アブラハムは様々な試練をかいくぐってきたが、晩年に「最大の試練」が訪れる。神が試練を与えるというとき、それはその者の性質、愛、信仰を試すことを言う。わたしを本当の意味で信じているのか、恐れているのかと。その試練は、神がひとり子イサクを全焼のいけにえとしてささげるように命じられたことから来た。

この試練のタイミングを考えてみよう。アブラハムの妻は不妊であった。けれども男の子が与えられるという約束が神からあった。そして生まれてくる子どもを通して、子孫が天の星の数のように増え広がるという約束も与えられた。21章で、待ちに待った約束子イサクが、アブラハム100歳の時に誕生した(21章1~3節)。21章33節では、アブラハムは「永遠の神」ということを意識して祈った。「永遠の神」とは、神はいつまでも存在されるといった程度の意味ではなく、神は約束はとこしえまでも覚えておられ、とこしえまでも守るということを意味する。神の約束は永久に不変である。アブラハムは、イサクを通して子孫が天の星の数のように増え広がるということを、永遠の神にあって信じていた。

ところが、この神の約束を疑いたくなるような試みが与えられた。約束の子イサクを全焼のいけにえとしてささげなさいと(2節)。これは様々な意味で受け入れるのが難しい命令だった。神への犠牲のささげものが、穀物や動物であればわかる。だが、人間が求められている。わが子であってもなくても、これ自体難しい。当時のカナンの文化、世界観において、神々は肥沃をもたらすために、動物や穀物のささげものを求め、そして時には、人間の犠牲を求めるとされた。カナンの既成概念上の世界観では、人間を全焼のいけにえとするということは驚くことではなかった。だがアブラハムは、このような人身御供はしてこなかった。そしてイサクは、アブラハムにとって愛するひとり子であった。これが命令の実行をさらに難しくさせた。もう、これは当惑では済まない命令である。さらに、それだけではない。イサクは、先ほど述べたように、天の星の数のように子孫が増えていくと約束されていた子である。この子どもの誕生のために、どれだけのエネルギーと時間を費やしてきたかわからない。そう思うと、「最大の試練」ということがうなずける。自分の身がどうにかなってしまうことのほうが、アブラハムにとってはたやすいことであっただろう。だから最大の試練である。

この試練の中身を次のように二つに分けて考えることもできるだろう。一つ目は、神を第一に愛するのか、イサクを第一に愛するのか試みられたということ。アブラハムは子どもが欲しかった。イサクがいない前は、代理妻である奴隷の女ハガルを通して生まれてくる子、イシュマエルが欲しかったわけだが、妻のサラを通してイサクを得たあとはどうしてもイサクでなければならなくなる。それは絶対に手放したくない。イサクにしがみつきたくなる。イサクは神からの賜物である。私たちの弱さとして、神から賜物を受ける前は神を求め、神を第一にしていたのに、神からの賜物を受けてしまうと、受けた賜物に満足してしまって、神から心が離れてしまう。神よりも受けた賜物が大切になってしまう。その賜物がモノであろうが人であろうが働きであろうが何であろうが、神よりも受けた賜物が大事になる。そして神を脇に追いやってしまう。アブラハムは、イサクが生まれたことにより、神さまのことはどうでもよくなったと聖書に書かれてはいない。アブラハムは神を愛していた。でもイサクのことも愛していたことは事実である。だから、これは試練となった。この後、アブラハムは神を愛し恐れていることを身をもって示すことになる。私たちはどうだろうか。私たちはいつでも神を第一に選び取る信仰があるだろうか。

二つ目は、神は約束に対して真実なお方であるかどうかと、その信仰を試みられたということ。イサクを全焼のいけにえとして焼いてしまったら、神の約束も焼かれてしまうのだろうか。そこですべてが終わってしまい、永遠の神と告白したことは空しいこととなってしまうのだろうか。実は、神の約束が成就するかどうかはイサクにかかっているのではなく、神にかかっているのである。神は約束を破ったり、違えたりはしない。終わらせたりはしない。それは永遠に不変である。だから、イサクに望みを置くのではなく、神に望みを置くことである。イサクが野獣に襲われないように、イサクがさらわれないように、イサクが病死しないようにと、イサクにだけ望みをかけていてもだめなのである。アブラハムはイサクにではなく、神に望みと期待を置いた。だからへブル人の手紙11章19節では、「彼は(アブラハム)は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる」と神に絶対の信頼を表明したことが記されている。それだから、イサクをささげることができたのである。やはり、私たちは、目に見えるもの、手にしているものに固執し、それに期待を寄せ、そこに希望を置いてしまう。それを手放したら、もうすべてが終わってしまうかのように思えてしまう。けれども私たちの信仰と希望は、愛とともに神に置かなければならない。

アブラハムのすぐれた信仰は、イサクを全焼のいけにえとしてささげる前からすでに表されている。「翌朝早く・・・・」(3節)と行動が早い。うじうじと迷ってはいなかった。「私と子どもは・・・・戻って来る」(4,5節)という発言は、苦し紛れのうそではなく、本当に戻って来るという確信があったからであろう。

そして、イサクにたぎぎを負わせた。イサクのこの時の年齢は、たきぎを負うことができたことから、少なくとも、十代前半の子どもであったと思われる。アブラハムは百歳プラス十数歳という年齢となる。体力的にはイサクが負うのが自然である。けれども「イサクに負わせ」と、負わせたのはアブラハムであったことがわかり、アブラハムの固い意志が伝わってくる。イサクも従順である。それが一番良くわかるのが祭壇でいけにえとなる場面である(9節)。抵抗して逃げてしまうこともできただろう。だが従順に祭壇の上に身を横たえようである。ローマ人への手紙5章19節の「ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです」というキリストの従順を思い起こすが、イサクの従順はアブラハムの信仰姿勢とともにすぐれていたことを印象づけられる。

祭壇が築かれた場所は、2節にあるように「モリヤの地」である。ことばの意味は「ヤハゥエが備える地」である。この地にエルサレムの神殿が築かれることになる。歴史家ヨセフスは、アブラハムがイサクをささげようとしたまさにその場所に、ダビデが神殿を建てようとしたと言っている。ご存じのように、イエス・キリストは、このエルサレムで、十字架という祭壇の上で、全焼のいけにえとなったのである。だから、イサクは、イエス・キリストの型であるわけである。

このことを思うと、父なる神が愛するひとり子イエス・キリストを犠牲にするというのは、どれほどつらい決断であったのかと知らされる。それもこれも、私たちを罪から救うためであった。神のひとり子は、私たち罪人の身代わりとして、十字架の上で血を流し、壮絶な死を遂げられた。父なる神はここまでの犠牲を作って、私たちを救おうとされた。10節を見ると、アブラハムは自分の子イサクに手を伸ばし、自分の子をほふろうとしたことが書いてあることを見て驚くが、父なる神はひとり子キリストに対して、文字どおりこのことをされた。残酷だろうか。愛するひとり子に対して、そんなむごいことをしなくともと思うだろうか。しかし、誰のためであったのだろうか。「神は実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハネ3章16節)というみことばを思い起こす。

さて、アブラハムの信仰に話を戻そう。10節の場面で、アブラハムは刀をとって後、ほうろうか、ほふらまいか、しばらく迷って、思い悩んだだろうか。ドラマとしては、そのほうが人間臭くておもしろいかもしれないが、だが12節後半の御使いのことば、「今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでささげた」ということばが、それを否定する。アブラハムはこの試練に勝利した。アブラハムは神を恐れる愛を持っていることを、愛するひとり子を惜しまずささげることによって示した。そして同時に、人間的には約束と矛盾するような命令に思えても、神は約束に対して真実な方であることを疑っていないことを示した。並みの信仰者であったなら、同じような命令を受けたとき、幾晩も思い悩み、七転八倒の苦悶に浸るか、神に不信を抱き、神とケンカ別れするやもしれない。もうあなたと関係を断ちますと。

神はアブラハムのすぐれた信仰にすぐに応えている。13節にあるように、イサクの代わりとして、一頭の雄羊を備えてくださった。アブラハムはその場所を、14節にあるように、「アドナイ・イルエ」と名付けた。「そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、『主の山の上には備えがある』と言い伝えられている」。「アドナイ・イルエ」の意味は欄外註にあるように、「主が備えてくださる」。<アドナイ>は「主」であるが、<イルエ>には、「備える」とともに「見る」という意味がある。「見る」ということばは、気を配って配慮する、という意味を含んでいるだろう。赤ちゃんを見守る母親のことを考えてもいい。ただ見ているわけではない。問題や必要を見ている。結果として、必要なものを備える。ほおっておくわけではない。赤ちゃんが池に落ちたのを見て、そのまま黙って見ている親はいないだろう。神さまは私たちの問題を見て、私たちのために罪からの救い主としてイエス・キリストを備えてくださった。そればかりか、その他の必要な事柄もすべて備えてくださる。パウロはこう述べている。「私たちすべてのために、ご自分の御子さえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう」(ローマ8章32節)。「主の山の上には備えがある」というのは、私たちにとっても真実である。私は二十数年前、関東から秋田の湯沢に転任となった時のことを思い起こす。家内と幼い二人の子どもと一緒に引っ越してきたわけだが、少々、心の中に不安があったのだと思う。湯沢教会の会堂に入ると、まず最初にしたことは、「主の山の上には備えがある」というテーマの賛美を歌ったことである。主なる神のあわれみは尽きない。私たちは主のみこころに従おうとする時、多少なりとも、不安を持つことがある。どれだけ損をしてしまうのかとそろばんを弾く誘惑もある。つぶやきも出てくる。けれども、アブラハムのように確固たる信頼をもって、従うことが求められているのである。

15~18節においては、天からの祝福のメッセージがある。子孫繁栄の約束がある。空の星、海辺の砂のように数多く増し加わるというのである。そして、ここにメシア預言が隠されている。17、18節で「あなたの子孫」は単数形である。これは集合名詞として受け取ると、アブラハムの子孫全体となるが、「ひとりの子孫」として受け止めることもできる。ガラテヤ人への手紙3章16節を開こう。「ところで、約束は、アブラハムとそのひとりの子孫に告げられました。神は『子孫たちに』と言って、多数を指すことはせず、ひとりをさして、『あなたの子孫に』と言っておられます。その方はキリストです」。ここからわかるように、アブラハムに語られた「あなたの子孫」とは、具体的には、イエス・キリストのことを指す。確かにイエス・キリストはアブラハムの子孫である。マタイの福音書は、「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図」で始まっている。イエス・キリストを通して霊的子孫が数多く誕生するという約束がアブラハムに与えられ、現在、この約束は進行形である。

イサクをささげたアブラハムは、結果的にはイサクを失うどころか、その行為は何百、何千、何万倍、何億倍にもなって返ってくることになる。いや、それ以上だろう。

アブラハムはモリヤの地からベエル・シェバに帰る。そしてベエル・シェバに住み着く「こうして、アブラハムは、若者たちのところに戻った。彼らは立って、いっしょにベエル・シェバに行った。アブラハムはベエル・シェバに住み着いた」(19節)。ベエル・シェバは、アブラハムが神を「永遠の神」と呼んだ地である。神は真実な永遠の神である。神の約束は永遠に不変である。アブラハムは精神的に、より安息をいただいだろう。

アブラハムの最大の試練とその結果から、私たちはそれぞれが学び取らなければならない。愛するひとり子をも惜しまずにお与えくださった神の愛と真実を学び取るとともに、私たちがアブラハムの信仰に倣うことを学び取りたい。神さまは私たちのことも試みられることがある。何の犠牲も感じない、というのは試練ではない。することはたやすい、というのは試練ではない。逃げよう、楽しようということは誰にでもできる。しかし、従う時に、その先には備えがある。十分な備えがある。そして約束は破られることなく、祝福を体験するのである。試練は神のすばらしさを豊かに体験させる機会となるである。アブラハムがそのことを示してくれている。