先週はイースターということで、キリストの復活を祝った。キリストは罪と死とよみの世界に勝利され、今も生きておられる栄光の主である。主は現在、天に挙げられ、神の右の座に座しておられる。本日はキリストの至高の権威についても学ぼう。

本日はエペソ人への手紙の講解メッセージの二回目であるが、一回目は1~14節において、キリスト者とは、「キリストのうちにある私」であるということを見た。パウロは原語において、「キリストのうちにある」という表現を多用していた。1節の「キリスト・イエスにある」から始まり、「キリストにあって」(3節)、「彼にあって」(4節)、「その愛する方にあって」(6節)、「この方にあって」(7節)、「この方にあって」(9節)、「キリストにあって」「この方にあって」(10節)、「この方にあって」(11節)、「この方にあって」(13節2回╱13節欄外註)と11回。「~にあって」は原語のギリシャ語で<エン>(英語のinに相当)。意味は「~の中に、~のうちに」。私たちはキリストのうちにある。私たちとキリストは親密な関係におかれている。「キリストのうちにある私」である。

15節前半において、「主イエスに対するあなたがたの信仰」という表現がある。「主イエスに対する」の「対する」という前置詞は、やはり、「~の中に、~のうちに」を意味する、ギリシャ語の<エン>が使用されている。信仰を持つとは、キリストの中に入ってしまうこと、キリストを居場所とすることである。それは一大決心をして一緒になる結婚関係にたとえることができるかもしれない。このキリストに対する信仰は、他のクリスチャンたちへの愛で証明されるものとなる。続く15節後半で、「すべての聖徒に対する愛とを聞いて」とあるが、この愛へのこだわりは、エペソ人への手紙全体を貫いている。愛がクリスチャンの成長のバロメーターとなるからである。

パウロは今日の箇所において、エペソ教会のクリスチャンたちのためにとりなしの祈りを記している。パウロは3章でもとりなしの祈りを記しているが、その内容には随分教えられる。私たちは日々の祈りにおいて、いつも同じ決まり文句の単調な祈りになったり、何を祈ったらいいかわからなくなったりする。幼い祈りに終始してしまうことがある。祈りについては、詩編やパウロの祈りから学ぶことができる。今日の箇所では15~23節において、パウロの四つのとりなしの祈りを見ることができるわけだが、こうした先人の祈りを模範にすることを心がけたいとと思う。では、そのとりなしを順次見ていこう。

第一は、神を知ることができるように(17節)。神というお方は肉眼で見ることができない。また手で触れることもできない。また一般に、その声を聞くこともできない。神を知ることはむずかしい。そこで神は御霊を通してご自身を啓示された。それが聖書のことばである。聖書を通して私たちは神の知識を身につけることができる。その際、覚えておきたいことは、聖書の真の著者は御霊であるということである。御霊は神の深みにまで及ばれる。この御霊のことばは御霊によって理解するものである。だから私たちは御霊の助けを祈り、御霊によって思考し、御霊の助けをいただきながら聖書を読むのである。別の表現では、祈り心で読むわけである。この世の人々は知恵と啓示の御霊によってではなく、時代の流行思想を通して神を知ろうとして、失敗している。だが私たちは、御霊のことばである聖書を通して、御霊の助けをいただいて神を知る歩みに導かれている。御霊による知性は、この世の学者の知性に優る。ご存じのように、キリストは弟子を召すにあたり、ギリシャ哲学の教師やユダヤ教の学者からではなく、一般庶民にすぎない漁師から召していった。そしてキリストは、御霊がすべての真理にあなたがたを導くと言われ、彼らを教会の土台とされていった。

ここで「神を知る」の「知る」と訳されていることばは、「さらに深い十分な知識」を意味することばである。通常、「知る」を意味することばは<グノーシス>。だがここでは<エピグノーシス>が用いられている。<エピ>は、「上に」「さらに」「加えて」という意味のことば。よって<エピグノーシス>は「さらに深く十分に知る>と訳すことができよう。私たちは今の神理解、神知識で満足することなく、さらに神を知っていこう。神の栄光、神の偉大さ、神の聖さ、神の愛、神の恵み、神のご計画、神の力、神の知恵、私たちはこうしたことの寸分も知ってはいない。神を知ることを切に求めよう。祈りとみことばを通して、それができる。御霊は神の御姿を私たちに示してくださるだろう。

第二は、神が与えてくださる望みを知ることができるように(18節)。以前、V.E.フランクルという人物が書いたドイツ強制収容所アウシュヴィッツの体験記録を紹介させていただいたことがある。その時もお話したが、フランクルはそこに二種類の人を見い出した。一つは希望をもっている人、もう一つは希望をもっていない人。誰かが自分を待っていてくれるとか、収容所から出たらこんなことができるとか、どんなに小さなことでもいいから希望をもっている人は生き延びたと言う。希望をもっていない人は次々と死んでいったという。希望は必要である。パウロは、確かな希望に心の目が開かれるようにと、「あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって」と祈っている。「心の目」ということだが、現代では「心」は感情や感覚(フィーリング)の座と思われている。けれども古代人の世界ではそうではない。「心」は知識、理解、思考、知恵の座として理解されていた。古代では、感情と感覚の座ははらわたである。現代では「好き」という感情を表わすマークはハートになるが、古代ではハートにならない。古代においてハートは、いわば目の役割を果たすような認識の器官なのである。私たちは心の目をしっかり開いて、「神の召しによって与えられる望み」を見よう。その「望み」とは、永遠のいのちが与えられること、復活のからだをいただくこと、キリストのかたちに変えられること、栄光の御国で生きることなどがあげられよう。続く「聖徒の受け継ぐもの」も望みの一つである。「聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか」の原文を見ると、「栄光の富」とか「栄光の相続財産」という表現を読み取れる。それがどのように豊かなものなのか考えてみよう。今の目に見える現実しか見ていなかったらアウトである。心の目を開こう。見えるものにではなく目に見えないものに心の目をしっかり開いて見なければならない。ペテロはこう告げている。「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました」(第一ペテロ1章3節)。

以前、金持ちになることを夢見続け、みじめに一生を終えた人の話を読んだことがある。その人が亡くなった後、その人がいつも座っていた地面の下を掘ると財宝が出て来たとのことであった。その人は自分の下に財宝があることを知らずに一生を終えたとのことであった。私たちは神が与えてくださる祝福に心の目が開かれていないと、自分をみじめなものにしてしまう。日々の地上の歩みの大変さばかりに心奪われ、信仰の足取りは重くなり、くたびれてくる。私たちの場合、しっかりと心の目を天に据えるべきである。坂本九の「上を向いて歩こう」という曲はヨーロッパでもアメリカでも大ヒットしたが、私たちは確かな希望を仰いで生きよう。そのために、心の目がはっきり見えるようになることを願おう。

第三は、神の偉大な力を知ることができるように(19~21節)。19節では「力」に関する用語を四つ駆使して、神の力を伝えようとしている。「全能の力の働き」の「全能」は「強さ」を意味する<イスキュス>。「力」は「主権」と訳せる<クラトス>(「とこしえの主権は神のものです」第一テモテ6章16節))。「働き」はエネルギーの語源となっている<エネルゲイア>。「神のすぐれた力」の「力」はダイナマイトの語源の<デュナミス>。こうしてパウロは力を意味する四つの単語を駆使して、神の力の偉大さを伝えようとしている。神の全能の力は何によって証明されただろうか。天地創造のみわざだろうか。確かにそれはそうだが、パウロはここでは、キリストの復活と昇天(高挙)によって証明されたことを伝えている(20,21節)。パウロは14節までは、キリストの十字架の血による贖い、罪の赦しといった恵みについて伝えてきた。けれども、ここでは十字架については論じない。その理由は神の力に力点を置くためである。F.F.ブルースはこう語る。「キリストの死が神の愛の最高の表現であるならば、神の力の最高の表現はキリストの復活である」。「神の力の最高の表現」、キリストの復活はまさしくそうである。私たちにはキリストの復活のいのちが与えられているのであり、私たちはやがて、朽ちることのない復活のからだを持つのである。私たちも神の全能の力を体験していく。

パウロはキリストの復活に続いて、キリストが天に挙げられ、着座した御父の右の座とは、どのようなすぐれた位であるのかを伝えている(21節)。「すべての支配、権威、権力、主権の上に」とは何のことだろうか。これは政治的階級以上のことが意識されている。霊的な階級、天使的階級である。「支配、権威<アルケース、エクスーシアアス>」というペアは3章10節、6章12節(新改訳第三版「主権、力」新改訳2017「支配、力」原語は1章21節と同じ)にも登場する。2章2節には「空中の権威を持つ支配者」という表現も登場する。パウロは堕天使である悪魔とその手下の悪霊どもを意識している。「権力」ということば天使的力を表わすことばとしてしばし用いられ(第一コリント15章24節、ローマ8章38節)、旧約聖書のギリシャ語70人訳でも、天使的階級に当てはめられている。四つ目の「主権」ということば、先の意味合いから、天使的諸勢力の上に君臨する特別な階級を意味していると思われる。以上のことから、キリストは、すべての霊的権威の上に、すなわち、聖なる天使と堕天使のはるか上におられることがわかる。パウロはなぜこうした天使的階級のことを強く意識していたのかということだが、同じく小アジアにあるコロサイのクリスチャンに宛てたコロサイ人への手紙を読めば、キリストの威光はおとしめられ、御使い礼拝といった問題が起きていたことがわかる。同じような背景があったものと思われる。

パウロは21節後半では、「また、今の世ばかりではなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました」と宣言し、キリストが目に見える世界、目に見えない世界を含めて、今の時代、後の時代を含めて、至高の座に着かれたこと、最高位におられることを教えている。もちろん、キリストは日本の神々のはるか上に座しておられる最高権威者。世界中の神々もこのお方の前にひれ伏さなければならない。キリストは宇宙的権威を持つお方で、王の王、主の主、唯一あがめられるべき救い主。キリストを十字架で死んだ止まりにする似非宗教家をパウロは許さないだろう。

キリストを死者からよみがえらせ、栄光の御座に着座させた神の全能の力は、私たちの人生と教会に働く。神の全能の力は、不思議やしるし、エクソシズムということに焦点が置かれているわけではない。罪に対する勝利、迫害や困難に打ち勝たせること、そして福音の前進といったことに主眼がある。神さまは人の心や状況に働き、私たちの生活圏で全能の力を表わしてくださる。悪魔にも打ち勝たせてくださる。私たちはキリストの御名において祈るように教えられている。その名とはどのようにすぐれた名であるのかを考えて祈りたい。「すべての名の上に高く置かれました」と言われている名において祈る。なんという特権だろうか。

第四は、教会のかしらなるキリストを知ることができるように(22,23節)。22節では「神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ」と、キリストの上に来るものは何もないことを明らかにし、「いっさいのものの上に立つキリスト」と、キリストの絶大な権威を伝えている。その上、この至高の権威を持つキリストが教会のかしらであることを教えている。そして教会はこのキリストのからだである。

私たちは自分たちが弱小団体であることにだけとらわれやすい。からだのひ弱さだけに目がいってしまい、かしらを仰ぐことを忘れやすい。私たちのかしらは、すべてのすべての上におられる権威者。すべての霊的階級の上に、悪魔の上に、その組織体制の上に、すべての人間の上に、今の世も後の世もこのお方の支配下に。天を仰ごう。キリストは今、天の最上階級におられる。至上の御座に座しておられる。十字架によって罪と死と悪魔に打ち勝ち、いと高き勝利の御座に座しておられる。すべての支配、権威、権力、主権の上におられる絶対主権者、栄光の主であられる。現在、キリストの支配、権威の外にあるものは何もない。事実、キリストは大宣教命令において、「わたしは天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています」(マタイ28章18節)と宣言された。私たちがすることは、このキリストの権威を認め、この権威に服従することである。私たちは親の権威や、学校の先生の権威や、上司の権威を認めておきながら、キリストの権威を二の次、三の次とみなしてしまう誘惑がある。そうではないだろうか。

私たちはキリストをもっとリアルな方とするために、キリストを知ることに努めよう。パウロは23節では、キリストの豊かさについて言及し、私たちを励ましている。キリストは「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方」として紹介されている。何かマルチ栄養食品のような表現である。「満たす」ということばは、あふれる寸前まで満ちる様を思い描くことばである。キリストには何も欠けが無い。私たちに必要なすべてはキリストのうちにある。必要な愛、力、知恵、賜物、キリストにすべてが備わっている。そして「いっさいのものをいっさいのものよって満たす」というこの表現は、特に、キリストの全能性を意識した表現と思われる。

最後に、参考として、創世記17章1節を開こう。神はアブラハムに現れ、「わたしは全能の神である」と啓示された(「全能の神」欄外註<エル・シャダイ>)。「全能」のギリシャ語70人訳は<ヒカノス>。その意味は「全く十分な」「十分に力のある」。それが全能の意味である。キリストは私たちにとって全く十分なお方、エル・シャダイ。キリストは全く十分なお方、滋養分に満ち満ちておられるお方、このお方の御名を常に呼び求め、勝利をいただこう。