本日は、11章のラザロの復活の物語からのメッセージの四回目である。前回は「時間の用い方」について学んだ(7~10節)。キリストはラザロたちが住んでいるベタニヤがあるユダヤ地方行きを弟子たちに告げられる(7節)。弟子たちは恐れる。つい最近、そこで石打ちに遭いそうになったばかりであった(8節)。ユダヤ地方に行けば殺害される危険が極めて高い。けれどもキリストは、今は昼間の時間帯だから大丈夫だと不思議なことを言われる(9節)。キリストは世の光であり、キリストが昼間を作り出す。キリストがともにいるという昼間は安心して活動できる時間帯なのである。この昼間は私たちにとって主とともに主のために生きる時間帯ということになる。乗り気でなくとも主のみこころに従わなければならない。おじけづいている場合ではない。

キリストは、ユダヤ行きの目的を弟子たちに告げられる。「イエスはこのように話され、それから、弟子たちに言われた。『わたしの友ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を眠りからさましに行くのです。』」(11節)。死に関して「眠り」という表現を使うこと自体は、キリスト独特のものではない。古代世界では死を眠りにたとえていた。旧約聖書も眠りという表現が頻繁に登場する。たとえば、列王記、歴代誌では、王の死に関して、「先祖たちとともに眠り」という記述が繰り返し繰り返し登場する。だから、「わたしの友ラザロは眠っています」と聞いて、ああ、ラザロは死んだのだ、と悟って良かったと思うが、弟子たちはそう受け取らなかった。「主よ。眠っているなら、彼は助かるでしょう」(12節)。どうして彼らは、ラザロが死んだと受け取らなかったのだろう。いくつか考えられる。ラザロの姉妹たちの使いは、ラザロが死にましたと報告に来たのではなかった。3節にあるように、「あなたが愛しておられる者が病気です」であった。それにまた、「わたしは彼を眠りからさましに行くのです」と聞いて、主は死からよみがえらせるみわざをされるのだ、という理解を持つまでの信仰を働かせるには至らなかっただろう。おそらく弟子たちは、「わたしの友ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を眠りからさましに行くのです」と聞いて、ラザロの病は峠を越えて、彼は今ぐっすり眠りに陥っているのだ、そういう理解であったと思う。

しかしながら、「わたしの友ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を眠りからさましに行くのです」と聞いて、一人ぐらいは、イエスさまはラザロを死からよみがえらせるのだな、と悟っても良かったことは事実である。参考までに、マルコ5章38~42節を開いて読んでみよう。ここでもキリストは、ひとりの少女の死を39節で「眠り」と表現している。キリストは明らかに、「目をさます」ということを意識して、この「眠り」という表現を使っているようである。そして、この少女を生き返らせた。

旧約聖書にも、目をさますこととつなげて「眠り」ということばを使っている箇所がある。「地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者が目をさます。ある者は永遠のいのちに、ある者はそしりと永遠の忌みに」(ダニエル12章2節)。これは世の終わりの復活の描写だが、ユダヤ人はこれを信じるようになった。死の眠りは目をさますことと直結するようになった。ただ、ユダヤ人も弟子たちも、死んで今すぐ目をさますということに理解が及ばなかったわけである。終わりの日には目をさまし、よみがえるだろうと、そのことは信じていたわけである。マルタはラザロのよみがえりの前に、キリストにこう告白している。「マルタはイエスに言った。『終わりの日のよみがえりの時に、私の兄弟がよみがえることを知っています』」(11章24節)。マルタも終わりの日のよみがえりの希望をもっていた。では、人によみがえりのいのちを与える方は誰なのか。キリストはマルタのことばに続いて、「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです」(11章25節)で宣言される。このことを確証するみわざが、ラザロの復活のみわざである。キリストがこれからラザロに対して行われるみわざは第七番目のしるしだが、これは、キリストはよみがえりであり、いのちであり、キリストを信じる者は死んでも終わらず、それは眠りであり、目をさますことを伝えるものである。英語圏の共同墓地・霊園を「セメテリィ」と呼ぶが、それは「眠る場所」を意味するギリシャ語<コイメーテーリオン>から来ている。眠りは眠りで終わらないことを暗に伝えている。

しかし、世の人たちは、死を目をさます眠りとつなげて、死を楽観的に考えることはできないのが普通である。だから、死について考えることをできるだけ避けてしまう。サマセット・モームは言った。「生きるための唯一の方法は、自分がいつか死ぬことを忘れることだ」。自分が死ぬことを考えると恐いから、人は意識的に考えないようにしている。エリック・ホッファーは言った。「死の持つ恐怖はただ一つ。それは明日がないということである」。こうした恐れをキリストは完全に打ち砕いてくださる。

キリストは自然の眠りと勘違いしている弟子たちに対して、はっきりと告げる。「ラザロは死んだのです」。もちろん、キリストは、その場に行ってラザロの死を確かめたわけではない。これまでのヨハネの福音書の記事から学んできたように、キリストはすべての人のすべての状態を、情報を得なくとも把握しておられる。キリストが早急にラザロのところに駆けつけなかったのは、神の栄光のためとラザロへの愛からだった(3~5節)。神の栄光を考えることがその人へのほんとうの愛となり、その人をほんとうに愛することは神の栄光になる。二つは一つだということを学んだ。キリストがラザロを愛しておられたことは、11節の「わたしたちの友ラザロ」ということばからもわかる。キリストの遅れは愛ゆえの遅れであった。

キリストが早急にラザロのもとにかけつけなかったもう一つの理由が15節で明らかにされる。「わたしは、あなたがたのため、すなわちあなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう」。キリストは「あなたがたが信じるためには」と言われているが、これは、キリストが神の救い主であると信じるということである。これまでも弟子たちは信じた。2章の記事にある第一のしるし、「水をぶどう酒に変える奇跡」では、「イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた」(2章11節)とある。弟子たちはすでに信じたのだが、さらに信じるようになる。つまり、新しい啓示を与えられ、彼らのキリスト理解はさらに成長するということ。私たちも彼らと同じような訓練の場に置かれている。キリストを信じていると言っても、まだキリストのご性質を十分に理解したとは言えない。まだまだ知らなければならないことはある。私たちは生活の場でみことばを体験していく中で、よりキリストを知るようになっていく。

弟子たちはキリストの話をどのように受け止めたのだろうか。ラザロの復活のことを真剣に受け止めた弟子はいたのだろうか。ラザロをよみがえらせる発言に対して、何も応答してない。「そうなんですか!ラザロは生き返るんですね!行きましょう!」そのような応答はない。「ラザロは死んでしまってもう葬式も終わってしまった頃だろうから、何も死の危険まで冒してユダヤに行く必要はない」というところではなかったのだろうか。弟子たちは、ユダヤ=死の危険、という図式から離れられなかったようである。9節で言われているように、昼間歩けばつまずくことはないという確信に至った弟子がいたことは書かれていない。

「ラザロは死に、今度は自分たちが死にに行く番か」。そうした空気の中で、一人の弟子が発言する。「そこで、デドモと呼ばれるトマスが、弟子の仲間に言った。『私たちも行って、主といっしょに死のうではないか。』」(16節)。彼は数十キロ歩いた先の死を覚悟したようである。ヨルダン川を渡った先の死を覚悟したようである。トマスはキリストの発言を理解してはいない。その点において問題はある。キリストは討ち死にしようとして、「さあ、彼のところへ行きましょう」と言われたわけではない。トマスは、「私たちも行って、ラザロの復活を目撃し、神の栄光を拝しましょう」と言っても良かった。だが悲観的な発言で終わっている。しかしながら、弟子たちがおじけづいていた中で、彼の勇気ある発言は評価したい。彼は弟子として必要な忠節と言おうか忠順の精神を表している。実は、彼は不名誉なタイトルをつけられてしまった人物である。「疑い深いトマス」。これがトマスの代名詞として有名になってしまった。ヨハネの福音書20章のキリストの復活の場面に進むと、トマスは他の弟子たちにキリストの復活を告げられても、キリストの復活を信じなかったことがわかる。彼は他の弟子たちがキリストを目撃した時、その場にいなかったわけである。その後、復活のキリストを目の前にしても、簡単には信じなかった。そこで「疑い深いトマス」と全世界の人に認識されることになってしまう。しかし、彼のことは、「忠誠心のあるトマス」と評してもいいのではないだろうか。

後半は、トマスについてもう少し紹介することとしたい。彼は「デドモと呼ばれるトマス」と紹介されている。「トマス」はアラム語で「トーマ」を表し、意味は「双子」である。当時は、個人名があだ名で代用されることが良くあり、「トマス」はあだ名であると思われている。「トマス」がパレスチナ・ユダヤ人の間で人名として用いられた形跡はないようである。あだ名が個人名のようにして用いられるケースはペテロが挙げられる。併記されている「デドモ」は双子のギリシャ語である。これも名前ではない。

では、トマスの実名は何かということだが、シリア東方の教会伝承によると、彼はユダ・トマスと呼ばれている。もし彼の個人名がユダであったのならば、十二弟子には他にユダが二名存在するので、彼らと混同されないように、実名ではないあだ名が用いられた可能性がある。ユダはありふれた名前であった。また、彼が双子であるならば、誰と双子なのかということだが、諸説あるが、有力視されるものとして挙げられるものはない。誰と双子であるかわからない。ただ分かることは、彼は双子のうちの一人であるということである。

彼には一途にキリストについていこうという献身的姿勢がみられる。ヨハネ14章のキリストの宣言、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」(6節)という有名なみことばを引き出したのも、トマスの質問「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道がわかりましょう」(5節)からだった。彼はどこまでもキリストについて行きたかった。

キリストから大宣教命令を受けた後の、彼の宣教の生涯を見てみると、教会史家エウセビオスの記録では、宣教地として彼にはバルテヤ(現在のイラン)が割り当てられたと記されている。ヒエロニムスの「著名人の伝記」には、彼が、バルテヤ人、メデア人、ペルシャ人、カルマニ人、ヒルカニ人、バクトリ人、マギ人に宣教し、インドで死んだとある。彼の死に場所はインドである。実は、トマスと言えばインド伝道という風に、インドで伝道したことは確実とされている。トマスが南インドで伝道して、チェンナイ郊外のマイラープールで殉教したことは、ほぼ史実としてまちがいないと言われている。チェンナイはインド南部の東岸にあり、現在は国際空港もある都市である。

ある伝承によると、トマスは52年にインド南部西岸に上陸して七つの教会を設立し、東岸にも赴き、72年にマドラス(現在のチェンナイ)近郊のマイラープールで殉教したとされている。彼はマイラープールで、バラモン教徒から石を投げつけられ、槍で突き殺され、殉教したとされている。現在インドのケーララ州には、聖トマス・キリスト教徒の諸教会が、諸教派に分かれて八つほど存在する。ケーララ州はインド南部の西岸。彼がインドで残した功績は大きいものがあった。

キリストは弟子たちに対して、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」(マルコ8章34節)と命じたことがあった。このみことばは、今日の記事以前にキリストが言われたみことばである。トマスは、このみことばを実践する生涯を遂げたわけである。

トマスをはじめ弟子たちは、キリストのことばにトンチンカンな反応しかできなかった。けれども、口火を切って、キリストのために死を辞さない覚悟を見せたトマスの心意気は評価したいと思う。私たちも、自分の十字架を負い、主についていく姿勢は見せたいと思う。そして、また私たちは、今日の箇所から、死は目をさます眠りであることを確認させていただいたわけだが、この事実からも勇気をいただきき、主に従っていきたいと思う。私たちはやがて、死という眠りを迎えるが、目をさますのである。そして御国で永遠の生を迎えるのである。