キリストの降誕前のアドベントの期間に入った。この期間、メッセージは最後の晩餐からゲッセマネの園での逮捕前まで扱う。キリストの降誕物語は十字架の影を感じながら味わわなければならないと言われるが、まさに、そのようにしたいと思う。

キリストは金曜日に十字架につけられることになるが、今日は一日前の木曜日の場面から始まる。時期はユダヤ教の祭りで一番重要視される過越しの祭りの時期である。過越しの祭りに続くのが種を入れないパンの祭りであるが、この二つの祭りは一緒にされて、呼び名も交換して用いられるようになった。それだから17節において、過越しの祭りの日が「種なしパンの第一日」と言われている。厳密に言うと、第一日目が過越しの祭りで、二~八日目が種なしパンの祭りとなる。

種なしパンの祭りの起源は、出エジプトの時、イスラエルの民は急いでエジプトを出なければならなかったので、パンを発酵させる時間がなく、パン種、すなわちイーストを入れないパンを作って食べたことによる。だがそれ以上の意味があり、パン種による発酵は腐敗を意味し、それはエジプトの腐敗からの決別を意味したのだろう。彼らは神の命令によってパン種を入れなかった。

過越しの祭りの中心は、傷のない一歳の子羊をほふることにあった。これも出エジプトの時に、神の命令によって実際行われた。一歳という年齢は罪を知らない年齢と解釈でき、それは罪のない子羊イエス・キリストの型である。1世紀の歴史家ヨセフスによると、過越しの子羊は午後3時にほふられたというが、キリストが十字架で死なれた時刻も午後3時であった。子羊の準備はニサンの月の10日(すなわち月曜日)にする。一家に一頭の割合で準備するが、キリストの時代、2万5千頭が用意されたであろうと言われている。これらの羊は神殿の東側にあるキデロンの谷に連れていかれ、過越しの祭りの日に神殿で血を流すことになった。キリストは十字架にかかる前に、キデロン川を渡ってゲッセマネに入り、祈られている。動物の子羊が流す血は人間の罪を完全に贖うことなどできないため、それは毎年くりかえしいけにえとしてささげられた。しかし神の子羊キリストはそうではなく、一度で完全な永遠の贖いを成し遂げられた(ヘブル10:12)。だから、罪のためのいけにはくりかえしささげられる必要はない。今、キリストが罪のためのいけにえとなる時が迫っていた。キリストは過越しの食事の準備の指示の中で言っておられる。「わたしの時が近づいた」(18節)。これは世の罪のためにご自身を犠牲としてささげる時である。この時のために、キリストは降誕された。

さて、いよいよ食事が始まる(20節)。時間は木曜日の夜6時を回っていた。午後に神殿でほふられた子羊の肉をもって、日没とともに食事が始まる。キリストを真ん中にU字型に横になった。三人一組で長椅子に身を横たえ、左腕のひじで頭を支え、右手を伸ばして食物を口に運ぶというスタイル。

食事の順番はわりと複雑である。最初に感謝のことばをもって、赤ワインを水で薄めた杯が回された。第二に、エジプトでの苦役を思い出して苦菜が配られた。第三に、種を入れないパン、スープ、過越しの子羊の肉等が出された。第四に、家長が祝福の祈りをして、苦菜をスープに浸して食べた(前菜)。第五に、第二の杯が注がれ、家長が過越しの祭りの意義をみなに教えた。第六に、賛美と祈りの後、先ほど注がれた第二の杯を飲み干す。第七に、家長が手を洗って、パンを取って裂き、祝福して食べる。第八に、一同が食事を始める。第九に、家長が子羊の肉切れを食べ終わった頃、第三の杯が回される。最後に、第四の杯が回され、ハレルヤ詩編である113~118篇が唱えられる(30節)。だいたいこういったパターン。

21節において、「みなが食事をしているとき」とあるが、これは今述べた八番目の行為、「一同が食事を始める」の場面に属する。イエスさまはこの場面で弟子の裏切りを予告している。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ります」。「あなたがたのうちのひとりが」と名指はしていない。ユダは16節からわかるように、すでに裏切ることを決意していたわけだが、名指ししないことによって、ユダに悔い改める機会を与えようとされたのだろうか。キリストは23節において、「わたしといっしょに鉢に手を浸した者が、わたしを裏切るのです」と暗示的なことを言われた。そもそも古代近東において一緒に食事をするというのは、親しさのシンボルであった。親しさという前提があるから裏切りという表現も生まれる。この「裏切り」という言葉は、ユダだけではなく、他の11人の弟子たちの心にも響いたであろう。この箇所をある方は次のようにコメントしている。「キリストがわざわざ十二弟子の面前で、『あなたがたのうちのひとり』『わたしといっしょに鉢に手を入れた者が、わたしを裏切ろうとしている』と切り出されたのは、ただユダのためだけを考えた話術ではありません。それは同時に、十二弟子のひとりびとりに、“わたしかもしれない”という驚きと反省を引き起こすためでした。それは明らかに31節で、『あなたがたはみな、今夜、わたしのゆえにつまずきます』と預言され、34節でペテロも、「今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います」と預言されて、弟子たちみなが同じ危険を予告されたことからも明らかです」。

22節で、弟子たちが、「主よ。まさかわたしではないでしょう」とかわるがわる言っていたときに、彼らは自分たちの心の弱さや罪深さをあまり考えずに、うぬぼれすぎていたのでではないだろうか。私たちは善良なクリスチャンを目指さなければならないと思うが、善良すぎるクリスチャンになってもいけない。善良すぎるというのは、すなわち自信過剰というか高慢という意味で。彼らはルカ22章24節を見ると、この最後の晩餐の席で、「この中でだれが一番偉いだろうか」という議論をしていたことがわかる。彼らは自分知らずだった。彼らは、この数時間後に、全員、キリストを見捨てることになる。聖餐式に与るクリスチャンはだれでも、主を見捨てたのは私かもしれない、いや私だ、私にちがいない、という反省と懺悔を繰り返さなければならない。この中で一番偉いのはだれだろうか、などというのはとんでもないことである。

キリストは24節で裏切りの罪の重さに心に留めさせている。私たちは様々な罪を目にする。遊興、淫乱の罪に興じる人や、強盗、殺人の罪に走る人たちは、自分はこんなことをするために生まれて来たのだろうか?と一瞬でも考えたことはないのだろうか。しかし、主を裏切るということもまた、何のために生まれてきたのだろうかという罪である。ユダは続く25節で偽善的な発言をしている。「先生、まさか私のことではないでしょう」。もうこの時すでに裏切ることに決めていたので、「まさか」ということばは、空しい響きしかもたない。「先生、まさか私のことではないでしょう」に対するキリストの返答、「いや、そうだ」(25節後半)の直訳は、「それは、あなた自身が言ったことだ」。キリストは、あなたが口に出したとおりだと言われる。並行箇所のヨハネ13章26節を見ると、キリストが鉢に浸したパン切れをユダが受け取って、ユダは退席して、夜の闇に消えていくことが記されている。仲間の弟子たちは、ユダがなぜ退席したのか知らずにいた。仲間の弟子たちはユダの偽善を見抜けないでいたが、キリストはそうでなかった。

キリストはユダが出て行ったあと、聖餐(主の晩餐)を制定される。そこで、これまでの契約にまさる新しい契約が結ばれる(26~29節)。27節前半の「また杯を取り、感謝をささげて後」の「感謝をささげる」<ユーカリステオー>から、この聖餐を「ユーカリスト」と呼んだりする。ここでの杯は先ほど紹介した過越しの食事の順番では、第九番目の、子羊の肉切れを食べ終わった後の第三の杯を回すことにあたるであろう。

ここから聖餐の意味についてお話させていただきたい。キリストはこの場面で、パンを取り、「これはわたしのからです」と言い、杯を取り、「これはわたしの契約の血です」と言っているが、これはどう捉えるべきだろうか。ローマカトリックは、一般に「化体説」と言うが、例えばパンを例にあげると、パンは文字通りキリストの肉に変化したとする。みかけや触感はそうでなくとも、実際にキリストの肉に変化したとする。キリストは聖餐の度ごとに、ご自身をいけにえとしてささげておられるのだと言う。これは聖書の真理に反する。罪を贖うためのキリストといういけにえは、あの一回の十字架で完全で十分なもので、それはくりかえしささげられる必要などない。またルーテル派は「共存説」を説く。これは、キリストはパンの中に、パンの下に、パンと在るのだとする考え方。パンにキリストは臨在している、パンを食べることによってキリストという聖体を食べる、というもの。これはパンそのものがキリストの体に変わったとみなすローマカトリックに近い。しかし、パンやぶどう液は、それは文字通りキリストに「変化」したとか、そこにキリストの霊が「浸透」しているということではなく、そのような魔術的な理解ではなく、それはキリストのからだと血の「象徴」とみなすべきである。しかし、聖餐式は、キリストとの霊的な交わりの場であることには変わりはない。聖餐の場に、キリストの臨在がある。パンとぶどう液はキリストと交わる手段となる。すなわち、パンとぶどう液は、みことばのような働きをし、私たちに祝福を与える。第一コリント10章16節に、「私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか」とあるように、パンと杯は私たちをキリストにあずからしめる。すなわち、聖餐はキリストとの実際的な交わりの時となるということ。まさしく、キリストを食べ、飲むような、一体とさせる親しい霊的交わりにあずからしめる。キリストのうちに、キリストの中に、キリストとともに、という霊的交わりの時となる。キリストの臨在と祝福にあずかる時となる。

最初のほうで、食事は古代近東においては親しさのシンボルであることを述べたが、まさしく、聖餐はキリストとの親しい交わりの時となる。キリストは聖餐を通し、ご自身をいけにえとして提供しているというのではないけれども、愛といのちに溢れたキリストは、聖餐を通し、私たちと親しく交わってくださり、祝福を与えてくださる。

もう一つ注目したい表現は「契約の血」という表現である(28節)。契約ということは旧約時代もあった。モーセが仲介して結んだ「シナイ契約」では、「主があなたがたと結ばれる契約の血である」という表現も登場している(出エジプト24章8節)。契約においてはどれも血が流された。血を流すことなしには罪の赦しはない。いのちが犠牲となり、罪の赦しがある。血はそのシンボルである。キリストは十字架の上で単に死んだのではない。血を流された。茨の冠を冠らされたその御頭から、むち打たれた裂け傷から、釘打たれた手足から、そして槍を突き刺された脇腹から。その血は聖く、罪人を贖うのに十分な価があった。それは神の血であるから。それは神のいのちそのものである。この血、キリストの血のみが、汚れ、腐敗し、堕落した人類に絶対的効力があるものである。この血に拠り頼む者に救いが約束される。キリストの血を自分の心とたましいに適用する者に救いがある。

この場面で特に思い出さなければならないのは、過越しの子羊である。出エジプトにあたって、子羊の血を自分の家の門柱とかもいに塗った家々は、エジプトに下るさばきからまぬがれた。それはキリストの血による救いの型であったわけだが、それを記念して過越しの祭りを守ってきた。しかし、キリストの十字架によって過越しの祭りは廃棄されたのである。今、私たちがすべきことは、キリストの血を信仰によって自分に適用すること(聖書の天と地と小口の赤い点の模様は、キリストが流された血を意味していると言われている)。キリストの血を自分に適用したら、キリストの十字架の贖いのみわざを記念して、この聖餐を守ることである。主ご自身がそのように定められたわけであるから。

最後に、聖餐という主との交わりを通して私たちがなすべきことを三つ挙げよう。私たちは聖餐を通して、まず第一に、過去を思い見る。私たちは十字架の下に立つ。そこで十字架を仰ぎ見る。キリストの十字架上での苦しみ、御父から見捨てられ、よみに下降するという苦しみ、それらはすべて私たちの罪のためであったと知る。十字架の上で流された血は私たちの罪の赦しと救いのためであったと知る。

第二に、現在の状態を思い見る。私たちはキリストによって救われている。私たちはキリストと一つとされている恵みにあずかっている。私たちはキリストとの交わりの中に入れられている。また私たちは神の子どもとされ、キリストを長子とする神の家族とされている。さらに、十字架のもとで私たちは一つとされている。年齢、生い立ち、性別、性格、気質、国境、そうしたことを越えて、同じキリストのからだと血にあずかる者として兄弟姉妹とされている。私たちはキリストにありて神の家族。

第三に、未来を思い見る。聖餐は主が再臨される時まで行うように定められた礼典である。聖餐は、主が再臨され、御国が完成する日を待ち望ませる。

このように、過去、現在、未来を貫いて、私たちの目は主キリストに注がれる。キリストが卑しくなり血潮を流される姿、キリストが両手を広げて私たちを招かれる姿、キリストが栄光に包まれて戻られる姿(アドベントはキリストの初臨ばかりではなく、キリストの再臨を思い見る時でもある)、こうした御姿に私たちの目は注がれる。何よりも、私たちは聖餐を通して、キリストの大きな愛を覚えることになる。十字架の愛に引き寄せられる時となる。このようにして、私たちは聖餐において、ありのままの姿で、キリストの御前に出ることが許され、交わることが許される。そして、キリストの愛と恵みの中で憩いを得ることが許される。