昔の賛美に、「浮世の風と波にもまれて」というものがあった。人の人生を良く言い表していると思う。人はそのような中で、自分が根なし草に過ぎないと思えてくる。自分がいつどうなるのか分からない。この世を漂って、いつかは消えていく身に不安を覚えて来る。けれども確かな希望がある。

今年2月に、私は横手出身の女性の葬儀に盛岡の教会まで出かけてきた。その女性は清水ミツさんと言って、92歳の生涯を全うし、天に召されていった。この方は横手市本町で生を受けられた。その後、湯沢市で後妻として結婚された。先妻の子どももおられた。それを聞くだけで苦労があっただろうと想像するが、ご主人はお酒が入ると手を挙げる方で、生活のやりくりにも苦労されたようである。子育ても難儀されただろう。彼女は後に神さまを求められ、湯沢聖書バプテスト教会で信仰を持たれた。いつも笑顔を絶やさない方で、謙遜で、口をついで出て来ることばは感謝のことばという方だった。亡くなられる前は闘病生活が続き、やせ細り、大変だったようだが、絶えず感謝の姿勢を表わしておられたという。葬儀では、ミツさんはすべての苦しみから解き放たれ、天の御国に入られたという安心感を私自身も抱いて参列することができた。一般の葬儀にあるように、この方は今どこでどうしているんだろうという疑問は払拭されての葬儀だった。

1節で「すべての国々の民よ。これを聞け。世界に住む者よ。耳を傾けよ」と呼びかけがある。全世界に向かっての呼びかけなので、大切なことが語られるということがわかる。1節で「世界」と訳されていることばは、「不安定な浮世」の意。「浮世」とは「つらくはかない世」を意味する。この詩編の著者は、つらくはかない世にあって、すべての人が共通して知らなければならないものがあると言っている。そのために序文で呼びかけをしている(1~4節)。2節の「低い者」とは一般庶民と解して良いだろう。「尊い者」とは上流階級の人のことである。また「富む者」も「貧しい者」もと、経済ランクの違いに関係なく、人間である限り知らなければならないものがあるのだということである。だから、私たちも耳を傾けたい。「不安定な浮世」に住む人間はどのような階級の人であっても、誰であっても、水に浮かぶ浮草に過ぎないと言えるだろう。それは時流に翻弄されて生きるということだけでなく、はかなく死を迎えるという意味でも。

だから5~13節では、「死を見なさい」と言われている。普通は死は見たくない。目をそむけたい現実である。だから人は、自分が死ぬことをなるべく考えないようにしていると言われている。間近に人の死を見ても、心理的に自分だけは死なないと考えてしまうそうである。そして、この世での安楽な生活と金銭を求めることが第一になってしまう。もしそうであるなら、私たちは詩編の著者に聞かなければならない。5~6節を読もう。5節で「わざわいの日に」とあるが、この文脈では、「富んでいる権力者から不平等で不公平な扱いを受ける日に」ということである。資本主義の社会でも共産主義の社会でも、これは変わらない。不平等の格差がある。このような状態にあって、権力者、富んでいる人たちに苛立ちを覚えながらも、またそういう人たちの生活をねたんでしまう。しかし、そうすることは愚かであると言いたい。著者は、お金は人を死から救えない、やがて誰にでも死が訪れることを忘れるな、死を見なさい、と促している。7~9節を読もう。死はもっとも見たくないものであるが、真の幸福のためには死を直視することは必要なことである。

80歳を過ぎている知人のクリスチャンの方が次のように述べている。「ぜひ、お考えになってください。人が死ぬことは、すべての人に必ずやってくることで、唯一、確率が100%のことだと最近も耳にしました。“人生は長くて百年、死後は永遠。その永遠をどこで過ごしますか”と言った人がおられたそうです。あなたは答えをお持ちでしょうか。」“人生は長くて百年、死後は永遠。その永遠をどこで過ごしますか。”この問いは真剣に向き合う価値がある。

7節で「買い戻す」とか「身代金」ということばが使われているが、古代では、貧しいがために身売りすることがあった。日本でも昭和30年代まで続いていた。お金があれば買い戻すことはできた。ところが、たましいとなるとそうはいかない。つまり、死の問題はお金では解決できないということ。ある金持ちが癌の末期となり、担当医からはもう手の施しようがないことを宣告された。その金持ちはベッドの上から札束を医者に差し出し、救ってくれ、幾らでも出す、と言ったそう。けれども医者は、どうすることもできません、と断ったそうである。また、西洋でも日本でもそうだが、お金を出せば、たましいは天国に移れる、極楽浄土に入ることができる、というシステムを考案し、それを普及させてきた歴史がある。「地獄の沙汰も金次第」という格言まで生まれてしまった。この格言の由来は、地獄の裁きで閻魔大王にお金を渡せば手加減してもらえるということである。気持ちはわかる。しかし、お金で解決できるなら誰も悩まない。8節で「たましいの贖いしろは高価であり、永久にあきらめなくてはならない」とある。「永久にあきらめなくてはならない」は別訳すると、「永久に支払うことはできない」である。お金をいくら積んでも、その人を死から救うことはできないし、天国に救い入れることはできないということである。まずは死という現実をしっかり見ること。著者は、「人はとこしえまで生きながらえるであろうか。墓を見ないであろうか」と、先々の死に目を留めさせ、そこを起点に、生きることについて考えるように勧めている。死を見ることによって、良き生を生きられるということである。私たち人間は、人の死を見聞きしても、なぜか自分だけは死なないかのような反応を示してしまう。自分は大丈夫、まだ大丈夫、そうして死と向き合うことを避ける。

10節は「彼は見る」で始まって、死を見させようとしている。ここで「ひとしく滅び」ということばが印象的で、死の平等性について言われている。人生不平等を叫び、それを嘆く人は多いが、人生の最後は完璧なまでに、冷徹なまでに平等である。しかもそれは命のぬくもりを感じない無機質な死である。そして「滅び」ということばから、それはただの死で終わらず、救いようもない世界に行ってしまうことが暗示されている。だから死を甘く見てはならない。

11節は、世界の考古学の発見や歴史の文献で確認されているところである。「自分たちの名をつける」というのは良くある手段で、エジプトのピラミッドなどもそうで、自分の名前が永遠に覚えられるための手段である。そして自分を神々として葬ってもらうことによって、自分の永遠性を主張しようとした。日本の偉いお侍さんや公家さんもそうしてきた。しかし、著者は、冷静な判断を下し、12節で、「しかし人は、その栄華のうちにとどまれない。人は滅びうせる獣に等しい」と、滅びうせる獣とどこがちがうの?同じじゃないの、と言い切る。「滅びうせる獣」と言う表現について説明を加えておくが、「獣」は「家畜」ということであろう。「滅びうせる」は10節の「滅び」とは別の原語が使われていて、「屠る」「屠殺する」という意味である。つまり、食っちゃ寝え~、食っちゃ寝え~、でお腹を満たすこと、欲望を満たすことしか考えないで生きている人は、屠殺される家畜と同じだ、という厳しい見方がされている。神に無関心で、傲慢な生活を送っている人たちは、屠殺場に連れていかれる家畜だと言っている。随分な表現と思われるかもしれないが、聖書は罪人の死をショッキングな表現で描き、改めて死について考えさせようとしている。

続く14~20節では、「死の向こう側を見なさい」と言われている。死の先にあるものを見なさい、ということである。著者は死の向こう側にあるもの、死の先にあるものを「よみ」と表現している(14節~2回,15節)。「よみ」<シェオル>は死者の行く世界とされ、そこは暗闇の世界とされていた(19節)。ここは光はなく何の希望もない世界である。ここが人生のゴールになってしまったらおしまい。だから、地上の栄華だけにしがみつこうとする愚かさは止めなければならない。17節では、「人は死ぬとき、何一つもって行くことができず」と言われている。それはなんとなくわかっていても未練が残る。本人の意志とは別として、よくやるのが棺桶に副葬品として色々なものを入れて上げること。燃えないものは外される。良く入れるのが六文銭を印刷した紙。今年2月に参列した福島県喜多方市のおじの納棺式でもそうしていた。昨年参列した喜多方市で執り行われたおばの納棺式では野口英世の千円札を入れるのも見た。葬儀屋曰く、あの世の相場も上がったそうである。お隣の岩手県では100万円と書いて棺に入れる風習がある。故人があの世でお金に困らないようにという気遣いである。中には「1千万円」「1億円」と書くこともあるそうである。皆さんはこうしたことを願うだろうか。

詩編の作者が私たちに願っているのは「悟り」である(20節)。著者は、死を見て、死の向こう側に目をやって、悟りなさいとい言う。著者は、12節に続いて20節でも「獣」(家畜)を登場させて、同じような格言をくり返しているが、獣と人間の違いは何だろうか。獣と人間の違いは理性があるかないかである。もし理性を健全に働かせることができず、神を恐れず、死や死の向こう側のことを考えず、物質主義、富崇拝にへばりついているだけなら、「滅びうせる獣に等しい」わけである。

誰にでも死が訪れ、罪に対する神の裁きがある。けれども、神を恐れ、神さまの救いのみわざに信頼する者は、死の滅びから救われる。「しかし神は私のたましいを、よみの手から買い戻される。神が私を受け入れてくださるからだ」(15節)。これが、悟った者の確信である。さきほど8節で、「たましいの贖いしろは、高価であり、永久にあきらめなくてはならない」を見た。聖書で罪は負債として教えられている。この負債の返済はどうしたらいいのか。保釈金などと違ってお金で済むものではない。昔、カトリックは「免罪符」を売っていた。それを買って、お金をチャリンと投げ入れれば、たましいは天国に飛び上がると言われていた。だが、そんなことはあり得ない。「たましいの贖いしろは、高価であり」と言われている通りである。「贖いしろ」とは、代価を払って買い戻すための代金のことを指す。奴隷を買い戻す、捕虜になった人を買い戻す、囚人を買い戻す、という時に使う。この場合は、死と死の滅びから。それは高価な値が要求される。でも誰かが、この高価な贖いしろを支払ってくださらなければ、私たちは救われない。それを支払ってくださったのがイエス・キリストである。「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人の贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのである」(マルコ10章45節)。キリストは私たちを買い戻すために、ご自分のいのちを贖いの代価としてくださった。いのちを買い戻すためにはいのちである。具体的には、十字架の上で、ご自身の聖いいのちを犠牲にしてくださった、ささげてくださったということ。先ほど「滅びうせる獣」とは、屠殺される家畜のことであると言った。キリストの十字架刑を700年前に預言しているイザヤ章53章では、キリストのことを「ほふり場に引かれて行く羊のように」と描写している(53章7節)。キリストは屠殺場に引かれていく家畜のようにして十字架に向かい、そこで私たちの罪の身代わりとなり、血を流し、いのちをささげてくださった。キリストが私たちの代わりに「滅びうせる獣」のようになってくださった。しかし、そこでささげられたいのちは、私たちを贖うのに十分だった。それは神の聖いいのちそのものであったからである。「贖う」という用語は、代価を払って買い戻すことを意味するわけだが、それが十字架で成し遂げられた。キリストが支払われた代価は、血の代価、いのちの代価である。これ以上、高価なものはない。キリストは借金の苦しみから解かれること以上のみわざを為してくださった。私たちのすべての罪を帳消しにし、永遠の刑罰から救うみわざである。このキリストは十字架の死後、よみに下るが、三日目によみがえる。このことにより、ご自身がまことの救い主であり、死の滅びから救ってくださるお方であることを証明された。キリストは罪の力、死の力、よみの力に打ち勝たれた勝利者である。私たちに永遠のいのちを与えてくださるお方である。

このイエス・キリストは、単に私たちを死と滅びから救ってくださるというだけではない。この浮世にあって、私たちの羊飼いとして、天の御国に至るまで、ともに歩んでくださる。14節には「彼らは羊のようによみに定められ、死が彼らの羊飼いとなる」とあるが、死が羊飼いとなることを回避してくださるお方である。キリストは死ではなく、よみがえりであり、いのちである。キリストは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです」(ヨハネ11章25節)。キリストを信じる者に死の場面が訪れても、死は羊飼いとはならない。いのちの君イエス・キリストが羊飼いとなってくださる。キリストはまことの神、永遠のいのちである。死からよみがえられたお方である。今も生きておられるお方である。

 

最後に、詩編23編を読んで、皆さまの励ましとしたい。

 

主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。

主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。

主は私のたましいを行き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。

たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。

あなたが私とともにおられますから。

あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。(1~4節)

 

キリストは、羊飼いとして信じる者とともに歩み、助け、導いてくださるお方である。明日がどうなるかわからない不確実性の時代だからこそ、またやがて死の陰の谷が待ち受けているからこそ、キリストにすべての望みと信頼を託したいと思う。今日、最終的に目を注いでいただきたいのは、このイエス・キリストである。このイエス・キリストを信じ受入れ、イエス・キリストを私の羊飼いとして歩んでいただきたい。すでにそうされている方は、片時もイエス・キリストから目を離さない歩みを、地上での人生を全うするまで続けていただきたい。今日集われたお一人お一人が「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです」と言われたキリストを信じ受け入れられ、キリストとともに歩み、天の御国の門をくぐられますように。