本日は主イエスのバプテスマの場面である。大切な場面であるので、四福音書すべてに記されている。茨城県で牧会をしていた時だが、イエスさまを信じた一人のご婦人から、「信じているだけではだめなんですか?どうしてバプテスマを受けなくてはならないんですか?」と質問されたことがある。私は、「罪のないイエスさまは私たちの模範としてバプテスマを受けられました」と、そのように答え、納得していただいたことを覚えている。主イエスの公生涯は、このバプテスマなくして始まらなかった。この時の年齢は23節からわかるように、およそ30歳であられた。ダビデが王となった年齢である(第二サムエル5章4節)。半年早く生まれたバプテスマのヨハネは、ヨルダン川でバプテスマを授けていた。悔い改めのバプテスマである。このバプテスマは悔い改めのしるしとして受けるものであった。聖書には、キリストには罪がないと記している。バプテスマのヨハネもそれもわかっていて、他の福音書を見ると、バプテスマを受けに来た主イエスに対して、そうさせまいとしたことがわかる。しかし、今はそうさせてもらいたいと、主イエスの意志でバプテスマは実現した。21節で、「さて、民がみなバプテスマを受けていたころ、イエスもバプテスマを受けられた」とあるが、バプテスマを受けに来た民たちはみな罪人である。7節でヨハネは群衆に対して「まむしの子孫たち」とまで呼びかけているが、そう言われてしまう罪深い人たちである。しかし彼らとともに何のくったくもなくバプテスマに与ろうとしている。キリストは罪人である人間と一体になる所存であられた。

このバプテスマ時に主イエスは何をしておられただろうか。それは祈りである。21節後半には、「そして祈っておられると」という記述がある。ルカの福音書独特の記述である。ルカの福音書は祈りについての記述が多く、「祈りの福音書」と呼ばれることもあるが、ルカは主イエスがバプテスマ時に祈っておられたということを告げる。主イエスはこの後も祈りに祈る生涯を送られ、祈りの最後の記録は十字架上となり、それもルカが記している。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかがわかっていないのです」(ルカ23章34節)。主イエスは「父よ」と祈られている。公生涯がスタートしようとしているこのバプテスマ時にも、「父よ」と祈られたであろう。主イエスはこのように、祈りの人として、祈りの生涯を送られたわけである。

祈りに伴うこととして聖書が記している現象は、天が開けて、聖霊が鳩のような形をして降ってこられたことである(22節前半)。キリストの公生涯は聖霊とともに生きる生涯であられた。新約時代は聖霊の時代であり、神の国は聖霊によって始まるわけだが、聖霊が主イエスに降ったこの時が、まさしく歴史の転換点となった。新しい時代の幕開けである。救い主を意味する「キリスト」という称号は「油注がれた」ということばから造られたが、「油」とは具体的には聖霊を意味するわけである。今まさしく、聖霊が下り、油注ぎを受け、救い主キリストとしての公生涯が始まる。

続いて、天から御父の声がかかった。「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」(22節後半)。まず前半の「あなたはわたしの愛する子」、これはメシア預言である詩篇2編からの引用であると言われる。「私は主の定めについて語ろう。主は私に言われた。『あなたはわたしの子。わたしが今日、あなたを生んだ』」(詩篇2編7節)。詩篇2編では、偉大な救い主が地上に来られ、救い主は国々の王たちを力で支配することが記されている。この力強いメシアのイメージを、当時のユダヤ人たちはもっていた。このイメージしかなかったと言っても過言ではない。

後半のことばは、「わたしはあなたを喜ぶ」。これはイザヤ42章の引用と言われる。「見よ。わたしが支えるわたしのしもべ、わたしの心が喜ぶ、わたしの選んだ者」(イザヤ書42章1節)。42章もメシア預言の箇所であり、「しもべの歌」と一般に呼ばれている。このしもべはメシアであった。しもべの歌は53章にもある。それは苦しむしもべとしての姿の描写である。「・・・まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒された。私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちのすべての咎を彼に負わせた」(イザヤ53章1~6節)。ユダヤ人たちは、この苦難のしもべをメシアであるとは考えていなかった。詩篇2編の力強いメシアの姿とギャップが余りにもありすぎて、メシアとは別人物のこととして解釈されていた。ユダヤ人は、諸悪を力で粉砕し世界に君臨する力あるメシアと、みじめな姿をさらす苦難のしもべとを、つなげて考えることはなかった。だが、天からの声は、力ある偉大な救い主と苦難のしもべとを一つにつないだ。そして、そのとおりの歩みを、この後の主イエスは見せていくわけだが、公生涯においては、苦難のしもべを生きられることになる。罪人の仲間として歩み、十字架の道行きを選び、私たちの罪を負い、罰せられ、打たれ、苦しめられ、血を流し、虫けらにも等しい姿で死んでいかれる。だが、ご存じのように復活され、天の御座に着座された。そして、やがて神の国が完成する時、主イエスは本来の尊厳と威光に満ちた力強い姿で、王の王、主の主として全世界に来臨されることになる。それをキリストの再臨と呼ぶ。しかし、初めの来臨であるこの時は、罪人と一体となり、十字架にかかることが目的であられた。主イエスのバプテスマは、罪人との一体性を象徴している。それにしても、罪がないお方なのに、なんというへりくだりだろうか。罪がありながらも、高慢になり、人をさばき、自分を何様だと思っているかのようにふるまう人間とはえらく異なる。

次に、主イエスが受けられたバプテスマは、罪人との一体性を表すだけではなく、私たち神の子の代表としてのバプテスマでもあった。聖書はキリストを信じる信仰によって誰でも神の子とされると約束している。「しかし、この方を受入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった」(ヨハネ1章12節)。私たちの罪の身代わりに十字架についてくださった主イエスを、私の罪からの救い主と信じるならば、誰でも神の子とされる。主イエスは、その神の子たちの長子である。「神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです」(ローマ8章29節)。神の子の長子がバプテスマを受けたのだから、神の子とされた私たちもバプテスマを受けるのは当然のことなのである。

主イエスのバプテスマ時に聖霊が鳩のような形をして降ったわけだが、聖書は、信じて神の子とされている者のうちには聖霊が住んでいると繰り返し教えている。「そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました」(ガラテヤ4章6節)。だから、この場面で主イエスに聖霊が降ったというのは、主イエスが救い主であることが証されたというだけでなく、神の子となる者はだれでも聖霊を受けることをも暗示している。

さて、今日、皆さんに知っていただきたいことは、神の子とは神にとってどういう存在なのかということである。それは天からの声でわかる。「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」。今日は、この御声を心に染みとおらせていただければ幸いである。私たちもキリストにあって神の愛する子どもであり、神にとっての喜びなのである。

私たちは、天の神を心から父として認識しているだろうか。聖書を読めば、主イエスは神について口にするときや、祈りの呼びかけは「天の父」ということばを使っていることがわかる。また、どのように祈るのか教えた主の祈りでは、「父」と呼ぶように教えている。天の神を父と認識しなさいというのが主イエスの教えである。その父は、「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」と言ってくださるお方である。これを私たちが心から受け止めると、どうなるだろうか。

私の場合は、青年時代、自分は何もできないし体も弱いし、生きている価値がない、と沈み込んでいたとき、神は何かができるできない関係なく、このままの自分を愛してくれているんだとわかり、それが人生の転機となったことを覚えている。自分の容姿や肩書の不満に突き動かされたり、人の評価で振り回されたりという人は多いと思うが、「わたしの愛する子」という呼び声を心から受けとめると、そういうことで心がジェットコースターにならないようになる。一喜一憂しない。つまり、心が安定するということである。セルフイメージが健全になるということである。わりに能力が高くて社会的地位もある人たちが、以外にもセルフイメージが低いと言われている。神に愛されているということがセルフイメージの土台としてない場合、自分はできる者だと周りに証明し、自己価値を高めることでしか満足は得られない。自分の能力、人よりも抜きんでた成果、はたまた道徳的行動、善、そういったものをセルフイメージの土台にしようとする。とすると、年中、恐れ、不安がつきまとう。ちょっとしたことで、築き上げた自己像はガラガラと崩れ去る。それでまた、人の称賛を求めることにやっきとなり、自分を認めない人を非難してみたり、孤独にも陥りやすい。

私たちは生活問題で悩むこともあるが、主イエスは衣食住に関して、「あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます」(マタイ6章32節)と教えて、不必要な思い煩いに沈むことがないように諭している。

ある方は、神の子とされているということのすばらしさを言い表して、「それに比べれば、その他もろもろの、病気、借金、仕事も瑣末なものに思えてくる。・・・人に対して、艱難の中で忍耐を、近親者との死別に際し平安を、悲しみの中で揺るぎなさを与える。悪い知らせの中でも不安に陥らせず、どんな状況でも満足を得させる。なぜなら心の安定性が与えられているからだ」と言っている。まさしくそのとおりである。私たちは、自分が神に愛されている子どもであるということを、しっかり受け止めたい。

天の父の愛を知らないこの世の人たちは、心の隙間を、この世の何かで埋めようともするのも良くあることである。依存症などもそうした問題から起きてしまう。基本的欲求は過度になり、食べ物、飲み物、性愛、その他のもので心の隙間を埋めようとするが、満たされるのは一時のことで、同じことの繰り返しになる。やはり、心に安定はない。罪を繰り返すことになるので、心はやがて疲弊してくる。

次のような話がある。70歳になった老人の逸話である。もう父親は他界していない。だが天の父を知っていた。彼はいつもやっているように、寝る前に天におられる父なる神に向かって、「天のお父さま、そこにおられますか」と聞いた。すると力強くはっきりと、「そうだ。息子よ、ここにいるよ」という声が心に響いてきたそうである。

私たちが、自分は神に愛されている神の子どもであり、神にとっての喜びであることを受けとめることができると、心が安定するというだけではなく、積極的には、父なる神を悲しませることを避けようという思いが強くなり、神の願われるように生きたいという思いが強くなる。お仕置きが待っているから我慢してやりたいことをやらないとか、良い点を取らないと認めてもらえないから努力するとか、そういうことが行動の動機となるのではない。ただ単純に神の愛にとどまるとき、意識の中心には神があり、心の視野の前面には神があり、神に満足し、神の願われるように生きたいと思うようになる。一つ一つの事柄にも、神のみこころはどこにあるのかを考えるようになる。そうした歩みの中で、未熟ゆえの問題を起こしてしまうこともあるが、「わが子よ、主の懲らしめを拒むな。その叱責を嫌うな。父がいとしい子を叱るように、主は愛する者を叱る」(箴言3章11,12節)、こうした主の懲らしめも、へりくだって受け止められるようになる。

神の子にとって大切なことは、「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」を心の底から受け止めることである。しかし、そうさせまいとする敵がいる。悪魔である。今日は詳しく見ることはしないが、4章に入ってすぐ、荒野の誘惑の記事がある。神の子である主イエスに対する悪魔の誘惑である。3節をご覧いただくと、「あなたが神の子なら」と呼びかけられ、誘惑されたと知る。9節も「あなたが神の子なら」と誘惑されている。悪魔は主イエスに、神があなたを愛しているのか証明するように要求している。神はあなたをほんとうに愛しているのだろうか、と疑いを生じさせて、証明してみるように誘惑している。しかし、神の愛を信じきっているならば、証明などする必要はない。表面的に自分の思い通りにうまくいっていなくとも、「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」という事実は変わらない。神の愛を信じきって、試練の時も過ごし、悪魔の誘惑をはねのけることができる。

今朝、「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」という御声を心静かに一人ひとりが聴こう。「あなたはわたしの愛する子」、これを原文の意を汲んで意訳すると、「あなたはほんとうにわたしの愛する子」「あなたはかけがえのないわたしの愛する子」。そういう愛情表現である。また「わたしはあなたを喜ぶ」は、「わたしはあなたでいい、いや、あなたがいい」というおことばである。「あなたでがまんする」ではない。「あなたでなければならない」である。

私たちはただの人であって、ただの人ではない。ただの罪人であって、ただの罪人ではない。偶然たまたま生を受けたという大勢の中のひとりというのでもない。それで、ただ生きていくことに意味があるのではない。神に愛されている神の子として生きていくことに意味がある。主イエスはその先陣を切った。だから、私たちは、主イエスを通して、神の子とはどのような特権に与り、またどのように生きていくべきものなのかを知っていくことができる。私たちもキリストをとおして神の愛にとどまり、神の子としての階段を一歩一歩踏み上って、神の子として成長していこう。