私たちは「遅れる」ということを望まないインスタントの時代に生きている。文明が発達し、交通手段が進歩し、コンピューター社会になってすべての処理がスピーディになった。したがって、私たちは「待つ」ということをあまりしなくて良いようになった。注文の品はすぐに届く。食品も電子レンジやインスタント食品の登場で、調理時間は短時間。私たちは待つことに不慣れになってきたことは間違いない。遅れるなどと聞くと、嫌になってしまう。

ラザロの復活の物語の前半は、まさしく「遅れる」物語である。しかもそれは、突発的なことがあって遅れてしまったということではなく、愛するゆえに遅れるという不思議な物語である。5節に、イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた」とある。著者のヨハネが好んで用いる用語の一つは「愛」である。キリストはマルタとマリヤ、ラザロの三兄弟を愛しておられた。ラザロは死の病に取りつかれていた。キリストはこの状況において、病の知らせを受けてもすぐにかけつけることをせず、6節にあるように、「そのおられた所になお二日とどまられた」のである。これは、キリストの愛に疑いがかけられてしまうような記述である。

先週はメッセージの中で、神の愛と病気は矛盾しないということをお話した。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です」(3節)。ラザロはキリストに愛されていたけれども病にかかった。信仰者といえども、この地上にある限りは朽ちる体をもつ人間であり、病気や死は避けられないという現実を見据えなければならない。クリスチャンだけが病気を免れることができるというのではない。私たちは、病気と死が神の愛と矛盾するように思えても、神の深淵で偉大なご計画にあっては、矛盾とはならないことを信じなければならない。

私たちは病に直面する時は、いやしを願うことが許されている。しかし、その願いがすぐには聞かれないということがある。そして、遅れを感じるということになる。今日は、この「遅れる」ということにポイントを絞りながら、主の愛についてご一緒に考えたい。

キリストはラザロを助けるために急がなかった、またマルタとマリヤを安心させるために急がなかった、遅れたわけである。私たちは、もし自分がキリストの立場であったなら、ラザロが病床に伏せっていたベタニヤにすぐに駆けつけたと思う。親しい者が病気になり、重体の連絡を受けたら、すぐに駆けつけるのは常識ではないかと判断するわけである。けれども、キリストはそうしなかった。なおその所に二日とどまられた。実際かけつけられたのは、ラザロの葬りの後、四日経ってから(17節)。マルタはキリストの遅れを残念がる(21節)。妹のマリヤも遅れを残念がる(32節)。この遅れは完全な遅れだった。人間的見地からすると、主は完璧に遅れた。これから主の遅れについて、三つのことを見ていきたい。

第一に、主の遅れは愛から来る遅れである。主は3節で言われているようにラザロを愛しておられ、5節で見たように、この三兄弟を愛しておられたのである。けれども6節にあるように、キリストは遅れる選択をされる。主の遅れは、結果的に三兄弟の信仰を本物にする。それはまさしく愛ゆえの遅れだった。だが私たちは、いまこの時、現在の時しか見ることができない。物事の初めから終わりまで見ることはできない。それゆえに私たちは、遅れは遅れでしかないように思ってしまうことになる。主の遅れが神のご計画の中にあり、神の愛と矛盾するものではないことをなかなか見抜くことができない。悲しみにくれているとなおさらである。私たちは先のことは良く見えなくとも、それが神の愛の支配の中にあるということを信じることはできる。私たちは主の助けが遅れているように思える事態に遭遇しても、それも愛の光の中で受け止めたい。このことに関連して三つのポイントを挙げておきたい。
一つ目は、主の遅れは愛から来る遅れであるゆえに、その遅れは、無関心や冷淡さから来るものではないということ。実はベタニヤ行きは危険な選択だった(7,8節)。ベタニヤはユダヤ地方に属する。キリストを殺すことを狙っている人たちの本拠地はベタニヤのすぐそばにあった(18節)。ユダヤ地方に行くことは危険が伴う。けれども、キリストは行く覚悟を決めていた。キリストは、そこまでして自分の身を危険にさらしたくないとか、めんどうくさいからとか、そのようなことでとどまっていたのではない。ラザロを愛していたゆえにとどまっていた。主の愛を疑ってはならない。遅れるように見えることには深い摂理が隠されていて、主の愛と矛盾はしない。

二つ目は、主の遅れは、他のことを取り扱うのに忙しすぎて遅れてしまうという遅れではない。ラザロを助けに行かなければということは重々承知しているけれども、あっちからもこっちからも助けを求められていて、どうしても間に合わない、遅れてしまう、という遅れではない。この世の世界では予約を入れられても、先客があって順番待ちしてもらうしかないということが起きる。しかし、主はすべてのことを同時に取り扱うことができる全知全能の神である。今先客がいるからと私たちを待たせるのではない。あくまでも愛から来る遅れである。

三つめは、主の愛の遅れは、神の栄光を現すことと一つにされているということである。4~6節を注意深く読んでいただきたい。主の愛は神の栄光といっしょになっている。キリストの愛と神の栄光を現すのだという目的は絡み合っている。本当の愛は神の栄光を現す。神の栄光を第一に考えているならば、愛は本物になるとも言える。主のラザロを愛しているという愛は、神の栄光を現すという目的と一つになっていた。私たちはだれしも、人間的愛情で動いてしまって失敗したという経験を持っている。それが伴侶のためにも、子どものためにも、親のためにもならなかったと。神さまの目から見たらその動きはどうなのかという視点が欠落していたわけである。ただ奴隷のように相手の願いを聞いていただけだったり、自分本位の一生懸命さで終わったり、神のみこころを求める低姿勢に欠けてしまうことがある。ヨハネの福音書においては、神のみこころを行うというキリストの言動が繰り返される(4章34節,5章19節等)。キリストは神のみこころに従って行動しているのだけれども、キリストの行動はつかみどころがない。ユダヤ教の教師が行こうとしないサマリヤに足を踏み入れたり、神出鬼没で人前に現れたと思えば、急に人前から姿を消してみんなをがっかりさせたり、ふつうの人は関心を持たないような人たちに時間を割いたり、行くべきだと思われる時に行かず、行くべきではないと思われる時に出向いたりと。十二弟子たちは、予想がつかないキリストの行動に振り回されるようにして、あちらに行き、こちらに行きと、従っていた。弟子たちはこの時、主がとどまって動こうとしないことはある程度納得していたと思われる。ユダヤ行きは危ないから今しばらくとどまっていたほうが無難だと。しかし、主はそのような理由でとどまっておられたのではない。

ある人たちは、キリストの行動に神の栄光ということを意識して、ラザロが亡くなってからのほうが神の御力の偉大さが現わされるので、主はなお二日とどまられたのだと、そっけなく述べてしまうが、それもいただけない。ラザロはただの道具なのか。ラザロは道具ではなく、主の深い愛の対象である。著者ヨハネは栄光とともに愛を強調していることを見逃してはならない。この場面で、神の栄光を考えるということは、ラザロへの愛と深く結びついている。神の栄光を考えることとラザロを愛することは切り離せない。二つは一つ。二つが一つになった時に、主の選択が、「そのおられた所になお二日とどまられた」ということなのである。それはラザロに対して最善の愛の選択となった。

今、主の遅れと愛の関係について見たが、いずれにしろ、私たちはいつも主の愛を信じていなければならない。主の愛によって自分を取り巻く状況を判断し、どうしたらいいか決めるべきであって、自分を取り巻く状況によって主の愛を判断し、失望したり、うかつな行動に出たりしてはいけない。主の愛を信じていないと、不信仰のトンネルに突入する。主の愛を確信していることが大切である。

第二に、遅れる助けは時機にかなっている。天上の時計は私たちの時計と違っていることはまちがいない。ペテロは語っている。「主の御前では一日は千年のようであり、千年は一日のようです」(第二ペテロ3章8節)。人間にとっての千年は神にとっての一日である。私たちにとっての数年、数日の遅れは、神にとって数時間、数分の事柄ということになる。だから人間の側では、神の助けが遅い、遅すぎると、せっかちになってはならない。あせりは禁物である。私たちは「主よ。いつまでですか」と訴えたくなる。私たちは主の助けを待つ間、時計が止まっているように感じられる。時の一刻一刻の刻みが遅く感じられる。それは時として耐えがたい。まだなのかと。しかし、主を忍耐して待ち望むのである。主は最もふさわしい時に、ご自身のみこころをすみやかに実行に移されるだろう。

「主の御前では一日は千年のようであり」という真理も興味深い。私たちは、あと一日しかない、あと一時間しかないとあせることもある。しかし、神にとってその長さで十分なのである。一日は千年の長さなのだから。時間は十分あるというわけである。一分でも十分かもしれない。いずれにしろ、私たちは神の時間にゆだねて、あせらないで待ち望むことができる。

第三に、最善の助けは遅れない。神の助けというときに、私たちは助けの半分の面しか見ていないことが多い。環境の改善とか、道が切り拓かれるとか、現象面だけを見てしまう。しかし、物事には霊的側面というものがある。救いが与えられる、忍耐が増し信仰が鍛え上げられる、敬虔さが増す、主のすばらしさに心の目が開かれる、みことばを体験的に理解する、それらは遅れない。11章の物語を読むときに、ラザロの重い病気、そして主イエスの到着の遅れなど、物語の前半は前味の悪さで始まっている。けれども、この物語を全体として味わうときに、そこには主ご自身の愛と栄光が輝き、最高の味読感で終わる。遅れたかに見えた主の到着は神のタイミングでは遅れではないことを印象づける。時間的な遅れや現象面の遅れは、天上の視点で見るときに、遅れではなくなっている。ベストタイミングであるということがわかる。キリストはみこころにかなうご自身の時認識によって行動されたことにより、栄光が現わされ、ラザロ本人をはじめ、周囲の者たちの信仰はより確かなものとなり、さらに主との結びつきが強められる。そして、この物語全体が神の愛のうちにあることが証される。

私たちを愛したもう主は、助けるのに遅れることはない。「ラザロ」の名前の意味は「神が助けである」。名前の意味に偽りはなかった。主は私たちを愛しておられるので、全神経を集中して、私たちを見守っておられる。私たちの助けを求める声にも耳を傾けておられる。主はいつどうすることが最善なのかを知っておられ、タイミングを見計らっておられる。主は愛である。主のみわざが私たちに現わされ、すべては主の栄光へと変えられますように。