NHKの先祖をたどる番組で「ファミリーヒストリー」が人気番組である。先祖はどういう人たちだったのかと、家系をたどって自分のルーツを探るというのは一つの興味深い作業である。父方、そして母方をたどる。私は斎藤家の系図を江戸時代の終わり頃までたどることができたが、曾祖父の頃まではたどることができたらいいのではないかと思う。

私は母方の家系でどんでもない話を聞いたことがある。母の従妹にあたる方が嫁いで行く時のエピソードである。まずお見合いに臨んだ。相手の男性はイケメンであった。ラッキー!しかし、これが替え玉であった。母の従妹はそれとは知らず、結婚に同意してしまった。そして、結婚当日、相手の男性の顔を見たら、全くの別人であることに気づいた。しかも、おせじにもイケメンとは言えない。騙された!しかし、時すでに遅し。これは、はっきり言って結婚詐欺である。私の実家の集落では、結婚する相手の男性の写真も見せられないまま、結婚式当日を迎えた女性がいた。その女性曰く、「写真を見せたら結婚を断られると思ったんでしょう」とのこと。これは明治、大正の話ではなく、昭和20年代後半の話である。この手の話はあとで笑い話にもなるが、思わず眉をひそめてしまうようなケースもある。昔は、本人の意志とは関係なく親の意志で結婚、許婚、そういったことも国内外で普通に行われていた。外国では、略奪婚、誘拐婚の風習があったところもある。また出産において、望まれていたのか、望まれていなかったのか、不透明なまま生まれてくるケースも多かった。だが、そうしたことがなければ、今の私たちも存在していなかったと思うと不思議な気持ちにさせられる。厳密に言うと、問題のない家系はないのではないだろうかと思う。主イエスの家系に登場する人物の個人史を調べて行くと、人に公表するのはまずいだろう、家系の恥だと思わせる出産事件に突き当たる。今日はそれをピックアップしないが、罪人を救わんとする神が、このような家系を許容された。

ユダヤ人は系図を大切にする民族として知られている。主イエスの系図はマタイの福音書1章と、このルカの福音書3章にある。それぞれ意図をもって記してあるようである。系図の位置だが、マタイの福音書はご存じのように、いきなり冒頭から系図で始まっているが、ルカの福音書の場合、系図は3章に記され、主イエスのバプテスマと荒野の誘惑の間に挟んである。これにも意図があるようである。それは後半に述べたい。そして、マタイとルカの系図そのものを比較すると、記す位置が違っているばかりか、記し方や先祖たちの名前にまで大きな違いがある。最初に、その違いを観察してみたい。マタイは、「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」(マタイ1章1節)という前書きで始まっている。マタイでは、ユダヤ人の父祖として知られるアブラハムから始めてイエスに至るという書き方をしている。ルカは逆さまで、イエスから始めて過去に遡っていくという手法で、しかもアブラハムを通り越して、アダム、そして神にまで至っている(38節)。人名に関しても、明らかにマタイは、「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」とあるように、アブラハム、ダビデを強調したい。ユダヤ人はアブラハムの子孫であることを誇りにしていたし、救い主はアブラハムの子孫から出ると約束されていた。また、救い主はダビデ王の子孫であることが約束されていた。マタイは、ダビデ王の王位継承権をもつ者たちの名前もしっかり挙げている。ユダヤ人にとって、アブラハム、ダビデのラインは注目の的である。このラインからメシアとしてユダヤ人の王が生まれるのだと待ち望んでいたわけである。けれども、ルカはアブラハム、ダビデではなく、アダムと神を強調したいのである。「アダム、そして神に至る」と。ここが大きな違いである。

気づいた方もおられると思うが、38節の「エノシュ、セツ、アダム、そして神に至る」の訳は、新改訳第三版と違っている。第三版では「エノスの子、セツの子、アダムの子、このアダムは神の子である」となっている。実は、原文には23節後半以降、「子」はない。「子」は補足としてつけたまでである。23節からの直訳を述べると、「イエスは、働きを始められたとき、およそ三十歳で、ヨセフの子と考えられていた。ヨセフはエリの」、24節に進んで、「マタテの、レビの、メルキの、ヤンナイの、ヨセフの」、38節にワープして、「エノシュの、セツの、アダムの、神の」。以上で終わりある。「子」を補足した訳自体はまちがいではない。新改訳2017は直訳的に訳しているということである。ルカの意図は、アダム、そして神にまで遡ることにある。この大切な点については、後半に説明しよう。

人名は、イエスからアダムまで77人。ここまでたどったのはお見事である。たどったのは江戸時代までどころではない。石器時代以前である。ただマタイとルカを比較すると、まず人数に関して、アブラハムからイエスまで数えた場合、ルカのほうがなぜか14人も多い。人名に関しても謎が多い。ダビデ以降の名前であるが、マタイとルカで共通している人名は、27節の「ゼルバベルとシェアルティエル」だけである。バビロン捕囚帰還時の人名である。あとは全員違う。一番驚くのは、ヨセフの父親の名前が、マタイとルカで違っているということである。マタイではヨセフの父親は「ヤコブ」となっている。「ヤコブがマリアの夫ヨセフを生んだ」(マタイ1章16節)。しかしルカは、「ヨセフはエリの子」と記す(23節)。ヨセフの父はヤコブなのかエリなのか、どちらだ?となる。これはどちらかが間違っているということではないだろう。古代から、この難問について様々な説が出されてきた。一般的なのは、マタイはヨセフの系図をたどり、ルカはマリアの系図を遡ったというもの。以前の訳、新改訳第三版では欄外注で、このエリの説明で「イエスの母マリヤの父。ヨセフの義父」と記している。エリがマリアの父となると、ルカではマリアの系図を遡っていることになる。なるほど、と思わせられるが、新改訳2017では、エリの説明で「イエスの母マリヤの父。ヨセフの義父」という説明はなぜか欄外にない。省かれている。なぜかというと、エリがマリアの父ということを裏付ける資料は現存していないからである。証拠はない。証拠にないことはやめましょう、ということである。

その他に、マタイもルカも両方とも、ヨセフの系図を記しているとした上で、マタイは身体的系図を、ルカが法定的系図を記しているという解釈もある。つまり、マタイは血のつながりの系図で、ルカは法律上の親子関係の系図であるというわけである。法律上の親子関係という場合、養子縁組のことである。2,3世紀に活躍した歴史家エウセビオスは興味深い伝説を伝えている。彼はイエスの弟のヤコブの子孫から、次のように聞いたというのである。それによると、ヨセフはマタイが記すようにヤコブの実子であったけれども、ルカが記すようにエリの子とみなされたというのである。つまり、こういうことである。ヤコブとエリは兄弟で、ヤコブのお兄さんがエリであったが、エリは早死にしてしまった。エリの跡取りがいなかったので、ヤコブは実子のヨセフを兄の世継ぎとして養子に出したというのである。ということで、ヨセフはほんとうにヤコブの子どもなのだけれども、養子に出されたのでエリの子どもとなったというのである。こうしてヨセフは二人の父を持つに至ったということである。まとめると、ヤコブとエリは兄弟、ヤコブにとってヨセフは血のつながりのある息子、エリにとってヨセフは養子縁組をした息子、こうしてヨセフは二人の父親を持つことになる。しかし、これはあくまでも伝説である。

また次のようにも推察されている。マリアには男兄弟がなかった。婿取りとなった。それでヨセフを婿養子として迎えた。このような養子縁組説もわかりやすい。しかし、真実がどこにあるかは謎のままである。本人たちに聞くことができる日は来るのだろうか。

では、解けない人名の謎解きはそこまでにして、この系図が読み取らなければならない大切なことをお伝えしよう。一つは、人としての先祖をアダムまでさかのぼったということである。アダムといえば人類の先祖である。すべての家系は最終的には、このアダムまでたどり着く。そしてアダムは罪人の代表である。主イエスはなんとこのアダムの子孫となってくださった。この系図に、主イエスはアダムから始まる全人類の救い主となられることが明確に啓示されている。この福音書の著者のルカは使徒パウロの側近の弟子であったわけだが、パウロは主イエスを「最後のアダム」「第二のアダム」として教えている。「こう書かれています。『最初の人アダムは生きるものとなった。』しかし、最後のアダムはいのちを与える御霊となりました。」(第一コリント15章45節)。「こういうわけで、ちょうど一人の違反によってすべての人が不義に定められたのと同様に、一人の義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられます。すなわち、ちょうど一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、一人の従順によって多くの人が義人とされるのです」(ローマ5章18,19節)。最初のアダムは悪魔の誘惑に負け、罪を犯し失敗した。おかげで全人類に罪が入った。全人類が罪人となった。しかし、最初のアダムの子孫である第二のアダムは全人類をリセットする。最初のアダムによって罪が入ったが、この第二アダムによって罪からの救いが来る。第二のアダムによって、罪赦され、義と認められ、永遠のいのちが与えられるという恵みが来る。

この主イエスの系図の前に、主イエスのバプテスマの記事がある(21~22節)。バプテスマは本来、罪人が悔い改めのしるしとして受けるものであるが、主イエスも受けられた。これは主イエスが罪人である人間と一体となってくださったことを示す。それは続く系図でも示されているわけである。主イエスは罪人の代表のアダムの子孫となってくださった。これが十字架に結びつく。主イエスは死に至るまで従順であられ、罪なきお方であるにもかかわらず、十字架で私たちの罪を負われ、罪のさばきを受けることになる。これは、第二のアダムが全人類のために成し遂げる救いのみわざである。

この系図から読み取りたいもう一つのことは、先祖を神にまでさかのぼったということである。この事実に人類の源、根源は神であるということも教えられるが、主イエスの系図という文脈の中で教えられなければならない。新改訳第三版の38節後半の訳は、「このアダムは神の子である」。アダムは罪を犯してしまったが、神の子であったことにはまちがいない。アダムが神の子であるなら、主イエスこそまことの神の子なのである。主イエスが神の子であるという宣言は、22節のバプテスマの時にあった。天から「あなたはわたしの愛する子」という声がかかった。主イエスのバプテスマは、罪人との一体性を表すバプテスマであったと同時に、神の子たちの代表としてのバプテスマでもあった。「しかし、この方(イエス・キリスト)を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった」(ヨハネ1章12節)。主イエスはご自分を信じて神の子となる信者たちの代表でもあった。系図の後の4章の荒野誘惑では、悪魔は何度も、「あなたが神の子なら」と主イエスを誘惑することになる(4章3,9節)。第二のアダムである主イエスは、神の子として誘惑を受けた。だが、主イエスは罪を犯さない。最初のアダムである神の子はどうだっただろうか。エデンの園で悪魔の誘惑に負け、罪を犯した。しかも一回の誘惑でおじゃんである。だが、第二のアダムである神の子は、手を変え品を変え、繰り返し誘惑されたにも関わらず罪を犯さない。誘惑に打ち勝ったのである。最初のアダムとは対照的である。もし罪を犯したら最初のアダムと同じになってしまい、救い主の資格ははく奪である。罪を犯さなかった第二のアダムは、救い主の資格をもつ神の子中の神の子なのである。アダムを超えるアダムなのである。バプテスマ、系図、荒野の誘惑という記事の順番で、主イエスこそが罪からの救い主としてふさわしいアダムの子孫であることが浮き彫りにされている。私たちはこのお方にすべての望みをかけることができる。私たちは、自分が生を受けて誕生したことと自分の家系に神の主権を認めるべきであろうし、たとい呪われた家系のように思えても、主イエスはその呪いを断ち切り、私たちに救いをもたらすことができるお方であることを知ることができる。

最後に、23節の「イエスは、働きを始められたとき、およそ三十歳で」に触れて終わろう。ヨセフはすでに死去していたと思われるので、30歳になるまで父ヨセフに代わって、母親、弟、妹の面倒を見ていただろう(マルコ6章3節)。今、時が訪れ、神の働きに専念する時が訪れた。30歳という年齢は旧約聖書にも登場する。エジプトに売られたヨセフが総理大臣となったのは30歳(創世記41章46節)。レビ人が聖職に就く年齢が30歳(民数4章3節)。ダビデが王位に就いたのも30歳(第二サムエル5章4節)。なんとなく、神の御用に用いられる一人前の年齢は30歳なのかと思わされるが、なんと、この後の公生涯の期間は短かった。ヨハネの福音書では三回の過越しの祭りが記載されて、主イエスの十字架刑となっているので、バプテスマを受けた時から三年後に十字架刑と判断されている。なんと短い公生涯ではないだろうか。だが、その短い公生涯は聖霊による生涯であった。前回学んだ22節のバプテスマの場面で聖霊が降る。次回の4章1節では、「さて、イエスは聖霊に満ちてヨルダン川から帰られた。そして御霊によって荒野に導かれ」とあり、このように主イエスは聖霊によって生きる神の子どもたちの先陣を切られた。今日はペンテコステ(聖霊降臨日)であるが、主イエスの生涯は聖霊による生涯であったことも覚えておきたいと思う。