今日の箇所は、高価な愛、記念的愛、いろいろなタイトルがつけられそうな、愛の美しい物語である。損得ばかりに心が行く私たちだが、この美しい物語を通して、愛は計算なし、掛け値なしの行為であることを教えられる。

愛を教えられる印象的な記事を読んだ。かつてアルメニヤ共和国北部を大地震が襲った。十万人を越える人々ががれきに埋もれて死んだという。しかし、その中で、30歳の母親と3歳の息子が閉じ込められたがれきの下で8日間も生き延び、奇跡的に助け出された。その状況は次のようだった。母と子は闇の中、肌を寄せ合い、救いの手が差し伸べられるのをじっと待った。一日、二日・・・けれども救援隊は現れない。二人の衰弱はひどくなる一方だった。母親は息子のために母乳を飲ませようとした。しかし授乳期間が終わった母親の乳房から、母乳が出るはずもない。「このままではこの子は死んでしまう」。我が子を見て死の予感が走った彼女は、ある考えがひらめいた。「お腹にいるときは血液の栄養分と酸素で赤ちゃんは育つんだ。だったら血を飲ませれば、この子を飢え死にから救えるかもしれない」。母親は左手の親指の先に手を当て、思いきり食いちぎった。激しい痛みとともに血があふれた。「さあ、ママの血を吸うのよ」。親指を子どもの唇にあてがうと、子どもはむしゃぶりついてきた。何日も一滴の水さえ口にしていなかったのだから、なまぐささなど気にならなかっただろう。親指の次は人差し指を、人差し指の次は中指を噛み切り、子どもに血を飲ませ続けたという。二人が救出されたのは地震があった9日目。その時、母親の十本の指すべてに噛み切った傷跡があったという。ある医者は、「人間は極限状態でも、水分と塩分があれば、ある程度生きられます。血液中には水分と塩分がありますし、たんぱく質、カルシウム、糖分も含まれています。それが子どもの命を救ったのでしょう」と語っている。ちなみに、体内の血液量は4~5リットルで、その半分が失われたら死ぬと言われている。キリストがそうであった。この母親は、自らの命と引き換えても、子どもに血を与えることをやめようとしなかった。掛け値なしの行為である。

さて、今日の箇所を良く見ると、三つの物語から成っていて、愛を惜しみなく注いだ女性の物語は、二つの醜い物語の間に挟まっていて、コントラストをなしている。この構成は意図的である。では三つの物語を順番に見ていこう。

1~5節は、キリストに対する殺害計画の物語である。2節を見ると、キリストはご自分が十字架につけられることを予告しておられる。キリスト教のシンボルは十字架であるわけだが、それはただの十字架ではなく、キリストがついた十字架ということに意味があるわけである。十字架はかつて呪いのシンボルにしかすぎなかったが、キリストにより愛のシンボルとなり、救いのシンボルとなり、いのちのシンボルとなった。キリストは、その十字架の上で血を流すことになる。キリストはその血の意味について予め語っておられる。「罪を赦すために多くの人のために流されるものです」(26章28節)。なぜキリストが十字架の上で血を流すことが人の罪の赦しとなるのか。死の刑罰には命の代償が求められる。罪の報いは死の刑罰である。聖い神の前には、私たちの罪ひとつでも、永遠の死の刑罰を受けるに十分である。キリストはこの死の刑罰を私たちに代わって受けてくださった。ご自分の命を代償として。血はそのことのしるしだった。

キリストの殺害計画が練られることになったのは、過越しの祭りが訪れる頃であった(2節)。この祭りはモーセの時代に、イスラエル民族がエジプトの奴隷状態から救われたことを記念して始まった祭りであった(詳しくは出エジプト記参照)。この祭りはエジプト全土に神のさばきが下った時に、子羊をほふり、子羊の血を家の門柱に塗ったイスラエル人の家は、神が過ぎ越され、さばきから救われたということに基づいている。この祭りの中心は子羊をほふることである。血を流す子羊は、やがて出現する神の子羊、救い主の型であった。先ほど述べたように、罪はいのちをもって償わなければならない。流される血は償ういのちを意味している。キリストは私たちの罪の身代わりとなり、血を流し、ご自分のいのちをもって償おうとされた。

この十字架の死は、現象面においては、人々の策略によってもたらされたものであった。策略の中心メンバーは、3節で言及されている「祭司長、民の長老たち」と呼ばれるメンバー。この人たちは当時の宗教界のトップの人たちで、また同時に当時のユダヤ議会の構成メンバー。彼らは宗教的にも政治的にもイスラエルの実権を握っていた。といっても、当時はローマ帝国の支配下にあったので、その権力には制限が設けられていた。祭司長、長老たちの頂点に立つのが「大祭司」と言われる人物。ローマ人がパレスチナを占領してからは、ローマ人の都合次第で大祭司は代えられてしまった。この当時の大祭司は「カヤパ」(3節)。カヤパは内乱を恐れていた。もし暴動が起きれば責任を取らされ、ローマ人によって罷免されてしまうことはまちがいなかった。イエスは暴動の火種になるから早くなんとかしたという気持ちがあった。しかし、この時、簡単にキリストに手をかければ、民衆の大反感をくらい、それこそ暴動になる。カヤパの恐れは4~5節によく表わされている。過越しの祭りはユダヤ教最大の祭りで、エルサレムの大勢の人が集まって開催される。いったい、どれくらいの人が集まっただろうか。ユダヤ人の歴史家ヨセフスによると、過越しの祭りの時、二百七十五万人がエルサレムに集まっただろうと推定している(秋田県人口100万人割れ.その二倍以上の人口、三倍近くが一都に集中)。群衆の力は恐ろしい。群衆の多くはキリストが生涯の大半を過ごしたガリラヤ出身の人たちであったので、なお慎重にならざるを得ない。ヒーローであるキリストを公けの場で捕まえたりしたら、群衆の反感を食らうことは見え見えだった。自分たちが石で打ち殺されるかもしれない。慎重に知恵をもって事を運ばなければならない。いずれ、最初の物語は、キリストに殺意を抱き、殺害計画を練る人たちが描かれているのであり、実に暗澹とした記事である。キリストに対する愛のかけらもないどころか、キリストへの敵意しかない。

二番目の6~13節までの物語は、先のとは対照的。キリストに対して献身的な人物が登場する。キリストが13節において、「まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所なら、この人のしたことも語られて、この人の記念となるでしょう」と語ったほどである。物語の場所は、「ツァラアトに冒された人シモンの家」と言われている(6節)。キリストは、このツァラアトに冒された人を深く愛していたようである。一説によると、死から生き返らせていただいたラザロの父であるという話もある。そこに高価な香油の入った石膏のつぼを持った女性が現れた(7節)。この石膏のつぼ自体、決して安くはなく、半透明で大理石に似たような材質であった。油の蒸発を防ぐために封印されていて、割る時のために首が長かった。ここに入っていた油は、並行箇所のマルコ14章4節では、「純粋で、非常に高価なナルド油」と言われている。ナルド油はインド辺りから輸入されたものであると思われるが、非常に高価で、次世代に受け継がれる先祖伝来の家宝のようにもみなされていたらしい。今、この香油は入手困難である。ナルド油は一滴でも香り豊かで、部屋中にその香りは広がった。この香油は、今、この場面において、愛のシンボルとしてふさわしい。

彼女はこの香油をキリストの頭に注いだ。それはキリストの全身を包んだ。キリストが十字架につけられた時も、まちがいなくその香りは香っていたことであろう。この注いだ香油の額はお金に換算すると、並行箇所のマルコ14章5節によれば「三百デナリ以上」と言われている。日本円にすると1年分の賃金に相当する。いかに高価であるかわかるだろう。でも、それを惜しまずに注いだ。この行為を弟子たちの幾人かは非難した(8,9節)。実はこの非難の中心メンバーは、他の並行箇所を見ると、イスカリオテ・ユダであったことがわかる。彼は会計係として預かっていた財布の中身をごまかし、着服していたので、もし大金が入れば穴埋めできるかもしれないという下後心があったのかもしれない。彼は真剣に貧しい人のことを考えていたわけではない。損得で考える打算的人物だった。

キリストは彼女の行為を弁護している(10~12節)。当時、死人の埋葬にあたって香油を塗った。彼女はキリストのことばに注意深くあり、イエスさまはもう間もなく十字架にかけられる、と知っていた可能性もある。キリストは2節でも十字架の死を予告されているが、こうした予告はこれまで繰り返されてきた。彼女はイエスさまの足元でそのことばを聞いてきたのであろう。そして、「もうすぐこのお方に苦難の時が来る」と静かに悟り、真剣に受け止めたものと思われる。彼女は敏感な心の持ち主であった。愛の心で悟った。愛は時を逃がさない。そして愛は打算なく惜しみなく献げる。ところが愛のない者にはそれが「むだ」に思えてしまう。そうなると、誰か一人のために犠牲を払うことも、教会や宣教の働きのために献げることもむだに思えてくる。私たちは何がむだで、何がむだではないのか、今日の物語から問い直さなければならない。

さて、14~16節の第三の物語に移ろう。一人の名もない女性のキリストに対する掛け値なしの、莫大な愛とのコントラストで見ることができる。キリストに対するイスカリオテ・ユダの値踏みである。ユダはキリストを祭司長たちに売ろうとした。キリストにつけた値段は「銀貨30枚」と言われている(15節)。それはどれくらいの価値なのかというのなら、奴隷一人の値段である(出エジプト31章32節)。ユダにとってキリストは期待外れの男であった。「欲がなさすぎる。物質や利益に関心がないようではだめだ。期待していた救い主とは違う。心優しいだけではだめなのだ」。ユダはキリストに対して、無限に小さい、無限小の価値を与えた。極小の価値しか与えなかった。あなたは無用だと言わんばかりに。そして先の、祭司長、長老たちと結託してしまった。ユダの姿勢は、ナルドの高価な香油を惜しみなく注いだ女性とは、全く対照的。彼女はキリストに無限大の価値を与えた。彼女は三百デナリ以上のナルドの香油を注いでも、なお足りないと思っていたことだろう。けれどもユダはどうでもいいと言わんばかりの価値しかキリストに与えなかった。著者マタイは、あえてこの二人を並べている。両者を見比べるように意図している。そして、あなたはどちら側に属そうとしているのかとチャレンジを与えている。どちらの側につくのかとチャレンジを与えている。この女性のほうかユダのほうか。

さて、皆さまに問いかけたいことは、キリストというお方は、なぜ愛を注ぐ対象になりえるのかということである。この女性はキリストに全き愛を見ていたのだろう。それは人間の愛を越えた神的愛と呼べるものであろう。この愛は、ほどなくして十字架刑によって公けにされることになる。ローマ5章7,8節を見よ。「正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」。冒頭でお話したアルメニヤ大地震の時に息子に自分の血を飲ませた話は感動を覚えるも、我が子だからこその物語とも言える。しかしキリストの愛は、醜く刺々しい私たち罪人に対するもので、母性愛にはるかにまさる愛である。キリストは十字架の上で、私たちの罪のために血を流された。それは次のように言われているからである。ヘブル9章22節を見よ。「また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです」。今日の箇所で名もない女性がナルドの香油をキリストに注いだが、キリストが私たちのために注がれたのは、ご自身のいのちそのものであった。全身全霊を私たちの罪のために犠牲にされたわけである。それは、私たちの罪が赦され、永遠のいのちを受けるためである。私たちのためにこのような大きな犠牲を払ってくださった存在は、あとにも先にも、主イエス・キリストただひとりである。

ある家に嫁いだお嫁さんが自殺した話を昔聞いた。その女性は三年前にその家に嫁いできた人で、まだ小さいお子さんが一人いた。その痛ましい事件の直後に、私の知り合いの方がその家に伺った時、お姑さんがこう言ったのを耳にしたそうである。「三年も食わせてやったのに、何で死んだ」。どうして彼女は死んだのだろう。一つ言えるのは、愛を与えられなかったからである。私たちの周囲には真実な愛があるだろうか。私たちはキリストの十字架に真実な愛を見ることができる。キリストの愛が生きる理由となり、またそれがキリストへの愛となる。

最後に、ナルドの香油を注いだ女性の愛を二つにまとめて終わる。一つは、彼女の愛は打算抜きの愛であったということ。愛は計算しない。ある方は言った。「愛は体裁を保つための最少限度の贈り物は何かなどと考えない。愛は最大限に与え、すべてを与えたあとでなお足りなく思う」。彼女は損得の計算抜きにして惜しみなく愛を注いだ。

もう一つは、彼女の愛は機会をとらえる愛であったということ。ベストタイミングでキリストに仕え、十字架に向かうキリストを慰める奉仕となった。次のようなことばがある。「世の中には、いつでもできること、たった一回しかできないことがある。もしこの一回だけの機会をのがせば、二度と同じ機会に巡りあわない」。私たちは何かをしたいと感じながらも機を逸してしまうことがある。そして、遅かったと嘆くことがしばし起こる。一度機会をのがせば、同じ状況、同じ時、同じ人は巡ってこない。香油をキリストのからだに注いだ女性は、その機会を、ひとり、みごとに捕えたのである。

私たちは、今見てきた、打算抜きで惜しみない愛を、機会をとらえる愛を、キリストに献げるよう召されている。それはどのような形でなのだろうか。神への奉仕というかたちで献げるわけである。それは言うまでもないことだろう。また、先週学んだように、「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」と主が言われたように、兄弟愛を通して実践するのである。