前世紀のこと、21世紀を迎えることはできないのではないか、とうわさされたことがしばしあった。戦争や災害を念頭に入れてのことであった。また偽預言も繰り返され、その度に人々は翻弄されてきた。私たちは24章から、イエスさまが世の終わりに起こることについて、どのように語っておられるのか、またどのような心構えが必要なのかを見ていこう。
今日の話のきっかけは、イエスさまが紀元70年のエルサレム神殿の崩壊を預言したことにある(1~2節)。これは紀元66年に始まったユダヤ戦役の結果として起こった。この戦いで60万人以上の死者と、それを上回る人々が捕虜として連れ去られることになる。エルサレムの威光のシンボルである神殿はローマ軍によって跡形もなく崩されてしまう。この神殿は高さが50メートルあり、3種類の大理石が使われ、金の装飾が施されていた。弟子たちは大きな石を切り出して造った頑強で壮麗な神殿が、がれきの山と化する話を聞いて、世の終わりの出来事のように思ったのかもしれない。また弟子たちは、イエスさまの再び天からお出でになる降臨について聞いていた(23章39節)。弟子たちはこれらのことを念頭に、オリーブ山でひそかに質問している(3節)。イエスさまはそれにお答えになる。イエスさまと十二弟子たちの間だけで取り交わされる話は、25章46節まで続く。すべて世の終わりに関する話である。
イエスさまは今日の箇所で、世の終わりの前兆として七つ語っておられる。順番に見ていこう。
1)「にせキリストの出現」(4,5節)。すなわち、偽メシヤの出現である。これまで偽メシヤは掃いて捨てるほど現れた。使徒の働き8章では、さっそく、「この人こそ、大能と呼ばれる、神の力だ」と言われる偽メシヤ・シモンが登場する。紀元二世紀には、シメオン・バル・コセバがメシヤの名乗りをあげ、ユダヤで独立戦争を起こしている。七世紀初頭には、ムハンマドがイエスより偉大な預言者と称して、イスラム教を起こした。その後もメシヤを自称する者たちによって、次々と宗教団体が乱立していく。異端、カルト宗教もたくさん生み出されていった。20世紀だけでも「わたしの名を名乗る者」、すなわち自分をキリストだと自称する者は、軽く100人を越えたと言われている。その中でも知られているのがロード・マイトレーヤで、スポークスマンたちによって宣伝され、再臨のキリストとして世界の舞台に出現する機を計っていると言われている。イエスさまは「人に惑わされないように気をつけなさい」と警告を与えておられる。奇跡、その他の不思議を見せたとしても、惑わされてはならない(第二テサロニケ2章9節)。
2)「戦争と戦争のうわさ」(6,7節前半)。このイエスさまのお話から遠くない将来、悲惨な結末をもたらすユダヤ戦役が起こる。でも、それで世が終わってしまうのではなかった。その後、各国レベルで人口が激減することになる戦争が繰り返し起きている。20世紀の世界紛争を調べると、世界で60箇所以上あった。原因はおおまかに四つに分けられ、①民族・部族対立②宗教対立③イデオロギー、派閥抗争④国家利益、外交上の対立。
近年の特徴としては、テロの件数が増加の一途をたどっているということ。2001年にはニューヨーク世界貿易ビルへの旅客機自爆テロがあった。首謀者と言われるビン・ラディンは、アメリカが自分たちの国益のために目をかけて訓練してきた男。裏切られたという話である。この年、2001年のテロ件数は約1900件であったが、2016年は1万5千件以上と、うなぎのぼりに増えている。最近はISによるテロが日常的に起きている。戦争と戦争のうわさは絶えない。第二次世界大戦時、世の終わりが来ると騒いでしまったキリスト者たちがいるが、イエスさまは、「気をつけて、あわてないようにしなさい」と注意を与えている。
3)「ききん」(7節後半)。使徒11章28節では、パレスチナ全域のことであると思われるが、クラウデオ皇帝の時代、紀元50年前後に大ききんが起こった事実が記されている。現代ではアフリカなどでのききんの情報を良く耳にするが、日本では昭和の時代に入ってからききんに遭遇していないので余り実感がないが、世界では食べものがなくて2秒に一人の割合で亡くなっているという実態が続いている。ききんの原因は、天変地異、国際紛争、国益から来る食糧操作等、原因は複雑になっている。計算では世界の人口を十分に養える食糧を生産できることになっているから、数字上では飢饉の問題は解決できる。しかし、いずれ、食糧生産は天候に左右されやすいという弱みがある。天候不順はききんに直結する。
日本で至上最大級の死者を出したのは「天明の飢饉」と言われる(1782~1785)。数十万人の餓死者を出した。津軽では農民が食糧のある秋田領に逃げ始めた。「明けて、天明四年正月早々、国境の山中で、多数の餓死者が発見された。佐竹藩に阻止された離散農民の大半が、飢えと吹雪のため倒れたものであった。四月から虻、蚊、蠅が夏場のように群れ、山菜、野菜で食いつないでいたところは、疫病が猛烈な勢いで広まり、多数の死者を出した」。別の資料にはこうある。「私が奥州に入ったのは天明六年の春なので、国も豊かになり、食べものもあるだろうと思っていたが、とんでもない。人々はあらたか餓死し、南部津軽の荒涼とした風景は、目もあてられないものだった。出羽の国、秋田を過ぎると、道端に骸骨や手足の骨が散らばっている。顔をそむけて通り過ぎたが、道を進むに従ってだんだん多くなり・・・。火葬した骸骨ではなく、生骨なので、牙歯もあり、婦人、子ども、老人、壮年、皆、見分けがついた。聞けば、南部津軽地方から出てきて、途中で行き倒れになったという。津軽に入ると、いたるところに人骨が散らばっていた」。この地方に生きる子孫のお話によると、「男子は十人のうち七、八人の割合で餓死、女子は十人中一人の割合で餓死。どこに行っても女性ばかりが目立ち、津軽南部の人種が絶えてしまうほどの大飢饉だった」。
4)「地震」(7節の後半)。調べると、教会時代の初期、パレスチナやヨーロッパでも地震が多かった。現代でも地震が世界で続いている。現在の大陸、島々の形状は、地震が形づくったものである。日本は地震大国なわけだが、日本は断層の上に乗っかっているので、いつ沈んでもおかしくない。大学の時、地震学を受講していたが、教授の話を聞いて感じたことは、大地震が来たら、もう何をやってもだめで、逃げようがないじゃないかということ。そして、地球規模の大地震が起こる可能性も高い。つまり、コマの原理で、地球の回転が鈍ってくれば揺れてくるわけである。地球もそういう時が近づいていると警告する科学者もいる。天体衝突説を唱える天文学者もいる。
イエスさまは、これまでのことを、「そのようなことは、産みの苦しみの初めなのです」(8節)と言われる。これはユダヤ人的表現で、ユダヤ人は、これまでの時代が終わってメシヤ時代に移る過程を出産にたとえ、その時に起こる苦痛を「メシヤの陣痛」と呼んでいた。それはメシヤに君臨する者が味わわなければならない苦痛であるが、またそれは神の民もともに味わわなければならない苦痛であった。イエスさまは、そうしたことを背景に、新しい世界への胎動を「産みの苦しみ」と呼ばれたのである。
5)「迫害」(9節)。迫害は近世では、キリシタンや天皇制が敷かれていた時代のクリスチャンがもろに体験したわけである。世の終わりにはすべての国がキリスト教国になるかのような発言をとる人たちがいるが、イエスさまはそうは言っていない。国家挙げての迫害があることを告げている。2016年の統計では2億1500万人のクリスチャンが迫害された。一番迫害が厳しい国は北朝鮮である。約40万人が地下教会で活動をしていると言われている。こうした国のために祈らなければならない。
6)「教会の背教と腐敗」(10~12節)。これが前兆であって欲しくない。しかし残念ながらそうなのである。10節から、キリスト者同志の対立がひどくなることがわかる。ほんの一例を挙げると、17世紀のこと、プロテスタントとカトリックの対立抗争で始まった三十年戦争で大ぜいの人が命を落とした。ドイツが主な戦場となった。戦禍、疫病、こうしたことで、ドイツの人口は1700万人から500万人まで激減したと言われている。プロテスタント内でも抗争があり、多数の死者を出した歴史がある。教会が人種差別やユダヤ人抹殺を正当化していた時代も長く続いた。また、クリスチャンが政府の手先となりクリスチャンを告発するという裏切りは、どの時代でもあった。日本では、日本の教会が朝鮮侵略を聖戦と位置付け、政府の手先となって現地に乗り込み、現地のクリスチャンを迫害に追い込むことをしていた。こうした背景には、教会の世俗化、偽りの教えの容認という問題がある。11節の「にせ預言者が多く起こって」という現状は今も変わらない。旧約聖書のにせ預言者の働きを見ると、大衆受けするメッセージで、罪、悔い改めは説かない。健康、富、繁栄のメッセージが目立つ。彼らは、これは神からのことばだと言って民衆を惑わした。現代でもにせ預言者は多くいて、これが神の教えだと言って人々を惑わしている。やはり大衆受けするメッセージで、罪、悔い改め、裁き、地獄等は余り口にしない。健康、富、繁栄のメッセージを得意とする。彼らは、はっきりとした聖書信仰には立たない。はっきりと聖書信仰に立つ教会は、日本では半分にも満たない。聖書に誤りを容認すると、必ず偶像崇拝、世俗化に向かう。自己中心を助長する。「不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります」(12節)と言われているが、これは教会外の人々のことだけが言われているのではなく、教会内のことも意識されてのことばである。聖書信仰を失うと不法がはびこっていく。自己中心が助長される。堕落していく。私たちは、聖書は客観的に誤りのない神のことばであるという古代教会から続く信念を曲げてはならない。たとい他の教会がどうであっても。みことばに立つ教会でなければならない。参考に、第二テサロニケ2章3節も開こう。「まず、背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないからです」。「背教」とはキリスト教の堕落のことである。「不法の人、すなわち滅びの子」とは、偽キリスト、偽メシヤのことである。
世の終わりはノアの時代の堕落の様相を呈してきて、腐敗と堕落が進み、残念ながら神を信じるという者たちも周囲に染まっていく。ノアのように、本当の意味で神に従おうとする者は戦いを覚えるだろう。「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます」(13節)と主は言われる。原文から、「最後まで耐え忍ぶ者、その者こそ、救われます」と訳すことができる。忍耐は無駄にならない。周囲に負けない忍耐が大事であるということが伝わってくる。
7)「全世界への福音宣教」(14節)。「すべての国民」の「国民」が正確には何を意味するかわからないが、すべての民族、部族を意識していいだろう。ここで、すべての人が信じて終わりが来るとは言われていない。「すべての国民にあかしされ」である。だから、教会の使命はすべての国民に福音を伝えることである。世界の各宣教団は、この節で言われている全世界への福音宣教や、マタイ28章、マルコ16章にある大宣教命令に従って、宣教を続けている。今世紀中に全世界への福音宣教は達成される見込みである。今年、ヒンズー教国家のインド宣教の報告を聞いたが、各宣教団、教会が協力し合い、インドのすべての民族、部族に福音を伝えるという目的が今年中に達成する見込みだと言う。インドではひどい迫害もあるわけだが、インドにもこのような時代がやってきたのだと感銘を受ける。福音がすべての国民にあかしされる日は、そう遠くはない。
私たちは、世の終わりの前兆の時代を生きていることはまちがいない。福音が国々にあかしされることが果たされようとしている時に、世の終わりが訪れ、主が再臨し、神の国が完成する。私たちは「御国が来ますように」と祈りつつ、福音を伝えていくことによって、その日を待ち望むことが許されている。待ちつつ、急ぎつつ、救われるべき神の民の数が満ちるまで、私たちは自分の分を主の前に果たしていきたい。キリスト教が宣べ伝えられていない地域を「未伝地」と呼ぶわけだが、そのような地は、今、少なくなっている。しかし、統計上、日本ではクリスチャンが余りに少ないため、世界最大の未伝地と呼ばれている。日本ではプロテスタントに属するクリスチャンが、人口の0.4パーセントに過ぎない。カトリックと併せても1パーセント未満。北朝鮮でさえ人口の1パーセント以上いるのに。韓国では25パーセントがクリスチャン。中国では地下教会の人たちを含めると、総人口の5パーセントがクリスチャン。中国のクリスチャン数は今世紀中にアメリカを越えるという予測を立てている人もいるほど。それに対して、日本はほんとうに未伝地のような状況。私たちは主によって、この日本に遣わされている者たちとして、聖霊の助けをいただいて、主にお仕えし、主の手、足、口となって、同胞の救いを願っていきたい。そして私の強い願いは、皆様が背教に巻き込まれないこと。わずかの誤りの教えにも決して妥協しないことである。