今日のテーマは時間の使い方である。時間の使い方についての指南書のようなものはたくさんあるわけだが、聖書ならではの視点から、時間の使い方について考えてみたいと思う。まず最初に、次のことばを紹介しよう。

‶たった一つ生!それはすぐに消え去る。キリストのためにしたことだけが消え去らない。″

これは意味深いことばである。どこで何をした、何を食べた、そんなことはすべて消え去る。しかし、キリストのためにしたことだけが残る。価値あることとして。極端にも聞こえるかもしれないが、真理をついている。よく時間を大切に使いましょうと言われるが、誰のために何のためにということがぼやけてしまうと、ただ忙しいだけの一生で終わりかねない。「忙しい」という漢字は、「心」を意味する立心偏に「亡くす」と書く。心を亡くす、心を失う、心キリストにあらずの生涯であったなら空しい。

まずキリストの時間認識についてお話したい。ヨハネの福音書は、時ということに並々ならぬ関心が払われている。「わたしの時」「イエスの時」「自分の時」といった表現がよく出て来る(2章4節、7章30節、8章20節、13章1節)。今日の個所も時間を認識しての発言である。キリストは行動されるにあたって、自分の感情や人間の声に支配されて行動するのではなくて、父なる神が定められたスケジュール、時間配分に従おうとしておられたことがわかる。

今日の個所もラザロの復活の物語の一場面であるが、ラザロの重体の知らせを聞いた時、お願いにあがった人々の考え通りに行動することも、情に流されて行動することもなかった。早急な行動には出なかった。早急に動き、相手の気に入る行動をしても、最善ではないことは多々ある。キリストは、みこころの時でなければ腰を上げないと決めておられた。ご存じのように、キリストの生涯は短かった。キリストの生涯は約33年と短かったにもかかわらず、時間が足りず、やり残したということはなかった。人々を助け、神の教えを説き、救いを与え、充実した生涯であった。キリストにはたくさんの要求が突き付けられたが、完全な時認識があったので、忙しい、忙しいと口に出し、あわてたり、焦ったりした様子は全くなかった。不思議なまでの落ち着きがあった。そしてやり残すことのない地上生涯を全うされた。キリストの十字架上の最後のことばは「完了した」(19章31節)である。「やり残した」でも、「失敗した」でもなかった。一日24時間でも足りない、もっと時間があって欲しいと思う私たち。しかし、時間は十分にある。優先順位を間違って行動しているか、タイミングを間違って行動しているかだけなのかもしれない。私たちは自分に問いかけたい。「私はこれからの生涯、何をしたらよいのだろうか」「私に与えられている時間を思慮深く用いているだろうか」「今日すべきことは何だろうか」「ほんとうにこれは、私が今すべきことなのだろうか」。キリストは時間の支配者に従い、神の時に、神に信頼して行動したわけだが、もしそうするならば、早すぎるようで早すぎず、遅すぎるように思えても遅すぎず、神の時にかなって美しい調和が生まれていくはずである。

7~10節は、神の時を見分けられず迷っている弟子たちとキリストとの対話である。「その後、イエスは、『もう一度ユダヤに行こう』と弟子たちに言われた」(7節)。今が行動する時だ、とキリストは判断した。けれども、この促しは、弟子たちに快いものではなかった。キリストはこの時、「ラザロを助けに行こう」とも、ラザロの住んでいたベタニヤの地名を出して、「ベタニヤへ行こう」とも言われていない。意図的に「ユダヤ」と口にした。ユダヤはイスラエルのユダヤ地方のことで、その中にベタニヤが含まれている。ユダヤの領域にはベタニヤの近くに首都エルサレムがある。そのエルサレムでキリストは石打ちで二度殺されそうになった。弟子たちはユダヤと聞くと敵対者たちの牙城という心の反応になる。キリストはそれを知っておられて、「ユダヤへ行こう」ということばで、弟子たちを試された。

案の定、弟子たちは、「行きたくない」という反応を示す(8節)。ユダヤでは殺される危険がある。そうでなくとも捕縛されてしまうかもしれない。トラブルはごめんだ、というわけである。私は以前、気乗りしなくても、それがみこころの場合がある、という文章を読んだ。やる気がわかない、行く気がしない、会いたくない、でも従ったならば、神さまのために実を結ぶことができたという内容だった。弟子たちは、今、全然気乗りしない。でも行くことはみこころだった。そして行くことによって神の栄光を拝することになる。私たちは自分の気分にまかせて行動を差し控えてしまうことが多いのではないだろうか。気乗りしなくても主に従うということは大切である。

キリストは、16節で弟子のトマスが「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか」言っているように、死の危険しか頭にない不安に満ちた弟子たちに対して、落ち着きを与えることばを投げかける。「昼間は十二時間あるでしょう。だれでも、昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。しかし、夜歩けばつまずきます。光がその人のうちいないからです」(9,10節)。キリストは「世の光」である。ご自身がすでに、そう宣言されている。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです」(8章12節)。世の光であるキリストがおられる間が「昼間」である。昼間、光がともにある時間帯は、たとえユダヤに行こうと敵の面前に立とうと、おびえる必要はないというわけである。世の光がともにあるならば、恐れる必要はない。「主は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう」(詩編27篇1節)。けれども、世の光をもたない人は、夜歩けばつまずくようなものである。つまずくということは倒れるということである。つまずいて倒れるだけではなく、足もとが消えたと思ったらマンホールに落ちた人もいる。崖から落ちた人もいる。いずれ、世の光を失って、闇雲に生きている人生は危険であるということである。それに対して、この世の光であるキリストを見て、キリストとともに歩もうとしている人は幸いである。

次に、今日のテーマ「時間の用い方」を意識しながら、今観察した9.10節から私たちが持つべき時認識について二つのことを見ていこう。

第一、私たちにとっての「昼間」は今であり、時間は十分ある。私たちにとっての昼間とは、キリストとともに歩んでくださる今である。雨や曇りの日が多いなぁ、悲しい出来事が多いなぁ、でも昼間である。それは主とともに主のために事を行う時間帯である。その時間を、神さまは私たち各々に十分与えている。時間が短すぎるということはない。それはキリストの生涯を考えればよくわかる。キリストは約33年の生涯であったけれども、先ほどお話したように、使命は全うされた。父なる神さまが定められた地上生涯を生き抜かれた。キリストは敵対者の策略が原因で寿命が縮まってしまったというのではなく、神の定めの時が来たので、その地上生涯を終えられた。だから、クリスチャンである私たちも、たとい誰かの手に陥って死んでも、何かの災いによって死んでも、人間や事故や病原菌そのものが人生の日数を縮めたと受け取ってしまう必要はない。そうではなく、神の定めの時が来たから人生を終えたということである。それはキリストが十字架にかかる前に、「父よ。時が来ました。」と言われたのと同じである。キリストは十字架が原因でいのちを縮めたということではなくて、それは神のご計画の中にあり、神の定めの時が来たので地上の生涯を終えられたということである。もちろん、その後、復活があり、天に昇られたが。

神さまが私たちの人生の時間を決めておられるので、私たちは自分の人生の長さを延ばしたり縮めたりする最終的権限は持っていない。キリストが「あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか」(マタイ6章27節)と言われたとおりである。もちろん、運転する時には事故に気をつけるとか、健康面を考えて食事に注意を払うとか、私たちはする。けれども、人生全体をコントロールされる方は神さまである。神さまが私たちの人生の日を、時間を支配しておられるならば、不必要な心配はいらなくなる。そして神さまは、あなたの人生ここまでという時まで、やるべきことをやれるようにしてくださるお方である。神さまが私たち各々に与えられた使命をやり抜く時間を奪い取るものは何もない。神さまは、私たちがご自身のみこころを生き抜く十分な時間を与えてくださる。「昼間は十二時間あるでしょう。その間、私がともにいるでしょう。あなたが神のみこころを生きる時間を奪うものは何もありません。だから、恐れないで、さあ、私に従いなさい」。もし、私たちが主の促しを感じていても、自分の気分に支配されてしまったり、人を恐れたり、思い煩いで身動きがとれなくなってしまうならば、祈って仕切り直したい。私たちはキリストとともに、神のみこころに焦点を合わせて生きていくように召されている。そのために時間を用いるということ。その時間は十分にある。その時間を奪うものは何もない。
第二、時間は十分あるが、その時間は限られている。昼間は十二時間ある。だが十二時間と限られている。だから時間の無駄はできない。私が今話したことは時間が足りないということではない。ある人は言った。「神が私たちに与えられたことをする時間は十分に与えられている。しかし、不必要なことをする時間までは十分に与えられていない」。だからもし、時間が足りなさすぎると思ったら、不必要なことをしている可能性がある。生活の中で止めたほうがいい習慣があるかもしれない。それは、優先順位をまちがえているということかもしれない。私たちはそれらを点検し、整理するならば、時間は十分に与えられていると発見するだろう。時間の使い方ということにおいて、キリスト以上に時間をうまく使えた方はいないと思う。人間的には忙しいと思える毎日なのに、ゆとりさえ感じる。そしてやるべきことをやり抜いた。キリストの生涯においては、公けのミニストリーの時間、休む時間、ベタニヤの家族たちとつきあう時間、弟子たちと過ごし弟子たちを教える時間、一人退いて父なる神と交わる時間などを見ることができる。その中でも特に、父なる神と交わる祈りの時間を重視しておられたことは心に留めるべきである。日毎の優先順位のトップに位置付けられていたと思われる。私たちにとってそれは、祈りとみことばのデボーションということになるが、デボーションは神の声を聞く時であり、神のみこころを求める時である。それが生活を健全に形づくり、みこころを行う助けとなる。主の祈りの中で、「みこころが天で行われるように、地でも行われますように」と祈るが、これは自分がみこころを行うための祈りでもある。

最後に、時間の使い方の参考として、ヨハネ9章4節を開こう。「わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行わなければなりません。だれも働くことができない夜が来ます」。この箇所でも「夜」という時間帯は否定的に言われている。夜は仕事から解放されて、ゆっくり休める時間帯だ、という言い方もできるが、日が短い秋などは、日没が早いので、ああ、もう真っ暗になってしまった、何も見えないし、活動できなくなる、と残念に思う時間帯でもある。だから、普通は、日が暮れるまで頑張って働こう、となる。余談になるが、交通事故死の確率が一番高くなる時間帯は午後5~7時の日没時らしい。暗さは活動の敵となる。

キリストが言われた「だれも働くことのできない夜」とはいつのことだろうか。「だれも働くことのできない夜」とは、5節の「わたしが世にいる間、わたしは世の光です」が暗示しているように、第一義的には、世の光であるキリストが世を去った時代のことかもしれない。けれども、今、キリストを信じる者が世の光とされて、聖霊によってキリストのみわざは継続しているので、最終的な意味での「だれも働くことのできない夜」とは、万物が終わる神の審判の時に訪れると言ってよいだろう。昼があるなら、必ず夜も来る。今は昼間であり、今は恵みの時、救いの日である。ひとりでも滅びることを望まない神が、人類対して忍耐してくださっている時である。だが、もうすぐ、「だれも働くことのできない夜」が来る。キリストはこの個所で、「わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを」と、すべてのクリスチャンに対して、今この限られた昼間の時間帯に、だれも働くことのできない夜が来る前に、キリストの福音を伝えるように招いておられるのではないだろうか。

私たちは祈りの時は、今日も一日お守りください、と祈るとともに、「だれも働くことのできない夜」が来ることを意識しての、主にある働きを意識して祈っていきたい。失われた羊との出会いを与えてください、みことばを伝える機会を与えてください、キリストを証する機会を与えてください、私のライフスタイルに変化が必要ならば教えてください、あなたの御用のためにわたしを用いてください。今日私がすべきことを教えてください。私はキリストのために何ができるでしょうか?そのような祈りと願いを捧げつつ、今の昼間の時代を生きていきたいと思う。