ローマ書8章は「肉」ということばが11回登場している。ある牧師が、うちは肉的伝道をしている、と話してくれたことがある。どういうことかと思ったら、焼き肉パーティを開いて、そこに一般の方をお誘いするのだ、ということだった。確かに、それはそれで肉的である。だが肉的クリスチャンとなると、それはまた別の話となる。

「肉」は肉体をもつ人間の人間存在を表す用語である。肉それ自体は悪いものではない。だが弱くて、もろい。疲れを覚える。傷を負う。休み、睡眠をとらないともたない。また飲み食いしないともたない。お腹が空き、喉が渇き、暖かさを求め、涼しさを求め、その他、様々な欲求をもつ。それ自体は悪いものではない。だが罪の欲望に変質する弱さがある。アダムとエバが、まさしくそうだった。神さまに、善悪の知識の実から取って食べてはならない、と命じられていた。しかし、蛇の誘惑によってそれは罪の欲望に代わり、「おいしそうに見える、これを食べると神のように賢くなれる」、そして取って食べてしまった。こうして神の定めたルールを破り、罪を犯した。その結果、アダム以来、人の肉に罪が住みつくようになった(7章17節)。人の肉に罪が寄生してしまった。肉はただちに罪ではないが、その中に罪が巣食ってしまった。肉に罪が染み込んでしまった。肉と罪は別々のものではあるが、肉と罪は密接に結合し、一つであるかのような存在となってしまった。肉は神の律法を守らせない。結果として私たちが受けなければならないのは有罪宣告と死刑宣告である。それが8章1節の「罪に定めること」の意味だった。そして実際、処罰されるわけである。

このような私たちを救うために、キリストは罪深い肉と同じような形でこの地上に来てくださった(3節)。「罪深い肉と同じような形で」の直訳は、「罪の肉と同じ形で」、あるいは「罪の肉と同じような形で」となる。「同じ形で」あるいは「同じような形で」と訳されていることば<ホモイオーマ>は、「そっくりそのままのもの」「同じ姿、形」または「同じような姿、形」という意味をもつ。訳としては、「同じような形」でもいいのだが、「同じ形」がより良いとも言われている。協会共同訳は「同じ姿」と訳している。このように、「罪の肉と同じ姿形で」となると、キリストは罪人のひとりであると受け止めていいのだろうか。前回お話したように、キリストは「罪を知らない方」(第二コリント5章21節)と言われているように、キリストの肉のうちには罪はない。そこが私たちの肉との違いである。「罪を知らない方」の「知る」ということばは、体験的に、経験的に知ることを意味することばだが、キリストは罪を知らなかった。だがキリストは罪以外のことで、私たちと同じ人間存在にならなければならなかった。パウロはできうる限り、キリストを私たち人間と同じ姿形で描写しようとしている。罪人と疑われかねない、ぎりぎりの責めの表現をしている。このようにしてキリストは、私たち罪人の代表、肉の代表、また身代わりとなって、そのきよいいのちを十字架に献げ、罪から救うみわざを成し遂げてくださった。

キリストを信じる者に与えられるのが、キリストの御霊である。信仰生活の勝利の秘訣はこの御霊にある。お話の冒頭で、ローマ書8章で「肉」ということばが11回登場していると言ったが、「御霊」ということばは20回登場し、パウロの強調がどこにあるかがわかる。パウロは7章では、「御霊」ということばを6節で一回使用したのみである。7章7節以降、御霊ということは一旦わきに置いておいて、罪人としての今ある私、肉の私は、いかにみじめで、律法の要求には応えられず、罪しか犯しえない存在なのかを語ってきた。パウロほどの人物でも、御霊に心を向けなければ、ただの肉の人であることには変わりなく、罪に対する敗北者で終わる。それは私たちも同じである。

私たちはこの地上にある限り、肉に悩まされる。肉は肉としてあり続けるからである。だが、そこだけ見ていては、7章25節後半で、「肉では罪の律法に仕えているのです」と言われているように、罪に屈するだけである。そこで前回は、8章1~4節から「いのちの御霊の律法」というタイトルで、いのちの御霊の力に期待し、ゆだねることを学んだ。今日はその続きである。

では5節を読もう。「肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます」(5節)。パウロは考える領域のことを言っている。何を考えているのか。今日のお昼どうしようか?今晩の夕飯は何にしようか?そういったよそ事を考える以上のことが言われているようである。実は「考える」と訳されていることばの名詞が、6節では「思い」と訳されている。だから、「考えます」を、共同訳は「思います」と訳している。原語<フロネイン>は、人間の生き方や行動を決定する内的な傾向、思い、関心、意欲、望みなどを意味することばである。私たちは、こうした内的な傾向、思い、関心、意欲、望みに突き動かされる。<フロネイン>が使用されている興味深い箇所がある。「イエスは振り向いて、弟子たちを見ながら、ペテロをしかって言われた。『下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている』」(マルコ8章33節)。「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と、ペテロたちは世的、自己中心的、肉的思いに浸っていた。それらに心を動かされ、関心を持ち、そうなるよう望んでいた。神のことは思っていなかった。

私たちが救われる以前は。御霊を受けていなかったので、当然ながら、「肉的なことをもっぱら考えますが」とあるように、肉的な思いに浸っていた。私たちが救われる前は、肉的な思いに支配されていた。けれども、それが肉的とすら気づいていなかった。偶像を拝んでも何ともなかった。人を蔑視して裁いても、自己中心であっても、それを正当化できた。汚れた卑しい欲望を抱いても、自然の欲求と思えていた。むさぼりをむさぼりと思わなかった。ずるさも知恵と思っていた。人は汚い臭い部屋にいても、時間が経てばそれに慣れてしまうと言われている。私たちは罪が染み込んだ肉の世界に慣れてしまっていた。悔い改めも心に思い浮かばないほどだった。肉の思いに浸っていた。だが、キリストを信じたときに、変化が生まれた。それまでは罪とも何とも思っていなかった事柄が罪と思えるようになってきた。また大したことがないと思っていた罪も大きなものとして認識するようになった。自分は短気ではないと思っていたけれども、実は短気なのだとも気づかされるようになった。救われてからのほうが、自分は罪深いと思えるようになった。これは健全な変化なのである。

私が大学一年で信仰をもった時、信仰をもったら、自動的に罪について何も悩まなくなるかのように勘違いしていた。ところが信仰をもった後は、信仰をもつ前以上に、罪との戦いで大変になるのだと、実体験で気づくようになった。心の中はジェットコースターのように、上がったり下がったり、いったいどうしたことだろうと、頭の中も混乱したことを覚えている。私たちはパウロと同じように、「私は、ほんとうにみじめな人間です」(7章24節)と、クリスチャンになってからも告白するような経験をさせられることになる。また、神の子として成長の途上なので、罪認識もまだまだ甘く、あとになってからようやく、あれは罪だったんだと、遅れて気づく鈍さを露呈することがある。しかしながら、罪であると気づきが与えられる、悔い改めが生まれる、ということは、それ自体が救われている証拠である。ただ、パウロは、罪に気づきなさい、罪に気づいたら悔い改めなさい、というだけではなく、もっと積極的に御霊に従うことを学ばせたいわけである。

では、「御霊に属することをひたすら考えます」の御霊に属する考え、思いとは何だろうか。先ほど参考に挙げた、キリストのことばを受け止めようとしなかったペテロへの叱責のことを考えると、御霊に属することとは、キリストとキリストのことばに属することと言えるし、神の国とその義とをまず第一に求めることと言えるだろう。私たちは、それまで、自分の安泰とか、自分の幸せとか、自分、自分で、自分のことにしか関心がなく、神の栄光のためにとか、キリストの御名があがめられるためにとか、神の国の前進のためにとか、そういう思いはなかった。でも、そうした思いが信仰をもってから芽生えてきた。神さまへの賛美も、感謝も生まれてきた。また御霊に属することとは、前節の4節から、律法の要求にかなうことであることがわかる。律法とは神のみこころである。神のみこころは大事である。みことばを通して、それを思い巡らすことになるわけである。生活の一場面、一場面で、みこころに生きることを考えるようになるわけである。私たちは確かに御霊に属することを考えるようになった。思うようになった。ただそれが、ひたすらにか、常にかどうかは別としてである。相変わらず、肉的なことをもっぱら考えてしまうことがある。だから、自分の心を見張ることが習慣として必要になってくる。私たちは、お祈りしているとき、雑念が入ってくると、それを意識的に振り払うということがある。問題は、それ以外の普段の時に、生活の場で、何を考え、何を思っているのか、である。

「肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です」(6節)。肉の思いと御霊による思いは正反対であることを示す文章構造、また内容になっている。死といのちの対比が見られるが、肉の思いは死で、御霊による思いはいのちというのは、どういうことだろうか。「肉の関心と意欲とは死にいたるのみでなく、死そのものである。これに反して霊(御霊)の思いはいのちにいたるのみではなく、そのなかに生命がやどり平安がある」(松木治三郎氏)。

肉の思いはなぜ死なのだろうか。それは7節からわかる。「というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは、神の律法に服従しません。いや、服従できないのです」。「肉の思いは神に対して反抗するものだからです」を、新改訳2017では、「肉の思いは神に対して敵対するからです」と訳している。以前、死とは神との分離であることをお伝えしたが、神に敵対する思いは死でしかない。その思いは、また、律法に服従しない。先に、御霊に属する思いとは、律法の要求にかなうことであることをお話した。ならば、肉の思いは、律法に服従しない思いなのである。そこに平安はない。罪の欲望を満たす楽しみはあっても、平安はない。「御霊による思いは、いのちと平安です」とあったが、「平安」とは、神との平和、神との和らぎに基づくものである。神に敵対し、神の律法に服従しないでいたら、当然、この平安はない。8節では「肉にある者は神を喜ばせることができません」と言われているが、神を喜ばせていないので、平安はない。平安はあくまで神との関係性によるものである。

さて、私たちは御霊と肉に対して、どう向き合えばいいのだろうか。私たちは、御霊と肉の狭間でもがいているような存在として自分を位置付けてしまいたくなる。確かに肉との格闘、罪との戦いは生涯続く。だからもがきがあり、それをパウロは7章で記した。だが、パウロはそれを汲み取らせた上で、9節において、私たちが心に留めなければならない霊的立場を教えている。「けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません」。まず「御霊の中にいる」という表現に注目してほしい。パウロはこれを肉的クリスチャンに対しても言っているのである。肉的クリスチャンであっても、神の真理を受け入れ、キリストを信じ受け入れているならば、「御霊の中」にいるのである。パウロは7章14節で、自分のことを「肉の人」(「罪ある人間」の直訳 新改訳2017「肉的な者」)と呼んだ。罪人の私としては「肉的な者」にしかすぎないのだが、霊的な立場は、肉の支配から解放されて、御霊の中にいるのである。またパウロは、御霊は私たちのうちに住んでいるという表現も取っている。9節に、「もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら」とある。また11節を見ていただくと、「あなたがたのうちに住んでおられる御霊」という表現がある。御霊の内住である。御霊の中にいるということも真実であるし、御霊が住んでいるということも真実である。こうして私たちは、御霊に支配され、御霊に導かれて生きることが許されている。その御霊とは9節後半で言われているように、「キリストの御霊」である。

このキリスト御霊は、2節では「いのちの御霊」と言われていたが、御霊は生かす御霊なのである。そのことが10,11節で言われている。まず10節を読んでみよう。「もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が義のゆえに生きています」(10節)。ここで押さえておくべきポイントは、御霊は霊のいのちとなった、ということである。だが待てよ。人間とはからだあっての人間なのだから、この死ぬべきからだも生かしてもらわなければだめじゃないか、という声も聞こえてきそうである。心配ご無用である。11節をご覧ください。「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです」。霊もからだも生かす。これがいのちの御霊の働きである。

では、いつ死ぬべきからだを生かしてくださるのだろうか。すなわち、よみがえらせていただけるのだろうか。それはキリストの再臨の時である。「神は主をよみがえらせてくださいましたが、その御力によって私たちをもよみがえらせてくださいます」(第一コリント6章14節)。「私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは万物を御自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、御自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです」(ピリピ3章21節)。キリストの再臨の時に、死のからだも贖われる。キリストの栄光のからだと「同じ姿」<ホモイオーマ>に変えられる。キリストは私たちのような、罪深い肉と「同じ形」<ホモイオーマ>をとってくださったが、今度は私たちのからだが、キリストの栄光のからだと「同じ形・姿」<ホモイオーマ>に変えていただける。

この日が来るのを待ち望みつつ、私たちは、この地上での歩みにおいて、御霊に従うのである。御霊に従うことについては、次週具体的に考えるが、今朝覚えたいことは、御霊と肉の狭間で右往左往している自分というイメージから始めないようにしたいということである。御霊と肉を語るのに、白い犬と黒い犬のイメージが用いられることがある。白い犬が御霊で、黒い犬が肉。両者は対等で、どっちが勝ってもおかしくはない。私たちは白い犬と黒い犬の間にいる。どっちが勝つかは、私たちがどっちの犬にエサをやるかで決まるというもの。どっちを応援するか、でもいいだろう。わかりやすいたとえにも思えるが、聖書が語る前提を思い起こそう。私たちは、御霊と肉の狭間にいるわけではない。8章9節で言われているように、「あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです」とあるとおりである。私たちの霊は引っ越した。空気が汚れていて光化学スモック注意報が発令されるような地域から、空気が澄んでいて青空が高く突き抜けるような地域に引っ越したようなものである。また9,11節で言われているように、御霊が「あなたがたのうちに住んでおられる」とあるとおりである。私たちはすでに、御霊の支配にある。このことを意識するのとしないのとでは、全然違う。このキリストにある霊的環境を意識すると、安心感が生まれ、信仰生活の空気感が変わってくる。御霊に従うライフスタイルが身についてくるだろう。私たちは御霊の中にいる。肉の中にはいない。次回は私たちが御霊の中にいることを覚えながら、御霊に導かれて歩むことを、ご一緒に学ぼう。