しばらくして取引先の商家の手代から、もう少し持ちの悪い草鞋でないともうけが出ないからと、少し手を抜くように言われる。彼は、ここにも世間が顔を出している、商人相手はだめだと、草鞋作りをやめてしまう。次に日雇い人夫になる。土を掘る仕事なので、大丈夫だろうと。土は人をごまかしたりしないと。ところがしばらくして、周囲の人夫たちが反感の目で彼を見るようになる。彼がひとりだけ時間通り休み、時間通りまじめに働いているからである。人夫たちは、俺たちと行動を合わせてほしい、と言ってきた。もちろん、わかったとは言えず、彼は孤立感を深めてしまう。彼には時間を盗むことなどできなかった。そんな時、休み時間に山を眺めていると、山ぶどうが目に入った。故郷でも見た山ぶどうである。彼はなつかしさの余り、山ぶどうに手を伸ばしたのだが、その時、「山を荒らすんじゃないぞ、ここはオラんちの山だ」と怒声が飛んだ。百姓娘の声だった。「一粒、二粒摘むのもいけないのか?」「出ていかないと、人を呼ぶぞ!」彼は貪欲な娘のまなざしに憔悴してしまった。彼は思った。このような美しい山里でも同じだ、汚れ果てた世間はもうたくさんだと。
彼は再び、人の匂いのしない山に入って死のうと決心する。もう世間で生きていく力はないと。老人宅を出ようとしていた時、老人にその訳を尋ねられる。老人はあわれみの心で彼の話に耳を傾けた後、静かに語り始める。「あなたはここに来て数日後に身の上話をされました。家中の方々の多くがご都合主義。江戸に出れば、無知で卑しく、悪徳が横行して、どこにも誠実はないと。しかし、一度も、ご自身が悪いということばはありませんでした。今、この村に来られてからのことも、商家の手代のこと、人夫たちの狡猾さ、百姓娘の貪欲さなど挙げられましたが、一言も自分が悪いということはおっしゃらないようだ。あなたは、それではすみませんよ。あなたは、世間は汚らわしい卑賎なものだと言われる。しかし、世間というものはあなた自身から始まるのだ。世間が汚らわしく卑賎なものなら、その責任の一端はあなたにもある。世間が人間の集まりである以上、わたしの責任ではないと言える人間はひとりもいないはずだ。世間の卑賎を挙げる前に、あなたはまず、自分の頭を下げなければならない。すべてはそこから始まるのだ。・・・人に求める必要がどこにあるか。まず、あなただ!」これらのことばが、彼を打ちのめす。伝三郎の再生はそこから始まった。主イエスも、「あなたはまず、自分の頭を下げなければならない。人に求める必要はどこにあるか。まず、あなただ!」とおっしゃったことを理解したいと思う。

