今日の記事は、アブラハムの人生で安息が与えられた期間である。アブラハムは、生まれ故郷であるカルデヤの地ウルから未知の世界へと冒険に旅立った。行く先々で様々な出来事と遭遇することになる。親類とのいざこざ、異教の王たちとのいざこざ、戦いへの参戦、子どもが与えられない苦悩、家庭内のいざこざ等。これでアブラハムの悩みが終わったわけではない。22章に進むと、「最大の試練」とタイトルをつけることができる試練に遭遇することになることがわかる。しかし、ここ21章では、安息の期間とも呼べる場面となっている。

待望の約束の子イサクが与えられた。神はアブラハム一族に喜びの笑いを与えられた。そして神は女奴隷のハガルと、その子イシュマエルをアブラハムたちから遠ざけ、家庭に平和を与える。そして今日の場面では、肥沃な地で神に祝福されて比較的平和に過ごすアブラハムの姿を見ることができる。アブラハムがこの時滞在していたのは、中東にある海岸から内陸へと伸びている、良く肥えた土地であった。ここは大所帯の一族を養い育てるのには適した地であった。低地には水が流れているので、一年中いつでも、多少でも掘ると水が出てきた。その地は31節で「ベエル・シェバ」と呼ばれることになる。この地は、死海の南端と地中海の中間にある場所である。イサクはこの地で成長し、少年時代を過ごしていく。

神さまは、私たちにもこのような安息の期間というものを下さる。比較的平穏な時期である。アブラハムの場合、それは100歳に訪れ、それは10数年続いたようである。アブラハム、妻のサラ、ひとり子イサクと、家庭的にも平安な時代であっただろう。取り立てて大きな問題も起きなかったようである。これも神の恵みである。

その頃の出来事として、今日のアビメレクとのやり取りがある。22節の「アビメレク」はここが最初の登場の場面ではなくて、20章1~18節で登場していた。彼はアブラハムが大変な迷惑をかけてしまったペリシテ人の王様で、ゲラルという地に住んでいた。アブラハムはその地に滞在中、自分の身を案じて、妻サラを妹と偽った。何も知らないアビメレクはサラを召し入れ、危ういところでサラと関係をもってしまうところであった。もうそうしたら、アビメレクは神から死のさばきを受けるところであった。アビメレクは神に警告を受け、この行為に及ぶことなく事なきを得たが、その時、アビメレクはアブラハムに言っている。「あなたは何ということをしてくれたのか」(20章9節)。でも、今日の個所ではそのようなことは言われていない。「あなたは何をしても、神はあなたとともにおられる」(22節)。これは非難ではない。ほめことばである。しかも異教の王様からのことばである。「あなたは何ということをしてくれたのか」とかつて言われてしまったアブラハムは、ここに来て面目躍如、名誉挽回である。

もし、この世の人の口から、私たちクリスチャンを見て、「神さまがあなたとともにいてくださるんだね。神さまがそうしてくださったんだね」ということばが出たら、それはすばらしいことだと思う。クリスチャンになることを反対していた家族や、怪訝な顔で見ていた知り合いから、この人の神さまは生きておられると評価をいただいたら、嬉しいことはない。

アビメレクは、この人には神がともにおられる、神の祝福にあずかっていると確信し、アブラハムと契約を結びに来たようである。神の祝福は目に見えるかたちでアブラハムに与えられていた。アブラハムは神の祝福によって、その地方で一目置かれる存在になっていたようである。アビメレクは、この男と契約を結んだほうが得だと考えた。アブラハムは王ではなかったが、アビメレクと対等に渡り合うほど、アビメレクを恐れさせる存在になっていた。だがアブラハムは自分は何者かのように勘違いすることはせず、すべては神のおかげ、神の恵みと認識していたに違いない。

アビメレクはアブラハムに対して、神による誓いを求めている。「それで今、ここで神によって誓ってください。・・・」(23節)。アビメレクは「あなたに尽くした真実」ということばを出しているが、これは20章14節以降で、妻のサラを返し、家畜の群れ、奴隷を与え、またサラの身を守るために銀千枚を与えたことを言っている。アビメレクは、私があなたに尽くした真実にふさわしく、あなたも私に真実を尽くしてくださいよ、と誓いを求めている。アブラハムは受けた真実を踏みにじるようなことをするつもりは最初からない。アブラハムは24節で、「誓います」と、先ずは堅い口約束をしている。

この流れで、アブラハムはアビメレクに一つの抗議をすることになる。井戸についてである(25節)。どうやらアビメレクのしもべどもに井戸が奪われたことがあったらしい。井戸水は人間と家畜の生存にとって欠かせないものである。水の少ない地域では、この井戸が奪われるというのは大きな痛手である。26節を見ると、アビメレクは、「だれがそのようなことをしたのか知りませんでした」と弁明しているが、「それにあなたもまた私に告げなかったし」というフレーズが心に留まる。アブラハムは井戸を奪われても訴えずにこらえていた。アビメレクのしもべたちの悪に対して寛容な態度を取っていたことがわかる。もしかすると、過去、自分がアビメレクの家に迷惑をかけてしまったことが頭にあったのかもしれない。アビメレクたちはアブラハムのせいで、死の恐怖を味わった。またアビメレクの家の女性たちは一時期不妊の胎になってしまった。多大な迷惑をかけたアブラハムである。だからアブラハムは、井戸を奪われて困ったことになっても、ぐっとこらえていたのかもしれない。彼はこれまで、感情的になってこの問題を解決しようとはしなかった。そして、「神のなさることは時にかなって美しい」で、解決する時が来た。アビメレクのほうから訪れてくれた。アブラハムはこの機会を生かしたのである。アブラハムはこの時、政治的にはアビメレクの支配していた地域に住んでいた。アビメレクの居住地ゲラルから東南方面、約30キロの地点に住んでいた。ここもアビメレクの支配地域だった。しかしながら、井戸を掘った場合、掘った人がそこから水を汲む権利があるというのが当時の常識だった。アブラハムはその権利を主張しているわけである。

24節で「ふたりは契約を結んだ」とあるが、アブラハムは契約の締結に際し、井戸のことも意識した行為に出ている。七頭の雌の子羊をアビメレクに差し出している。「アブラハムは、『私がこの井戸を掘ったという証拠となるために、七頭の雌の子羊を私の手から受け取ってください』と答えた」(30節)。アビメレクがこの七頭の子羊を受け取るということは、アビメレクにとって、井戸はあなたに返還しますよ、もう井戸を奪ったりしませんよ、あなたに対して今後も真実を尽くしますよ、という誓いにもなるわけである。こうした互いに真実を尽くすという誓いを、ことばでも形でも表し、契約は締結した。この契約は言い換えると、「平和条約」ということになろう。お互いの間で真実を尽くし、平和な関係、友好関係を築こうというもの。まことにこれは、アブラハムの安息の期間の象徴である。

31節で、「それゆえ、その場所はベエル・シェバと呼ばれた。その所で彼らふたりが誓ったからである」とある。「ベエル」が「井戸」、「シェバ」が「七」を意味する。「ベエル・シェバ」の意味は、字義通りには「七つの井戸」となるが、この場面では「誓いの井戸」と読むことができる。「誓い」というへブル語は、実は、聖書の完全数である「七」から派生したことばである。「七頭の雌の子羊」の「七」も、この誓いを意識していると思われる。「七」は誓いの数字である。

このベエル・シェバはアブラハムのホームベースとなる地である。神さまは安心して住める地をこのようにして用意してくださった。このことを心に留めておきたい。アブラハムはこのことを感謝して、記念の植樹までしている。「アブラハムはベエル・シェバに一本の柳の木を植え、その所で永遠の神、主の御名によって祈った」(33節)。記念の植樹はこのように古代から行われていた。「柳の木」と訳されている木は、砂地でも良く育つ落葉樹で、高さ6メートルにもなる。小さな葉は塩分を分泌する。樹皮は皮なめしに用に使用され、幹は建物に使用され、また木炭に加工して使用された。さらに伸びた枝葉は家畜に陰を提供した。けれども、ここではそのような目的で植えたのではない。アブラハムはこれをアビメレクとの契約の証として、また神さまの恵みに対する感謝の証として植樹したのである。

アブラハムが植樹に際してしたことは祈りである。「その所で永遠の神、主の御名によって祈った」(33節後半)。ここで「永遠の神」が意識されている。「永遠」は神の本性である。神は時間の制約を受けずに、とこしえからとこしえまで生きておられるお方である。この永遠の神が万物を設計し、創造し、支配し、万物に秩序を与え、この歴史を初めから終わりまで導いておられる。古代人は柳の木の姿に宇宙の秩序を感じ取ったとも言われているが、その秩序、法則というものを定められたのは、永遠の神である。

では後半は、「永遠の神」についてもう少し説明を加えさせていただきたいと思う。実は「永遠の神」とは、神は永遠に存在するという程度の意味ではない。「永遠」と訳されているヘブル語<オーラーム>であるが、<オーラーム>が使用されている旧約聖書の個所を二箇所、紹介しよう。「主は遠くから、私に現れた。『永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた』」(エレミヤ31章3節)。神の愛は途絶えることなく、色あせることなく、変わらない。恒久的なものなのである。「誠実を尽くし続けた」ということばがそれを表している。永遠の愛というのは本当にある。それをお持ちなのが神さまである。

「主は、ご自分の契約をとこしえに<オーラーム>覚えておられる。お命じになったみことばは千代にも及ぶ。その契約はアブラハムと結んだもの、イサクの誓い」(詩編105編8,9節)。神はアブラハムと結んだ契約を忘れはしない。神は15章において、アブラハムと契約を結ばれた。アブラハムが「永遠の神、主の御名によって祈った」というとき、この15章で神ご自身と結んだ契約が念頭にあったはずである。神さまはアブラハムに満天の星空を仰がせ、あなたの子孫はこのようになると約束し、また彼が遊牧生活を送っていたカナンの地を所有することを約束された。彼は今、カナンの地で一片の土地も所有していないし、後継ぎもようやく一人生まれたにすぎない。この地をあなたの所有として与える、あなたの子孫は天の星の数のようになる、という約束の実現はまだ見ていない。だが神はアブラハムと結んだ契約をとこしえに覚えておられる。その契約は永遠に不変である。破棄されたりすることはない。必ずその通りに成る。こうしたことの意識が、「永遠の神」という呼び名を使わしめたと言えよう。アブラハムの意識は永遠の神ととともに遠い先々の世界にまではばたいていたと言えるだろうし、今という時を永遠の神の視点から見ていたとも言えよう。

私たちもまた「永遠の神」ということを意識すべきだろう。私たちは余りにも目の前の事柄にだけ、がんじがらめに縛られてしまいやすいかもしれない。そして一喜一憂を繰り返すことになる。現状を見て明日が必要以上に心配になり、神の約束も信じられなくなり、翼をもぎ取られた渡り鳥のようになってしまう。神さまは17章1節においては、ご自身を「わたしは全能の神である」と啓示され、無力なアブラハムを励まされたが、私たちも神を「全能の神」として意識すると同時に、未来に向かって信仰の翼をはばたかせるために、神を「永遠の神」として仰ぎ見、祈りたいと思う。神の愛も、神の約束も、永遠である。朽ちたり、消え去ったり、途中で終了したりしない。この世の保険や何かの契約のように、中身が途中で変わったりしない。

最後に、キリストを永遠の神として啓示している新約聖書の個所を開いて終わりたいと思う。最初に、黙示録1章8節を開こう。「神である主、常にいまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者がこう言われる。『わたしはアルファであり、オメガである』」。ここは誰について言われているかというと、文脈を見れば、それは後に来られる(再臨される)主イエス・キリストについてであると言えよう。黙示録は、1節で「イエス・キリストの黙示」とあるように、キリストの啓示が記されている書なのである。7節で「見よ。彼が雲に乗って来られる」とキリストの再臨について語られ、そのお方のことばとして、続く8節で「わたしはアルファであり、オメガである」と言われていると解釈するのが自然である。

もう一箇所、黙示録22章13節を開こう。「わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである」。一節前の12節の「見よ。わたしはすぐに来る」という再臨の言及から、13節の「わたしは」とは主イエス・キリストのことであるとわかる。それは疑いようがない。

「アルファ」はギリシャ語アルファベットの最初の文字で、「オメガ」が最後の文字である。「アルファであり、オメガである」は、「最初であり、最後である。初めであり、終わりである」と言い換えられている。キリストは永遠の初めからおられ、永遠の終わりまで存在されるお方であり、全歴史の支配者であり、絶対主権者である。私たちという存在も、この歴史も、永遠の神の前では一瞬の有限な存在にすぎない。神という存在はいつ生じたのか、いつ終わるのかという問いかけがあるが、そのような問いかけは空しい。神は永遠の神である。他の神々の存在も認めるべきだという主張もされるが、このお方は、「わたしより先に造られた神はなく、わたしよりも後にもない」(イザヤ43章10節)と宣言される唯一無二の存在である。「永遠にわたしは在る」と言われる存在である(参照;出エジプト3章14節,ヨハネ8章24,58節)。そのお方とは主イエス・キリストである。主イエス・キリストは全歴史の支配者として、この歴史を支配し、すべての被造物に対して主権を持っておられるお方である。そして私たちの未来も、ご計画のうちに編み出し、一つひとつのことに愛をもって丁寧に関わり、無駄に終わらないように導いてくださる。

それだけではなく、キリストは私たちに永遠の救いを与えてくださる。キリストの救いの約束はその愛とともに、永遠に不変である。キリストは最後の晩餐の席で、「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です」(ルカ22章20節)と、十字架の上で流される血潮が、罪の赦しのための新しい契約のしるしであることを明かされた。この新しい契約は、エレミヤ32章40節において、「とこしえの契約」として預言されている。つまり、キリストは私の罪の赦しのために十字架で血を流してくださったと信じる者は、永遠に救われるのである。

私たちは先々の未来を、テレビ画面を見るように、鮮明に見ることができるわけではない。もちろん、先々の未来を自分でコントロールできるわけでもない。だが私たちを見捨てず、遠い先々のことまでも摂理の御手をもってご配慮くださり、この地上の人生を守り導いてくださり、永遠に完全に救ってくださる方がおられる。私たちは有限でちりに等しい存在にすぎない。だからこそ、永遠の神に、そしてアルファでありオメガであると宣言してくださるお方に、すべてをゆだねて生きていくのである。その時に、「明日のことは明日が心配する」という姿勢でいることができるし、自分が死んでから先のことも心配することはないのである。