すべては神の恵み、そう実感させられるのがアブラハムの生涯である。そして自分の生涯を振り返っても、そう言える者たちになりたいと思う。

今日の物語は、アブラハムに待望の約束の子が与えられた記述から始まる(1節)。主は必ず約束を実現されるお方。主は約束をたがえることのない真実なお方である。アブラハムに子孫誕生の約束が与えられたのは70歳を過ぎてであった(12章4節参照)。そして約束の子が誕生したのは100歳の時であった(5節)。この期間、紆余曲折あった。妻のサラはもともと不妊の女。子どもがいつまで経っても与えられず、焦っていた。アブラハムは最初、有能なしもべを養子にすることを考えたが、神はそれを許さなかった。次に、サラは当時の習慣にならって、女奴隷をアブラハムに差し出して子どもを得ようとした。いわゆる代理妻による子どもの獲得である。その代理妻になったのがエジプトの女ハガルであった(9節)。サラは、高齢の夫が子どもをつくる天然の力が残っているうちに代理妻を差し出してと思ったのだろう。そして生まれたのがイシュマエルであった。それはアブラハムが86歳の時であった(16章16節)。イシュマエルは約束の子ではなかった。100引く86で、アブラハムは神のご計画よりも14年も縮めて、肉の力で約束の子をもたらそうとした。しかし、約束の子はあくまでも、神の100%の恵みで生まれることが証されなければならない。そこに肉の力が入り込む余地はない。アブラハムもサラも、死んだも同然のからだになって、初めて信仰がほんものになった。「アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であること、サラの胎が死んでいることを認めても、その信仰は弱まりませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。」(ローマ4章19~21節)「信仰によって、サラも、すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力が与えられました。彼女は、約束してくださった方を真実な方と考えたのです」(へブル11章11節)。そして生まれた子どもは、100%神の力のよるもの、神のみわざであると証された。

生まれた子どもの名前は「イサク」である(3節)。一年前に、契約の更新の時に、神ご自身がつけた名前である(17章19節)。名前の意味は「彼は笑う」である。イサクは、笑いがキーワードになる男の子である。誕生前に、アブラハムもサラも、この約束の子をめぐって笑っている。アブラハムはサラによって男の子が与えられると告げられた時に笑っている。「アブラハムはひれ伏し、そして笑ったが、心の中で言った。『百歳の子どもに子どもが生まれようか。サラにしても九十歳の女が子を産むことができようか。』」(17章17節)。この笑いを、意外に思っての笑い、唐突すぎての思わずの笑い、その他どう表現しても、信仰の笑いとまでは表現できない笑いである。サラはそれからほどなくして、御使いから受胎告知があった時に笑った「それでサラは心の中で笑ってこう言った。『老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう。それに主人も年寄りで。』」(18章12節)。この笑いは不信の笑いであることはまちがいない。

21章でも二種類の笑いが記されている。最初は6節である。「サラは言った。『神は私を笑われました。聞く者はみな、私に向かって笑うでしょう』。ルカの福音書15章7節には、「ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです」とあるが、イサクが生まれて、神さまは祝福の笑みを浮かべたのだろうか。もう一つの可能性がある。「神は私を笑われました」の直訳は、「神は私に対して笑いを造られた」である。そこから新改訳2017では「神は私に笑いをくださいました」と訳している。新共同訳は「神は私に笑いをお与えになった」と訳している。これらの訳では笑ったのはサラとなる。これは、サラの、喜びの笑い、感謝の笑い、そう受け取れる。そうすると、6節後半の「聞く者はみな、私に向かって笑うでしょう」は、軽蔑の笑いや苦笑いではなく、アブラハム夫婦と喜びと感謝をともにする笑いと解釈できるだろう。私たちも、このような笑いを目にしてきたのではないだろうか。パウロは、キリストを信じ、救われ、神の子どもとされた者たちを、「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子なのです」(ガラテヤ4章28節)と言っている。私たちが信じ神の子どもとされた時、周囲には笑顔があったのではないだろうか。「良かったね~、おめでとう」と。

もう一つの笑いが8,9節である。「乳離れ」は2歳頃かと思っていたが、当時は3~4歳が一般的であったと言われている。この時、イサクを笑ったのがイシュマエルである。「からかっている」は欄外註にあるように、別訳は「笑っている」である。原文では「笑う」の強意形となっている。ここでの笑いはバカにする意味での笑いである。この頃、イシュマエルは17~18歳になっていた(17章24,25節参照)。イシュマエルは、自分が長子として祝福を受けるはずであった。跡取りになるはずだった。けれども、自分の権利はイサクに奪われた。このチビ助、憎ったらしい!イサクに対する嫉妬があったことはまちがいない。母親ハガルの感情が息子に乗り移ったのかもしれない。

サラは、イシュマエルの悪い態度を見てがまんできなくなり、アブラハムに対して、ハガルとイシュマエルを追い出してください、と願い出る(10節)。サラは以前、自分の提案でハガルをアブラハムに差し出して跡取りを得ようとした過去があった。そうして生まれたのがイシュマエルであった。そして今、10年以上にわたり跡取りとして考えて来た男の子を、今度は追い出してほしいと願う。何ということだろうか。年老いて生まれた約束の子は可愛かっただろう。その子がいじめられているのを見て黙っていることはできるはずはない。心情としてはわかる。完全な跡取りができたということにおいて、イシュマエルに期待するものは何もないということも真実。サラの提案から、サラの愛情は完全に、イシュマエルからイサクに移っていたことが読み取れる。

アブラハムはサラの身勝手にも思える提案をすぐには受け入れることができなかった。「このことは、自分の子に関することなので、アブラハムは、非常に悩んだ」(11節)。イシュマエルも自分の子どもである。自分たちの都合で追い出す選択など、そうやすやすできるわけがない。「非常に悩んだ」の直訳は、「彼の目には非常に悪であった」。自分たちの都合で無碍に追い出すことは悪いと悩んだだろうし、ハガルを放り出すことも悪いと考えただろう。かつてサラがハガルをいじめて、ハガルがいじめの辛さから家出した過去があった。こうした過去のことも思い巡らしていたはずである。人として、またイシュマエルの父親として、イシュマエルとハガルを不憫に思う気持ちも強かっただろう。しかしまた、サラも強固に提案してきたにちがいない。

アブラハムは神さまに対して、私はどうしたらいいですかと、祈ったはずである。神さまは、イシュマエルとハガルはわたしが引き受けると言わんばかりに、サラの願いを受け入れるように告げられる(12、13節)。13節の「しかしはしための子も、わたしは一つの国民としよう。彼もあなたの子だから。」のことばは、アブラハムを安心させたはずである。ああ、神さまが二人を守り、祝福してくださるのだと。

そして覚えておきたいことは、神さまがサラの願いを聞き入れるように語られたのは、サラの苦々しい感情から来る願いが正しいからではなく、イサクとイシュマエルに対する神のご計画があるからである。12節に「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるからだ」とある通りに、イサクが約束の子であって、イシュマエルは奴隷の子で相続権はない。ガラテヤ人の手紙4章では、イサクは、キリストを信じ御霊によって生まれ、神の子どもとされた信者の型とされている。それに対してイシュマエルは、肉によって生まれた者の型、すなわち救われていない者の型であり、神の国の相続権がない。同4章29節では、「肉によって生まれた者は御霊によって生まれた者を迫害した」とあり、今日のからかい物語が意識されている。霊的共通点がないことは、分離に至るのが必然なのである。

しかし、このあと見るように、神さまは約束どおり、イシュマエルを見捨てることはしない。神はイシュマエルを助け、一つの民族として栄えさせることになる。14節以降、ハガルとイシュマエルの旅立ちの記事である。当時、奴隷とその子が自由の身となる場合、相続の分配には与れなかったらしい。二人はわずかなものだけが与えられ、旅立つこととなった。荒野の旅で、二人は脱水症状に陥ったようである。飢餓、脱水というときに、男性のほうが部が悪い。男性が先に亡くなる場合が多い。脂肪の蓄えが少ないので。イシュマエルは完全にダウンし、脱水症状も極限に達し、もう死を待つしかないと思われた。その時、神はイシュマエルの声を聞かれた。神の使いは、天からハガルに呼びかける。「ハガルよ。どうしたのか。恐れてはいけない。神があそこにいる少年の声を聞かれたからだ」(17節)。「イシュマエル」の名前の意味は「神は聞かれる」であった。この名前は、みごもっていたハガルがサラにいじめられて家出した時に、主の御使いがつけてくれた名前である(16章11節)。神はハガルの苦しみの声を聞いてくださっただけではなく、今、息子本人の苦しみの声も聞いてくださった。そして、神はどうしてくださっただろうか。一つは未来の祝福を約束してくださったということである。「行ってあの少年を起こし、彼を力づけなさい。わたしはあの子を大いなる国民とするからだ」(18節)。そして、今すぐの必要にも答えてくださった(19節)。さらには、平常的に、いつも、彼とともにいてくださった(20節)。このあわれみを一般恩寵と言ってもいいかもしれないが、それを越えているといって良い。一般恩寵とは、「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるのです」(マタイ5章45節)というような恵みを指している。しかし、ここでは、アブラハム夫婦の被害者とも言える二人の立場をおもんぱかって、二人の生活を支えようという特別な神の御自愛を見る。非常に悩んだアブラハムも、イシュマエルが元気でいるといううわさをあとで聞いて、慰められたはずである。

私たちの人生は教科書どおりにいかない。信仰の父と言われるアブラハムの人生にしてそうである。アブラハムは神さまの命に従って故郷を離れ、約束の地に入ったのはいいけれども、妻のサラを妹と偽って二度も危険な目に合わせた。まちがったリーダーシップの発揮である。サラは奴隷の子を我が子にしようとする計画を企て、アブラハムをその計画に引き込んでしまう。サラは子どもが与えられないことでヒステリーを起こしていたが、続いてハガルやイシュマエルのことでヒステリーを起こしと、度々アブラハムを戸惑わせた。母ちゃん恐いである。ハガルはイシュマエルが生まれた時、態度がでかくなってサラを怒らせ、サラは仕返しにハガルをいじめた。女同士の確執である。一家の関心を一気に失ったイシュマエルは腹いせからイサクをからかった。兄弟の不仲である。それがもとでイシュマエルとハガルは追放となり、一旦は死を覚悟した。命の危険である。このように、聖書は、アブラハム一家の汚点を正直に書いている。信仰の父祖と言われるアブラハムの家庭もこんなだったと、皆さんは慰めを得るだろうか。

注意深く聖書を読むと、こうした家庭の問題にあって、どの問題においても、神が介入してくださっているということがわかる。尻拭いをしてくださっているという場面もある。事が大事に至らないようにと、当事者たちに関わってくださっている。ハガルがさらにいじめられて逃げ出したときは、「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい」とハガルを諭している。つまり、二人の間の仲介役を担ってくださった。今日の場面でも、事の顛末が最悪にならないように、アブラハムの子どもであるイシュマエルが死なないように、手を差し伸べてくださった。

アブラハムがサラを妹と偽ってエジプトやゲラルの地に行った場面では、サラを妾にしようとしたその地の王様に働きかけてくださった。そうでなければ、夫婦は引き裂かれた関係で終わっただけではなく、アブラハムは殺されていたかもしれない。約束の子ども云々どころの話ではない。そして神は子どもを産む力など全く失った二人に、約束どおりに、跡継ぎとなる男の子を与えてくださった。1節に、「主は約束されたとおり」とあるとおりである。すべては神の恵みであった。

アブラハム物語ばかりではなく、私たちは、自分の人生を振り返ってみるときに、神がご介入くださらなかったならば、どうなっていたかと思わされる場面がたくさんあるのではないだろうか。一つや二つではないはずである。神がご介入してくださらなければ死んでいたとか、大きく道を踏み外していたとか、路頭に迷っていたとか、修羅場になっていたとか、自滅してつぶれていたとか、生活の実を結ぶことはできなかったとか。また神の約束があったからこそここまで来れたとか。こうしたことを覚えるときに、私たちは神の恵みに心を開かれ、謙遜にさせられる。自分に手柄というものは何もないことに気づかせられる。すべては神の恵みなのである。

アブラハムはこれまでの経験から謙遜にさせられ、問題にぶつかる時、これまでのように、自分の良いとするところや感情にまかせて判断し、行動してはならないと知る者となったであろう。アブラハムは、より神との交わりを深くし、神の御声に聞き、従順に行動する者へと変えられたようである。それは今日の記事からもわかる。彼は一信仰者としても、家庭のリーダーとしても成長した。

私たちは年をとると頑固になると言われる。人の話に耳を貸さなくなり、自分の考えが正しいとそれに固執する。しかし、神の御声を聞くことにおいて、心柔らかくなければならないと思う。神さまはみことばを通して、また人や環境を通して、語りかけてくださるだろう。そのようにして主の道を歩むことに心がけ、そして今在るは自分の頑張りと告白するのではなく、今在るはすべて神の恵みと告白していきたいと思う。